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2026年3月30日 主日礼拝説教用紙 溝口寛師

説教要旨:苦難のしもべ—イエスの生涯と苦難
聖書箇所:マルコによる福音書15章1節〜5節、イザヤ書52章13節〜53章12節

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救い主としての〈主のしもべ〉

イザヤ書52章13節から始まる第4の〈主のしもべの歌〉は、救い主の身代わりの死と苦難を詳細に預言しています。キリスト教会は伝統的に、このしもべを預言の750年後に来られたイエス・キリストであると受け取ってきました。これは新約聖書の記者や弟子たちの信仰とも一致する、救いの計画の根幹です。

「悲しみの人」としての姿(イザヤ書53章2〜3節)

このしもべは、世の王のような華やかな姿ではなく、むしろ顔立ちが損なわれ、見るべき美しさも威厳もない存在として描かれています(53章2節)。人々が顔を背け、忌み嫌うほどの「悲しみの人」として辛酸をなめられたのは(53章3節)、人間のあらゆる悲しみを引き受け、不遇な人々の真の友となるためでした。

身代わりの苦難と癒やし(イザヤ書53章4〜6節)

福音の核心は、この苦難が「我々」のためであったという身代わりの事実にあります。私たちは羊のように迷い、自分勝手な道を歩んでいましたが、神は私たちのすべての不義をイエスの上に置かれました(53章6節)。彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされ、彼が懲らしめを受けることで私たちに平安が与えられたのです(53章5節)。

沈黙の意味と救いの成就(マルコ15章1〜5節、イザヤ書53章7節)

ピラトの前でイエスが守られた沈黙は(マルコ15章4〜5節)、ただ何も言わないことではありませんでした。「口を開かなかった」というイザヤの預言(53章7節)が成就したように、自ら弁明する道を閉じ、苦難をそのまま引き受ける決意の現れでした。ご自身を余すところなくなだめの供え物として捧げることによって、神の御心が成就し、多くの人が義とされる道が開かれたのです(53章11節)。

結論と勧め:仕える者としての歩み(マルコ10章45節)

受難週を迎えるにあたり、私たちは主のために何を犠牲にしてきたかが問われています。キリスト者は、誤解や辛いことを避けるのではなく、それらを徹底的に受け止めて従われた主の姿に倣う者です。主が「仕えるために来た」と言われたように(マルコ10章45節)、私たちも苦難を伴う仕える歩みへと新しく召されています。