• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2026年5月31日 主日礼拝 説教要旨 溝口かね子師

説教題ラオディキア教会から学ぶこと
聖書箇所ヨハネの黙示録3章14-22節

1. ラオディキア教会の背景と「生ぬるさ」への警告

ヨハネの黙示録に記された7つの教会のうち、最後の一つであるラオディキアの教会へのメッセージは、21世紀に生きる私たちの教会や信仰の状態を映し出す鏡であると言われています。この教会の主であるイエス・キリストは、「アーメンである方」「誠実で真実な証人」としてご自身を示されました。

主はラオディキア教会に対し、「あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ冷たいか熱いかどちらかであってほしい」と語り、その「生ぬるい」状態を厳しく戒め、口から吐き出そうとしていると告げられました。この「生ぬるさ」という表現は、当時の地理的状況に基づいています。ラオディキアの地には、冷たい山の水と温かい温泉水が合流してぬるくなる場所があり、その物理的な状態が、信仰の妥協した姿を象徴するために引用されました。

2. 自負と霊的な現実の乖離

ラオディキアの町は、金融、黒い羊毛、そして有名な目薬の製造などで非常に栄えた裕福な場所でした。そのため、教会員たちは「自分は金持ちだ、満ち足りている」と自負していました。しかし、神の目から見た彼らの真の姿は、「惨めなもの、哀れなもの、貧しいもの、目の見えないもの、裸なもの」でした。

物質的な豊かさに甘んじるあまり、神の御言葉に真剣に向き合い、忠実に従おうとする熱意を失っていたのです。自分の本当の姿がわかっていない、この「霊的な盲目」こそが最大の問題でした。

3. 神が勧める「真の富」と「霊的な癒やし」

主は、この惨めな状態から抜け出すために、以下の三つを「私(神)から買うが良い」と勧められました。

火で精錬された金——試練を経て練り上げられた、真に神に喜ばれる純粋な信仰。

白い衣——裸の恥(罪)をさらさないための、罪の赦しと救いの確信。

目に塗る薬——自分自身の罪の姿を正しく認識し、神の真理を見るための霊的な眼力。

これらは、人間的な努力や財力で手に入るものではなく、聖書の言葉という鏡を通して自分の姿を知り、悔い改めてイエス・キリストを救い主と告白することによってのみ得られるものです。

4. 熱い信仰の模範——パウロとペテロ

説教の中で、師は「熱い信仰」と「変えられた信仰」の例として、使徒パウロとペテロを挙げました。

パウロはかつて、クリスチャンを激しく迫害する「冷たい(敵対的な)」者でしたが、復活したイエスと出会い、180度転換して「キリストのために死ぬことも厭わない」熱心な伝道者へと変えられました。ペテロは失敗や後悔を経験しながらも、常にイエスに対して率直で熱い心を持って従い続けました。

これに対し、現代の多くの人々は、どの道から登っても頂上は同じだという考え方に陥りやすい傾向があります。しかし、聖書はそのような二股の信仰を認めません。神の御言葉に対して、本気になって信じ、従うことが求められています。

5. 扉の外で叩く主への応答

最後に、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」という御言葉が語られました。この言葉は、未信者だけでなく、第一に「教会に通っている信徒」に向けられたものです。この扉には外側に取っ手がなく、内側からしか開けることができません。神は無理やり心に押し入ることはせず、私たちの自由意志を尊重されます。

私たちが自ら扉を開け、「イエス様、お入りください。私は悔い改めます」と告白するなら、主は中に入って共に食事をし、深い親交を持ってくださいます。現代という「生ぬるい」時代にあって、私たちは御言葉によって自分を照らし出し、熱いものとして主をまっすぐに見つめ、従い続けることが求められています。