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1. 「世の光」としての宣言
前回は、姦淫の現場で捕らえられた女性の出来事から「赦し、回復、前進」について学び、私たちは皆赦されるべき存在であり、光の中を前進しようと分かち合いました 。今朝の御言葉では、イエス様ご自身が「わたしは世の光である」と宣言された場面に目を留めます 。
この舞台は、十字架の約半年前に行われた「仮庵の祭り」です 。この祭りでは、かつてイスラエルの先祖が荒野の旅で神の臨在(雲の柱・火の柱)によって守り導かれたことを記念し、婦人の庭に巨大な燭台が灯されました 。その光が夜の闇を照らし出す中で、イエス様は「わたしこそが、今あなた方を守り導く神、世の光である」と力強く宣言されたのです 。これに従う者は、決して暗闇を歩むことなく、命の光を持つことができます 。
しかし、ファリサイ派をはじめとする宗教指導者たちは、この光を拒絶しました 。彼らは「自分一人の証しは真実ではない」と律法を盾に揚げ足をとり 、さらにはイエス様の出生にまつわる噂を引き合いに出して皮肉を言いました 。
彼らは人間の作った口伝律法や外側の形式にとらわれ、自分たちの立場を守るために、偏った「肉の裁き」を行っていたのです 。目に見える外側だけで判断し、本質を見失う姿は、現代の私たちにも通じる弱さです 。これに対してイエス様は、外見ではなく心をご覧になる父なる神が共に証しをしておられるがゆえに、ご自身の裁きと正当性は完全に真実であると明確に示されました 。
私たちはかつて罪の奴隷であり、闇の力に支配されていました 。しかし神様は、キリストの十字架の贖いによって私たちを光の支配下、真の自由へと移してくださいました 。
私たちは日々の生活の中で、つい自分を過信したり、目に見える神以外のものに頼ったりして、御心からそれてしまいがちです 。また、心に大きな問題を抱えて思い煩うこともあります 。しかし、神様はその問題よりもはるかに大きなお方です 。フィリピの信徒への手紙4章6〜7節にあるように、すべての思い煩いを感謝の祈りに変えて神様に打ち明けるとき、人知を超える神の平和が私たちの心を守ってくださいます 。弱さや重荷があっても、キリストの懐に飛び込んで信頼し従うとき、私たちは不思議な平安に支えられ、その命の光を周囲に放つことができるのです 。
イエス様は山上の説教で「あなたがたは世の光である」とも言われました 。私たちは自分自身の力で光るのではなく、キリストの光を受けて世に反射させる存在です 。日々の生活の中で正直であり、親切であり、人を赦し、互いに助け合うという誠実な歩み(立派な行い)を通して、周囲の人々は天の父を見上げるようになります 。あるクリスチャン家族の生き方を37年間見続けた母親が、高齢になって「これは本物だ」と信仰に導かれた素晴らしい証しもあります 。
この暗い時代にあって、一人一人の光は小さくても、キリストの体である教会として共に集まり、心を合わせて祈るとき、大きな光となって地域を照らすことができます 。日々のデボーションや夫婦・家族での祈り、そして教会の祈祷会に連なり、聖霊の助けを求めながら御言葉に従っていきましょう 。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
この約束の御言葉をしっかりと握りしめ、来るウエルカム礼拝やフードパントリーなどの働きを通しても、この地域にキリストの豊かな光を届けてまいりましょう 。