• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2026年6月28日 ウエルカム礼拝説教要旨

説教題:家に帰ろう!―父の待つ愛
聖書箇所:ルカによる福音書 15章11-24節(新共同訳新約196頁)

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中心成句:ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。」(15章18節)

今日はウエルカム礼拝です。初めて来られた方も、久しぶりの方も、ようこそ。「家に帰りたい」と切実に思ったことはありませんか。大勢の人の中にいても孤独を感じる時、成功しているはずなのに夜一人になると空虚な時、私たちは雨風をしのぐ場所ではなく、ありのままの自分が受け入れられる「本当の居場所」を求めています。ドイツの詩人ノヴァーリスは「哲学とは郷愁である、どこにいてもわが家にいたいという衝動だ」と言いました。これは哲学の言葉ですが、聖書はその感覚の根っこをさらに深いところで指摘します。私たちが「命のふるさと」である神様から離れてしまっているからだ、と。「帰りたい」という叫びは、人間の魂に刻まれた神への渇きなのです。

①自分の居場所を問い直す(11-13節)

弟息子が父に「財産の分け前をください」と要求しました。当時のユダヤ社会でこれは「早く死んでください」と言うのと同義の暴挙でした。しかし父は黙って財産を分け与えた。息子は「遠い国」へ旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしました。これは私たち自身の姿です。神様から命も時間も才能も与えられているのに、いつの間にか「自分のものだ」と思い込む。これが聖書の言う「罪」の姿です。ギリシャ語で「ハマルティア」、的を外れるという意味です。殺人や盗みではない。ただ「神なしで生きていける」と思った瞬間から、すでに的を外れていた。根から切り離された花のように、その自由はやがて枯れる運命にありました。

②どん底が、目を覚まさせる(14-19節)

金が底をつき、飢饉が重なり、ユダヤ人が汚れた動物とみなす豚の世話をして食いつなぐしかなくなりました。どん底です。聖書は神がこの飢饉を与えたとは言っていません。しかし神は、人間の自由な選択の結果として起きたことをも、ご自分の目的のために用いられます。何もかも失った時、初めて「父の家」が見えた。「我に返って」という言葉は直訳すると「自分自身のところに来る」です。虚飾が剥がれ、ありのままの自分と向き合った瞬間です。彼は帰ることを決意しますが、「雇い人として使ってもらおう」という計算がまだ残っていました。悔い改めの動機は不純でした。父の愛の深さを、まだ分かっていなかったのです。

③父は、すでに走り出している(20-24節)

クライマックスは20節です。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、走り寄って首を抱き、接吻した」。当時のパレスチナで地位ある老人が人前で走るのは恥とされていました。なりふり構わず走った父の姿は、許しがすでに「用意」されていたことを示します。許しは息子の謝罪の結果として与えられたのではなく、父の側の決意として最初から整っていた。父は一番良い服、指輪、履き物で息子を「雇い人」としてではなく「息子」として完全に回復させました。これが「恵み」です。ふさわしくない者に与えられる一方的な愛です。しかしなぜ父はただで赦せたのか。ヨハネ3章16節が答えます。神は御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちの罪の代価を十字架で引き受けられました。神の義が赦しを妨げていた。その義を十字架が満たした。だから恵みが流れ出たのです。

今日、三つのことを学びました。私たちは神から離れ、的を外れた生き方をしてきた。しかしどん底の中でも神は働かれ、我に返る機会を与えてくださる。そして父は、私たちが「まだ遠かった」時にすでに走り出しておられる。あなたは今、「雇い人として雇ってもらえれば十分だ」と考えながら神に近づこうとしていませんか。善いことを積み上げれば認めてもらえると思っていませんか。父の準備は完全に整っています。ただ、息子も歩き出す必要がありました。恵みは一方的ですが、受け取るかどうかはあなた次第です。あなたがどれほど遠くへ行っていたとしても、神様は過去を理由にあなたを拒みません。必要なのはただ一つ、「お父さん、ただいま」と言う勇気だけです。今日、この場所から、父のもとへ帰る第一歩を踏み出しませんか。