• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2026年6月7日主日礼拝説教要旨 伏見敏師

説教題:迫害の中の希望
聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙二 1章1-12節(新共同訳新約380頁)

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中心成句:「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」(1章3節)

今日からテサロニケの信徒への手紙二を講解で学びます。西暦50年頃、第一の手紙から数か月後に書かれたこの手紙は、激しさを増す迫害の中で揺れ動く教会に向けて、「神は今、何をしておられるのか」という本質に語りかけます。誠実に生きるほど損をし、悪しき者が栄えているように見える。そんな現実の中で、パウロは慰めだけでなく、神の正しさを正面から語ります。今日は「迫害の中の希望」と題してご一緒に学びます。

①神とイエスに結ばれている(1-2節)

1節でパウロは教会をこう呼びます。「神と主イエス・キリストに結ばれているテサロニケの教会へ」。原語の「結ばれている」は「エン(の中に)」という短い言葉です。教会のアイデンティティは人数でも評判でもなく、「誰の中に置かれているか」によって決まります。デジタルのつながりがどれほど広がっても人の孤独が消えない時代に、この宣言は根本的な足場を示しています。どんな嵐が来ようとも、神の中に置かれているという事実は変わりません。2節の「恵みと平和」も決まり文句ではありません。迫害の真っ只中にいる人々への言葉です。この平和は状況が整ったから生まれるものではなく、神とつながっているところから湧き上がる魂の安らぎです。礼拝のたびに「自分が誰に属しているか」を確かめ直すことが、揺るがない歩みの土台となります。

②苦しみが信仰を育てる(3-5節)

パウロが感謝するのは迫害が終わったからではありません。「信仰が大いに成長し」「互いへの愛が豊かになった」からです。「大いに成長し」は通常の成長の限界を超えた様子を表す強い表現で、この驚くべき成長は平穏な時ではなく激しい圧力の下で起きていました。植物が岩の隙間で根を張るように、真の信仰は試練の重圧の下でこそ育ちます。ヤコブ1章3節「信仰が試されることで忍耐が生じる」は、テサロニケの教会で現実に証明されました。5節の「証拠」は原語で「エンデイグマ(明らかに示されたもの)」。苦難に耐えながら信仰が育ち愛が豊かになっている、その二つが重なって初めて神が確かに働いておられるという証しになります。神の国にふさわしい者とされるのは人間の頑張りではなく、神が苦難という炉を通して行われる聖化のわざです。苦しみの中で問うべきは「なぜ」ではなく「神は今、この試練を通して何を育てようとされているか」です。

③終末の希望に生き、祈る(6-12節)

「神は正しいことを行われます」(6節)。悪を裁き善を報いる、その両方が本当でなければ完全な正義とは言えません。裁くのは私たちの仕事ではなく、正義を神に委ねるからこそ私たちは自分で手を下さずにいられます。9節の「永遠の破滅」とは神との関係から完全に切り離されることです。愛する力、喜ぶ力、良心の声はすべて命の源である神とつながっているから存在します。だからパウロはここで怒りを煽るのではなく、「今、神とつながっているうちに恵みを受け取りなさい」と切実に招いています。10節で来るべき日の栄光を語ったパウロは、そこで終わらず11節で祈りへと向かいます。終わりへの確信が今日の祈りを生み出します。祈りの内容は二つ。「招きにふさわしい者としてくださること」と「善を求める願いと信仰の働きを成就させてくださること」。どちらも神の力によるのであって人間の頑張りが出発点ではありません。モニカが息子アウグスティヌスのために十七年以上祈り続けたように、答えが見えなくても名前を挙げて祈り続けることができるのは、成就させるのが神ご自身だからです。終わりの日は怖がらせる材料ではなく、礼拝と忍耐と希望を強める燃料です。
今日、三つのことを学びました。神とイエスに深く結ばれていること、苦しみが信仰を育てること、終末の希望に生き名前を挙げて祈ること。この三つは連動しています。神に結ばれているからこそ苦しみに耐えられ、耐える中で信仰が育ち、育った信仰が来るべき日への希望となり、その希望が今日の祈りを生み続けます。同じ聖霊が今も私たちと共におられます。迫害の中で揺るがなかったテサロニケの教会のように、ここ八街の地で希望をもって歩んでまいりましょう。