• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2026年7月12日主日礼拝説教要旨 伏見敏師

説教題:主に祈り、守られ、導かれて
聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙二 3章1〜5節(新共同訳新約381-382頁)

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中心成句:しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。(3章3節)

7月第二主日、テサロニケの信徒への手紙二の講解も四回目を迎えました。前回は2章13〜17節から「揺らぐ日も、愛されて立つ」と題し、神の愛はそのまま包む、栄光という終着点を見つめて歩む、小さな善い働きへ向かう、という三つを聞きました。今日は続く3章1〜5節です。「使徒パウロ」と言えば、嵐にも難破にも屈せず、ローマ皇帝の前でも福音を語った強靱な人物という印象があります。ところがその人が、今日の箇所ではまず「わたしたちのために祈ってください」と率直に願っています。どれほど強い信仰者も、祈りに支えられることなしには歩めない。教会の働きは一人の強さではなく、互いに祈り合う群れの中で進みます。この短い五節から三つのことを聞きましょう。

①祈りの内容を点検する(1〜2節)

パウロが最初に願ったのは、自分の健康でも旅の安全でもなく、「主の言葉が速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」ということでした。「速やかに宣べ伝えられる」というギリシア語には「走る」という動詞が使われています。福音はじっとしているものではなく、走るもの、広がるものです。そして「あがめられるように」という願いは、単に多くの人に伝わればいいという話ではありません。人々が御言葉を神の言葉として受け止め、その前に心を低くする。そこまでを見据えた願いです。ところが2節では厳しい現実が語られます。「道に外れた悪人どもから逃れられるように」と。どれほど誠実に伝えても受け入れない人がいる。これはパウロの冷静な認識です。三十年間福音を語り続けたある伝道者は、特に家族に伝えようとしたとき距離を置かれ、「自分の伝え方が悪いのか」と悩み続けました。そんな彼が「すべての人に信仰があるわけではない」という言葉にぶつかり、信仰は神が与えるものであって自分が作り出せるものではないと気づかされたそうです。自分のことだけで祈りが終わっているなら、教会の祈りは少しずつ内側に閉じていきます。「主の言葉がこの町に広がりますように」という祈りが加わるとき、教会は外へと開かれていきます。今日まず覚えたいのは、自分の祈りの中に「御言葉が走るように」という願いがあるかどうか、具体的に確かめてみることです。

②主の真実さに目を向ける(3〜4節)

「すべての人に信仰があるわけではない」と言った直後に、パウロは「しかし、主は真実な方です」と続けます。人は裏切ることがある。疲れ、恐れ、時には敵対することさえある。それは事実です。けれどもそこで終わらない。人がどうであっても、主は真実であられる。パウロは「あなたの信仰が強いから大丈夫」ではなく、「主が真実だから大丈夫」と言っています。「強める」は柱をしっかり据えるイメージ、「守る」は盾のように前に立つイメージです。4節の「主によって確信しています」も、テサロニケの人たちの能力を信じているのではなく、彼らの中に働かれる主を信じているという意味です。長年、夫の信仰のために祈り続けたある姉妹は、何十年も届かない現実に疲れ果てて「主は本当に真実なのですか」と祈った夜、聖書を開いてこの言葉に出会いました。数年後、夫は洗礼を受けました。「主の真実は、私の諦めよりも長く続いた」と、彼女は静かに語ってくれたそうです。祈っても変わらない、伝えても届かない、そういうとき「自分の信仰が足りないのか」と責めてしまいがちです。しかしパウロが言っているのは、大丈夫な理由は主が真実だからだということです。自分の状態ではなく、主の性質に目を向け直す。それが出発点です。

③神の愛とキリストの忍耐を受け取る(5節)

最後にパウロは祈ります。「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」「深く悟らせてくださるように」は、知識だけでなく、心の向きそのものが整えられることを願う言葉です。神の愛が大切だと知っていても、心は人の評価に向いてしまう。忍耐が必要だと分かっていても、焦り、苛立ち、投げ出したくなる。だからパウロは「頑張って愛しなさい」でも「もっと忍耐しなさい」でもなく、「主が深く悟らせてくださるように」と祈るのです。神の愛とは、私たちが先に愛したからではなく、神が先に私たちを愛してくださった愛のこと。キリストの忍耐とは、十字架への道を退かず、弟子たちの鈍さにも人々の敵意にも耐え、最後まで父に従い通されたあの忍耐であり、同時にその忍耐が私たちの内にも贈り物として注がれていくということです。種を蒔いたその日に芽は出ません。しかし土の中で、ちゃんと起きていることがあります。見えないからといって、何も起きていないわけではない。もっと頑張らなければ、もっと立派でなければと思い始めたとき、それは神の愛という出発点から離れているサインです。そういうときこそ、自分を責めるのではなく、「神が先に私を愛してくださった」という原点に戻ることです。

今日、三つのことを学びました。祈りの内容を点検する。自分や家族のためだけでなく、「御言葉が走るように」という祈りが自分の中にあるかどうかを確かめること。主の真実さに目を向ける。祈っても変わらない現実の中で、自分の信仰の弱さを責める前に、主が真実であられることに立ち返ること。そして神の愛とキリストの忍耐を受け取る。義務感や恐れに引っ張られそうになったとき、神が先に私たちを愛してくださったという原点に戻ること。この箇所全体を通じて見えてくるのは、教会の希望は人間の立派さにはないということです。希望は主にあります。主の言葉が進むこと、主が守ってくださること、主が心を導いてくださること。すべての中心に主がおられます。どうかパウロのこの祈りを自分たちの祈りとして、この一週間を歩んでまいりましょう。