説教題:慰めは流れる―苦難の中の希望
聖書箇所:コリントの信徒への手紙二 1章1〜11節(新共同訳新約)
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中心成句:神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(1章4節)
パウロはこの手紙を、喜びからではなく深い苦しみの中から書き始めています。「生きる望みさえ失った」と語るほどでした。それでもまず神を賛美するところから始めています。今朝は三つのことを聞きましょう。
①苦しみの中にも、神はいる(1〜5節) 挨拶の言葉である1、2節で、パウロが立ち返った土台は「神の御心」でした。生きる望みを失うほどの状況の中でも、自分を傷つけた相手を「聖なる者」と呼び、恵みと平和を祈ることができたのは、環境が変わったからではなく、自分を包む神の愛を見つめ直したからです。「慰め」というギリシア語には「そばに来る」という意味があります。遠くから同情する言葉ではありません。3節から7節の間だけで、この言葉は原語で十回近く繰り返されます。4節の「あらゆる苦難に際して」という一言は、軽い苦難だけを指しているのではありません。長年、病気の夫を自宅で介護していたある女性は、誰にも言えない孤独を抱えていました。眠れないある夜、開いた聖書にこの4節の言葉が目に入り、「自分の苦難は神に見えていなかったのではなく、神はここにいてくださった」と気づいたそうです。5節にあるように、苦しみもキリストにあり、慰めもキリストにあります。苦しみがあるから神に見放されたということにはなりません。
②存在自体が、慰めになる(4節後半、6〜7節) 教会とは、慰めを受けた人たちが集まる場所です。それぞれ別々の苦しみを通ってきた者同士だからこそ、互いに慰め合うことができます。慰めは神から来て、人を通り、また別の人へと流れていきます。7節でパウロが「希望は揺るぎない」と言う根拠は、コリント教会に問題がなかったからではなく、苦しみも慰めも共にしてくれていると知っていたからです。ある若い母親が赤ちゃんを亡くしたとき、多くの人が言葉を失う中、かつて同じように子どもを亡くした高齢の女性が、何も言わずにただ手を握って長く座っていました。若い母親は後に、「あの時間が一番の慰めだった」と語ったそうです。言葉ではなく、その人がかつて同じ谷を通り、そこから生きてきたという存在そのものが慰めでした。
③昨日の恵みが、今日の土台になる(8〜11節) 8節でパウロは「生きる望みさえ失ってしまいました」とありのままを記しています。信仰者は絶望してはいけないという雰囲気が教会にはあることがありますが、パウロでさえそこを通りました。9節の「死の宣告を受けた思い」が転換点です。パウロはそこで何かを失ったのではなく、「自分を頼りにすること」を手放しました。ローマ市民権も、学識も、伝道の経験も、死の宣告の前には無力でした。そのとき初めて、「死者を復活させてくださる神」に頼るところへ導かれたのです。10節で、過去にすでに救ってくださったという事実が、今とこれからへの信頼の土台になっています。これは楽観主義ではなく、現実を直視した上での告白です。11節でパウロは「祈ってください」と頼みます。どれほど恵まれた奉仕者も一人では立てません。祈りは受け身の慰めではなく、実際の援助です。そして最後の言葉、「多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになる」の通り、慰めは最終的に神への感謝へと向かいます。神が慰め、人が慰められ、その慰めが他者へ流れ、感謝が神へと帰っていく。これが礼拝の流れです。
まとめ 苦しみの中にも神はいます。存在自体が慰めになります。昨日の恵みが今日の土台になります。私たちにも、隠したい苦しみや、孤独に感じる夜があります。しかし神はその只中に来てくださり、その慰めを私たちを通して、また誰かへと流してくださいます。