説教題:神はいつも「はい」と言ってくださる
聖書箇所:コリントの信徒への手紙二 1章12〜22節(新共同訳新約325-326頁)
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中心成句:神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。(1章20節)
パウロは訪問の予定を変更したことで、「口先だけの人間だ」と批判されました。狙いはパウロの言葉そのものの信用でした。パウロはこの批判にただ弁明するのではなく、そこから神はどういう方か、十字架で何が起こったか、聖霊が何をしてくださっているかへと話を広げていきます。三つのことを聞きましょう。
①人の目より、神の前の自分を見る(12〜16節)
パウロは「人間の知恵」ではなく「純真と誠実」によって行動してきたと言います。純真とは裏表がないこと、誠実とは神からいただいた誠実さです。良心が証しするというのは、神の前での証言だということです。パウロはコリントに二度立ち寄る計画を立てていたほど、コリントの人たちを大切に思っていました。予定変更はコリントを軽んじたからではなく、むしろ逆でしたが、結果として批判されました。誰かに誤解されたとき、立ち戻る場所は一つ、神の前で誠実だったかを確かめることです。
②うまくいかない時は、十字架を見上げる(17〜20節)
「然り」と「否」が同時に成り立つのは、一貫性のない状態のことです。パウロは自分がそんな人間なのかと問いかけます。答えの根拠はパウロの人柄ではなく、「神は真実な方だ」という事実にあります。キリストは然りと否が入り混じった方ではなく、然りだけが実現した方です。神の約束はすべてキリストにおいて然りとなりました。だから私たちは「アーメン」と唱えます。この「はい」が最もはっきり現れているのが十字架です。状況が見えないときも、答えが来ないと感じるときも、神の「はい」はもうキリストにおいて実現しています。
③聖霊は、もう与えられている(21〜22節)
神は私たちを四つの仕方で確かなものにしてくださいました。キリストに固く結び付け、油を注ぎ、証印を押し、保証として聖霊を与えてくださったのです。油注ぎは旧約の王や祭司が立てられたしるし、証印は「あなたは私のものだ」という宣言、聖霊は将来の救いの手付金です。対立していたはずのパウロとコリントの人たちも、実は同じ神の同じ恵みの中にいます。この恵みは今、私たちの教会にも同じように注がれています。教会が一つでいられるのは、人間の努力ではなく神がそうしてくださっているからです。
まとめ
人の目より、神の前の自分を見ること。うまくいかない時は、十字架を見上げること。聖霊は、もう与えられていること。日々の生活では、人の評価を気にし、状況に心が揺れ、自分の弱さを感じることがあります。しかし神は、そのような私たちになお変わらぬ「はい」を告げてくださっています。