説教題:御国が来ますように(文責:伏見敏師)
聖書箇所:マタイによる福音書 6章9~10節 、ルカによる福音書 17章20~30節
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私たちは礼拝ごとに「主の祈り」を唱えます。しかし、その祈りが本当に自分の心からの願いとなっているでしょうか。本日は、主の祈りの第二の願いである「御国が来ますように」という言葉を通して、神の国とは何か、また私たちはどのように生きるべきかを学びます。
「御国」とは、神の国、すなわち神のご支配を意味します。一般に天国というと、死後に行く遠い場所や、空想上の世界を思い浮かべがちです。しかし、聖書が語る神の国は、それだけを意味しません。主イエスは、「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」と言われました。キリストがこの世に来られたことによって、神のご支配はすでに地上にもたらされています。神を信じ、罪を赦され、神を天の父と呼ぶ者の生活のただ中に、神の国は現実に存在するのです。
家庭や職場、教会や社会も、そこに不信、争い、妬みが支配すれば、地獄のようになります。しかし、信頼と愛、憐れみと赦しによって結ばれるなら、そこには神の国の姿が現れます。神の国とは、単なる領域ではなく、神の臨在とご支配があるところです。私たちは日常生活のただ中で、神のご支配を受け入れ、神の国を生きるように召されています。
同時に、神の国は未来に完成するものでもあります。主イエスは、終わりの日に人の子が再び来られ、その日が神の裁きの日となることを語られました。ノアの時代やロトの時代、人々は食べ、飲み、買い、売り、植え、建てるという日常生活を続けていました。しかし、その日常の中に埋没し、神の前に立つ時が来ることを忘れていたのです。日々の衣食住、家庭、仕事、教育は大切です。しかし、それらが心のすべてを占め、神と終末の現実を忘れるなら、そこに大きな落とし穴があります。
今日、世界には戦争と対立が続き、核兵器によって人類と地球全体が滅びかねない危機さえあります。戦争は悪いと誰もが言いながら、なぜ争いはなくならないのでしょうか。その根には、「私が一番でなければならない」「自分の願いのためなら他人が苦しんでもよい」という人間の自己中心性、聖書が言う罪があります。個人のエゴが国と国との争いへと拡大し、強い国が弱い国を支配し、歴史は争いの歴史となってきました。人間の知恵や哲学だけでは、この罪の問題を解決できません。私たちは聖書に立ち返り、主イエスの教えに立ち返らなければなりません。
だからこそ、「御国が来ますように」という祈りは、単なる観念や現実逃避ではありません。第一に、私たちの生活の中に神の愛と恵みのご支配が豊かに現れるように祈ることです。第二に、終末における神の国の完成を待ち望み、その到来が速やかであるように祈ることです。そして第三に、一人でも多くの人がキリストの救いにあずかるよう、福音を伝えることです。
私たちは小さく弱い存在で、大きなことはできないかもしれません。それでも、世界の危機に目を閉じず、平和のために祈り、必要な時には勇気をもって発言しなければなりません。主は私たちを「地の塩、世の光」として置かれました。神の国を待ち望む者は、同時にこの地上で神の国のしるしを生きる者です。主の祈りを自分自身の祈りとして、「御国が来ますように」と真剣に願い、神のご支配の中を歩み、平和のために仕えていきましょう。