• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年4月21日主日礼拝

説教題:サマリヤの女~私を信じなさい~ 聖書箇所:ヨハネによる福音書4章16-38節     

4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」4:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。4:31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、4:32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。4:33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。4:34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。4:35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、4:36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。4:37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

おはようございます。久しぶりのヨハネ福音書からです。前回は、1月28日にバプテスマのヨハネの弟子たちが、イエス様の弟子が増え、バプテスマを授けていることに嫉んだところから「天声聴従」と題して、主に聞き従う恵みを見てきました。聞き従うことは祝福のカギです。今日はそのあとの、イエス様とサマリヤアの女のやり取りを見ていきましょう。朗読していただいた個所は一部です。全体は1から42節です。

4:1 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、4:2 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。4:5 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 イエス様がバプテスマのヨハネよりも多くの弟子を持ち、バプテスマを授けているということがパリサイ人たちの耳に入り、彼らは、バプテスマのヨハネを警戒したように、それ以上にイエス様の働きが拡大していることを恐れた。イエス様はそのことを知り、パリサイ人との不要な衝突を避けるために、ユダヤ地方を去り、ガラテヤ地方に退かれます。ユダヤからガラテヤに行くときはサマリヤを通った方が直線距離で近いのですが、サマリヤ人とは昔から仲が悪く、身の危険もあるので、普通ユダヤ人は、あえてヨルダン川東側を選び、回り道をしていきました。なぜかというとBC1000年頃、イスラエルの国はソロモン王様の後、北と南に分裂します。やがて北王国がアッシリヤに捕囚となり、多くのユダヤ人が連れ去られていきました。アッシリヤの王様の政策として、残ったユダヤ人のところに、他民族を送りこみます。その子孫がサマリヤ人。ユダヤ人と他民族の混血です。当然他民族は偶像の神も持ってきたのです。モーセ律法では、民族の純粋性を保つために、他民族との結婚を禁じています(申命記7:3,4)。なのでユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑し、彼らがエルサレム神殿で礼拝をささげることを禁じました。そのため、サマリヤ人はゲリジム山に独自の神殿を立て、そこで礼拝してきわけです。今日のお話にはこのような背景があったことを、まず知ってください。イエス様があえてサマリヤを通ったのには目的があったようです。
4:7 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。4:8 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。4:9 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」4:11 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。4:12 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」4:15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」7から15節を見ると、イエス様は旅の疲れをいやすために井戸端に座っていますが汲むものを持っていません。ちょうどそこに水を汲みにきた女性がいました。彼女に「水を飲ませてください」とお願いしたのですが、女性は驚きました。ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪かったうえに、当時は、公の場で男性が女性に話しかけるということもなかったのです。イエス様は女性の中に起こった疑問をきっかけに、彼女の心の中の本当の渇きの方に話を進めていきます。もしあなたが私のことを知っていたなら、あなたの方から願い出ていける水をもらったことでしょう。イエス様は霊の渇きをいやし、永遠の命を与える水のことを言っていますが、女は霊的なことを理解できず、体の渇きをいやす水としか受け取れません。ニコデモの時もそうでしたがちぐはぐな答えです。13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者は誰でもまた渇く。14しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」イエス様との会話の中で、少しずつ彼女の心に変化が起こってきます。まだイエス様の言葉を普通の水としか受け止めていないようですが、ここに汲みに来なくて済むならその水が欲しいと、彼女からイエス様に求めるようになっていきました。4:16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、4:17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。4:18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」4:19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。4:20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」4:21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。4:22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」4:25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」4:26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 16節から、イエス様はガラッと話を変えて、この女性の心に深く入っていきます。「夫を呼んできなさい」、突然の言葉にこの女性は驚いたことでしょう。「私には夫はいません」、すると更に18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」彼女にとって一番触れられたくない部分です。苦しんできた恥ずかしい過去があったのです。愛にうえ渇き、幸せな結婚を求めるのにいつもうまくいかない。彼女は周りから不道徳な女と見られながらも、そのような生き方を変えることができない。人に会わないように、あえて真昼の暑いさなか水を汲みに来たのです。しかしイエス様との会話の中でどんどん心を開いていきます。19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。彼女は自分の過去を見通されたイエス様を預言者と思ったのです。どんどん霊的な方に導かれていきます。サマリヤ人も自分たちの先祖はアブラハムであると、唯一の神を信じ、ユダヤ人同様メシヤを待望していました。彼女はイエス様との会話の中で自分の罪の問題と向き合うように導かれ、自分と話しているこの人が、神の約束の預言者、メシヤかもしてないと思い始めてきました。20私どもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」当時は、ユダヤ人はエルサレム神殿で、サマリア人はゲリジム山にある神殿で動物のいけにえを捧げ、罪の許しをいただき、神様への礼拝をささげていました。そしてそれぞれが自分たちの礼拝の方が正しいと昔から主張し対立してきました。彼女はこの問題について、どちらが本当の礼拝なのか知りたいと思い始めました。21イエスは言われた。「女よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来るイエス様は「私の言うことを信じなさい」と念を押して、意外なことを話します。この山でもエルサレムでもないところで礼拝する時が来ると。長い対立の歴史を持つユダヤ人、サマリヤ人という民族の垣根を超えた礼拝をささげる時が来ると伝えます。22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。サマリヤ人はモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)しか持たず、神様のことをよく知らない自己流の礼拝でした。また過去においては他民族からの偶像崇拝の歴史もありました。神様は礼拝の仕方について律法に定めておられます。それ以外の礼拝は受けいれません。ユダヤ人は問題はあるものの、ずっとそれを守って礼拝をささげていました。確かに救いはユダヤ人からくることを伝えます。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない。」今までの礼拝は神殿という限定された場所で、律法に定められた通りのやり方で、罪の許しのために動物がささげられていましたが、これからはそのような場所や形式にとらわれないで、どこででも、聖霊により頼み真実な心で礼拝をささげる時が来るのだと語ります。(それはまさにイエス様ご自身が神の子羊となって、罪の許しのための生贄となってくださるからです。)父はそのような礼拝を求めておられることを話します。25女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、私たちに一切のことを知らせてくださいます。」この女性の中に深い渇きが起こされてきました。彼女は愛にうえ渇き、幸福を求めて何度も結婚を繰り返してきました。しかし結局はそのような愛を得ることはできませんでした。結婚すれば幸せになれる、それが彼女の偶像になっていました。人は何かこの世のもの(お金、名誉、快楽、お酒、性、ギャンブル等、それで渇きを満たそうと必死になって求めます。一時的な幸福感はあっても、結局は満たされない。それどころが、わが身を害することさえ起こるのです。私たちの一番深い心の渇きを満たし本当の幸福へと導いてくださるのは真の神のみです。しかもこの世だけでなく永遠です。そして主とつながるなら、水道から水が出るように、尽きることのない永遠の命の水があふれ流れるようになるのです。イエス様との会話の中で、彼女の心はどんどん開かれ、救い主を待ち望んでいることを伝えます。26イエスは言われた。「あなたと話をしているこの私が、それである。」主は「私がそれだ」「私がメシヤ、キリスト、救い主」だと伝えます。これは非常にインパクトのある、エネルギーのある強い言葉です。彼女の心に強く響いたことでしょう。4:27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。4:28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。4:29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」4:30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 そこに弟子たちが帰ってきて、イエス様がサマリアの女と話しているのをいぶかりますが、すでに弟子たちはイエス様の清さ、正しさ、メシヤとしてのご人格に触れ、信頼していたのでしょう。誰も何も言いません。彼女は水ガメを置いたまま町に行き、そのことを伝え、人々はイエス様のもとへやってきます。4:31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、4:32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。4:33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。4:34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。4:35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、4:36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。4:37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」話は一転しここからは、弟子の指導になります。食事を勧める弟子たちに、私の食物とは、遣わされた方の御心を行い、その御業を成し遂げること、それが食物(喜びであり生きる力を与えるもの)だと語ります。事実イエス様は疲れておられましたが、この女性に伝道していくうちに、喜びや元気が出てきたのだと思います。私たちも神様の御心を行い、成し遂げた時、神様に喜んでいただけることをした時は喜びや元気が湧いてくることを経験することがあると思います。35-36あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月ある』と言っているではないか。しかし、私は言っておく。目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、蒔く人も刈る人も共に喜ぶのである。37『一人が蒔き、一人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38私は、あなたがたを遣わして、あなたがたが自分で労苦しなかったものを刈り取らせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」この女性を通して、多くのサマリア人が救われるようになることを、主はすでに見ていました。ゆっくりと悠長に構えていないで、緊急性をもって永遠の命に至る実を集めることを勧めています。それは蒔くものも刈るものもともに喜ぶためです。38私は、あなたがたを遣わして、あなたがたが自分で労苦しなかったものを刈り取らせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」人類の救いのために、主は救いの業を完成し、すでに永遠の命に至る種は蒔かれました。弟子はその実を刈り取るのです。と同時にまた福音の種をまくことで、やがて別の人がその刈り取りをするようになるのです。イエス様がこのサマリアを通られたもう一つの理由は、サマリア人への偏見を取り除き、壁をなくすためです。そして魂の救いのために、刈り取りと種まきに励むよう教えるための、弟子訓練でもありました。
4:39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。4:40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。4:41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。4:42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
 多くのサマリア人は、女の言葉により主を信じました。彼らの要望に応え、主は二日間とどまり、神の国につていろいろなことを話されたことでしょう。さらに多くの人が直接、イエス様の言葉を聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かりました。ユダヤ人から軽蔑されて、独自の礼拝をささげていたわけですが、イエス様から真理を学び、このお方こそ救い主、メシヤであると分かり、正しい信仰を持つことができ、サマリアにリバイバルが起こりました。イエス様があえてサマリアを通られたのはこのためでした。井戸端で、あの女性に会い、そして彼女を通してサマリアの多くの人々が救われました。そして実際に、そのような伝道を見せることを通して弟子を育てるためでした。私たち人間は目の前しか見えませんので、時になぜこんなことがとつぶやいてしまうことがあるかもしれません。しかし神様、イエス様は全体を見通して最善に導かれ、万事を益としてくださるお方です。ですから理解できなくても、たとえ悪い状況に思える時でも、信仰の目を上げて主に信頼しましょう。そうするならばすべてのことを感謝できるようになるのだと思います。現実は暗い時代ですが、この時代はやがて終わります。主は永遠に続く栄光と希望のご計画をもって、世界を進めておられます。一喜一憂することもありますが、そんな時こそ主を見上げましょう。信仰を働かせ、信頼と感謝をもって、天の故郷に帰る時まで、主と共に歩ませていただきましょう。

今日のポイント

①永遠の命に至る水はイエス様から流れている

ヨハネ 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

人は心の渇きを満たそうといろいろなもの(お金や名誉、お酒やギャンブル、快楽等)を求めますが、本当に満たすことはできません。それはただイエス様だけです。生ける水の源であるイエス様が私たちのうちにいてくださるので、泉となって、周りにもあふれ流れていくのです。私たち一人一人は、置かれた場所で祝福の基です。イエス様と更に深く交わっていきましょう。

②霊と真による礼拝をささげる

ユダヤ人、サマリヤ人の間に礼拝についての対立が続いてきましたが、イエス様は、そのような限定された場所、建物の見事さ、受け継がれてきた律法、しきたりなどから解放されて父を礼拝する時が来ると言われました。真の礼拝とは霊と真実をもって礼拝をささげることであり、父なる神様はそのような礼拝を求めておられることを伝えました。以前長崎で牧会させていただいていた時、国際教会の礼拝に参加し、その時牧師先生がアロハシャツで説教を語っておられるのと見てびっくりしたことがあります。私は厳粛で厳かな礼拝をささげる群れで育ってきました。牧師先生は、毎回椅子に膝まづき祈ってから講壇に立っていたので、そのようなラフな礼拝に驚きました。その後、アッセンブリー教団に導かれた時も、30分以上賛美が続き、中には両手を上げて涙を流しながら賛美をささげている人たちもいました。またアフリカの教会では皆が踊りながら賛美して主に礼拝をささげています。それぞれに文化や伝統がありますので、お互いを尊重し、よいものは受け入れていく柔軟性を持ちたいです。一番大切なことは霊と真実をもって真心から、神様に礼拝をささげることです。

③福音の刈り取りと種まきに励もう

今年は特に家族伝道に力を入れていきたいと思います。皆さんも一番関心があり、なんとか救われてほしいと長く祈っておられますが、なかなか進まないと心くじけることもあると思います。しかしイエス様は目を上げて畑を見るがよい。すでに色づいて刈り入れを待っている。と言われました。私たちはわからなくても色づいているのです。必ず神の時が来ます。信じて借り入れと種まきに励みましょう。聖霊様が働いて魂を導いてくださるように、また示されたことをもって仕え、特別集会や、マルシェに来てくれるように祈りましょう。たとえ来ていただけなくても祈りは積まれています。「無理だ、だめだ」と否定的な言葉を使わず、「「私の家族は全員救われます」と信仰の宣言をしていきましょう。自分には無理でも、神様に不可能はありません。これからはそのように宣言していきましょう。そして、祈っている方が隣で共に礼拝をささげていることをイメージし、それだけではありません。地上で主と共に歩み、やがて共に天国に行けることをイメージし、諦めずに祈り続けていきましょう。

考えてみよう

霊と真実をもって真心からの礼拝をささげているでしょうか。