説教題: 二つのたとえ話から学ぶ祈り 聖書箇所:ルカによる福音書18章1-14節
◆「やもめと裁判官」のたとえ18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」◆「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ハレルヤ!11月の第三主日を迎えています。今、私たちの教会ではルカによる福音書に記されている主イエスが語られたたとえ話を学んでおり、今日はその六回目です。先週は16章19-31節から「この世の後」と題し三つのことを中心にお話をしました。①死後、信者と不信者は行き先が異なる、②死後の二つの世界(アブラハムのすぐそば、陰府)の往来は出来ない、③死者はこの世の人を訪れることが出来ないでした。今日はルカによる福音書18章1-14節から「二つのたとえ話から学ぶ祈り」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①神は憐れみ深く祈りに応えてくださる
1節から順番に見てまいりましょう。18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「弟子たちにたとえを話された。」とあります。ルカによる福音書11章1-14節で主イエスは祈りについて既に弟子たちに教えていました。いわゆる主の祈りです。今日の箇所には、祈りについて更に深く覚えてほしいことが記されています。その理由は、主イエスに従うものが、苦難に耐えて、信仰を保持して、主イエスと再びお会いする時まで祈り続けることが一番大切だからです。信仰生活の食べ物は御言葉であり、祈りは呼吸です。祈りによって信仰は生き、生きた信仰が祈りを生むのです。祈りは直ぐに聞かれる場合があります。私ごとですが、今年の7月、自転車で買い物に行く途中、不注意にも財布を落としてしまいました。お店の入口で、財布がないことに気が付きました。周辺を探したのですが、見つかりません。現金は少額ですが、クレジットカード等の大事なものが入っていますので真っ青になりました。真剣に祈りつつ、交番に直行しました。事務的な手続きが終わるかいなや、外から戻った警察官が「これですか」と言いました。どうやら、交差点で落としたそうですが、感謝なことに親切な方が拾ってくれたのです。このように直ぐに応えられる祈りもないわけではありませんが、多くの場合は時間がかかります。ジョージ・ミュラーは19世紀にイギリスで活躍した孤児院経営者ですが、世俗に頼らず神のみに頼るという方法(フェイス・ミッション)を生涯貫き、多くの孤児たちを救済したと言われています。しかし、ミュラーは初めから孤児院の経営に重荷をもっていたわけではありません。元々は宣教師になりたかったのです。孤児院の経営が軌道に乗っても祈り続け、宣教師の道が開けたのは祈り始めてから48年後だったのです。「祈りの力」、「祈りの秘訣」という著作もあります。祈りが応えられるまでに時間がかかることは昔も今も変わりません。ですから、祈りがすぐにきかれないからといって、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを」たとえ話をもって語られたのです。2,3節を見てみましょう。18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。And there was a widow in that town who kept coming to him with the plea, ‘Grant me justice against my adversary.’(NIV) ここからが、たとえ話で、二人の人物が描かれています。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」と「一人のやもめ」です。たとえ話は強調のために使われることがあります。ストレートに使われる場合もありますし、逆説的に使われる場合もあります。今日の箇所は後者です。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」を反面教師のように描き、祈りへの態度を浮かび上がらせているのです。この裁判官は自分の思い通りに裁判を進めます。自分が気に入らなければ無実であっても有罪にしたり、賄賂をもらい判決に手心を加えたりしていたことでしょう。そんな裁判官のもとへ「一人のやもめ」が来たのです。最近、やもめという言葉は使わないかもしれませんが、寡婦、未亡人のことです。当時のやもめには受け継いだ資産以外には頼るものがなく、社会で一番弱い存在の一人です。そのやもめが、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。のです。「裁判官のところに来ては」とありますので、何回も来ていたことがわかります。英語の聖書(NIV)ではkept coming 来続けたの意味です。この何回も自分のところに来続けるしつこい一人のやもめに対する裁判官の答えが4,5節です。18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。 18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」「しばらくの間は取り合おうとしなかった。」とあります。この悪辣な裁判官はやもめの訴えを自分にとって何のメリットもないので相手にしてはいませんでしたが、「うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。」と心がかわったのです。その理由が5節の後半です。「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」やもめの熱心さが悪徳裁判官の心を動かしたのです。このように不義で愛のかけらもない裁判官でも願い続けたことでその願いが答えられたのです。6-8節を見てみましょう。この箇所には主イエスによるこのたとえ話の説明が記されています。18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。」とあります。このように不義で愛のかけらもない裁判官ですら、願い続けたことでその願いが答えられたのです。ですから、正しい審判者である神が「選ばれた人たち」のために裁きをおこなってくださらないはずがないのです。最初は聞く耳を持たなかった裁判官と異なり、神は初めから耳を傾けていてくださるのです。主は「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と語ります。「人の子が来るとき」、つまり再臨の時までキリスト信仰は続くだろうか。と少し厳しく語ります。ですから、祈りは今だけではなく、再臨の時まで「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」のです。この1-8節のたとえ話で語らえていることは単に熱心に祈り続けることを教えているのではありません。私たちがどんな時においても気を落とさずに絶えず祈ることが出来るには「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることが」ないお方だからです。これがこのたとえ話の主題です。実に神は憐れみ深いお方なのです。ですから私たちの祈りに応えてくださるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは神は憐れみ深く祈りに応えてくださるということです。
②祈りは人と比較するものではない
9-10節を見てみましょう。18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。9節以降には二つ目のたとえ話が記されています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」とあります。二つ目のたとえ話では祈りにおいて、常に失望せず祈り続けることに加え、自己の義を神に誇ることなく、神に憐れみを乞うべきであることが教えられています。登場人物は「ファリサイ派の人」と「徴税人」の二人です。「ファリサイ派の人」は自分を義人と称して他人を見くだす人です。確かに「ファリサイ派の人」は律法についての知識は広く、宗教的、道徳的にみれば立派な人物のように見えたことでしょう。しかし、主イエスは彼らの心の中を見抜いておられました。ルカによる福音書11章39節を見てみましょう。11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。一方の「徴税人」は民から虫けらのように嫌われていました。当時、ユダヤはローマの支配下に置かれていましたので、ローマに税金を納めなければなりませんでした。その税を集める徴税人たちは、ユダヤ人でありながらローマのために働く裏切り者のように思われていました。また、立場を利用して余分に税金を徴収し着服するという不正も横行していたため、罪びとと同様にユダヤの中で非常に嫌われていたのです。この「ファリサイ派の人」と「徴税人」の二人が「祈るために神殿に上った。」のです。続く11-13節を見てみましょう。18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』But the tax collector, standing some distance away, was even unwilling to raise his eyes toward heaven, but was beating his chest, saying, ‘God, be merciful to me, the sinner!’(NAS)この箇所には二人の祈りが記されています。11,12節はファリサイ派の人の祈りです。彼らは律法を守り、多くの断食をし、多く捧げている熱心さを神に伝えていたのです。また、徴税人と比較して優越感に浸ってさえいます。13節を見てみましょう。徴税人の祈りです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」。徴税人の祈りは「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」のものでした。「目を天に上げ」祈ることは当時の慣習でしたが、徴税人は形式的なことはせず、ただ「胸を打ちながら」憐れみを求めたのです。この「胸を打ちながら」とは当時の悲しみを表すしぐさでした。原語ギリシャ語では罪びとの前の冠詞は定冠詞ですので、英語の聖書ではthe sinnerと訳されているものもあります。あたかも単なる一人の罪びと(a sinner)ではなく。定冠詞theを用いることにより自分が特別の罪びとであることを伝えているのです。徴税人の祈りは、自分の罪を告白することと神の憐れみよって赦しを請うこと以外には祈れなかったのです。人と比べることなく御前に自分の価値を認めて祈りました。今日、二番目に覚えて頂きたいことは祈りは人と比較するものではないということです。
③神は謙遜、謙虚であるものを憐れみ恵みを与えてくださる
さて、いったいこの二人の内、どちらが義とされるのでしょうか。
14節を見てみましょう。18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」主イエスは「義とされて家に帰ったのは」ファリサイ派の人ではなく「この人」、つまり、徴税人だと告げたのです。主イエスの愛に押し出された愛による祈り、御霊の実ゆえの祈りは尊いものです。しかし、ファリサイ派の人の祈りは自分の行為がベースとなっています。これは、神の憐れみと、信仰による救いの恵みを否定していることなのです。この徴税人が犯した具体的な罪のことは記されていませんが、自分の心の汚れを認め、自分自身ではどうすることもできない問題を神に憐れんでくださいと祈ったのです。このたとえ話を閉じるにあたり、主イエスは「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われました。この真理は聖書に何か所か記されていますが、ヤコブ書を見てみましょう。 4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」今日、最後に覚えて頂きたいことは神は謙遜、謙虚であるものを憐れむということです。
Today’s Point ①神は憐れみ深く祈りに応えてくださる、②祈りは人と比較するものではない、③神は謙遜、謙虚であるものを憐れみ恵みを与えてくださる
Thinking Time形式的な祈りになってしまってはいませんか。