• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年11月28日主日礼拝  

説教題:塔が倒れる前に 聖書箇所:ルカによる福音書13章1-9節

◆悔い改めなければ滅びる13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」◆「実のならないいちじくの木」のたとえ13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

ハレルヤ!アドベント第一主日を迎えています。私たちの教会では、ルカによる福音書に記されている主イエスが語られたたとえ話を学んでいて、今日はその七回目です。先週は18章1-14節(やもめと裁判官のたとえ、ファリサイ派の人と徴税人のたとえ)から「二つのたとえ話から学ぶ祈り」と題し三つのことを中心にお話をしました。①神は憐れみ深く祈りに応えてくださる、②祈りは人と比較するものではない、③神は謙遜、謙虚であるものを憐れんでくださるでした。今日は13章1-9節から「塔が倒れる前に」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。今日の箇所は1-5節と6-9節に二分され、前半には一つの事件と一つの事故が取り上げられています。

①自分自身の死後のことを考える

では、1節から順番に見てまいりましょう。13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。「ちょうどそのとき」とありますが、どういう時でしょうか。その確認からしてみましょう。ルカによる福音書の11章37節と12章1節を見てみましょう。11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。 12:1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。「ちょうどそのとき」とは主イエスが「ファリサイ派の人から食事の招待を受け」、暫くすると、「数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」とありますので、多くのユダヤ人が集まっていた時です。つまり、今日の聖書箇所はユダヤ人に語られているのです。その時、PPT何名かの人から主イエスに一つの報告が入りました。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」です。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ポンティオ・ピラトは、ユダヤ属州の総督でした。ガリラヤ人が礼拝のために生贄を捧げていたのですが、ピラトはガリラヤ人を殺して、その血を生贄の血に混ぜたという驚くべき内容の報告でした。ガリラヤから起こった過激な愛国主義者の政治的集団がありました。彼らは手段を選ばず暴力を振るってでも目的を果たしていましたので、ピラトが武力をもって鎮圧をしたという学説があります。また、主イエス時代の歴史家のフラウィウス・ヨセフスは「ガリラヤ人達はいつも革新好きで、変革の気があり、騒動する事を喜ぶ」と言ったそうです。この惨事は、ユダヤ人にとってガリラヤ人が殺されたことと神聖な礼拝の場が汚されたという耐えられない事件でした。そして、ユダヤ人たちは殺されたガリラヤ人が何か悪いことをした結果だと思っていたことでしょう。これ対する主イエスの応答が2-3節です。13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。」とあります。主イエスはユダヤ人たちの心の思いを見抜かれて、殺されたガリラヤ人たちが災難にあったのは、別のガリラヤ人より罪深かかったからでは決してないと語りました。そして、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と語り、全ての者に悔い改めを説いたのです。次いて主イエスは同じ内容を一つの事故をもって話をされるのです。4-5節です。13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」「シロアム」はエルサレムの南東部にある都市名です。その塔が倒れて18名もの方が亡くなったのです。死んだ18名は特に罪深かったから、このような目にあったのだろうか。逆にこの災いに遭わなかった人は特別に清廉潔白な人なのだろうか。そのような疑問に対して、主イエスは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と断固とした口調で否定するのです。5節のお言葉は2節と全く同じお言葉です。主イエスは全ての人に悔い改めを迫っているのです。日本人は何か悪いことが起こると「罰が当たった」、「身から出た錆」などと言います。因果応報です。辞書によると因果応報とは、「仏教で、前世やその人の過去の行いが原因で、さまざまの結果を報いとして受けること。」です。旧約聖書のヨブ記にも因果応報的な考え方をしていた人が描かれています。ヨブが大きな災難に遭った時に見舞いに来た3人の友人のテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルです。昔はとても裕福だったヨブが一文無しになり病気にもなり、あまりにも変わり果てた姿をみて、きっとヨブには隠れた罪があり、それを告白し悔い改めるよう迫ったのです。苦しみの最中にある友人を励ますどころか、責めてしまったのです。そして、そのことは後で主から厳しく叱責を受けます。開きませんがヨブ記42章に記されています。では、主イエスは因果応報について、どのように考えておられるのでしょうか。ヨハネによる福音書9章2,3節にその答えがあります。 9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。主イエスは因果関係の考え方を明確に否定します。そして、将来その盲人の身の上になされる神の業を見るように言われたのです。聖書、キリスト教の教えは因果応報ではありません。もし、神がその厳格で正義というご性質だけで、人間に報いを与えようとされるのであれば、私たちは一人残らず滅ぼされてしまうでしょう。しかし、神はそうされないのです。一方的な憐れみをもって、永遠の刑罰から逃れるために、十字架という方法を与えてくださったのです。悔い改めこそ、ガリラヤの人にもエルサレムの人にも、そして、全ての人々にも主が望まれていることなのです。この一つの事件と一つの話を通して、主イエスは他人の出来事よりも自分の死後のことを考えなさい。悔い改めなさいということを語っているのです。人は他人のことについて因果応報的に色々と詮索をしたがりますが、他人のことではなく自分こと、自分の死後のことを考えることが求められるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは自分の死後のことを考えるということです。

②悔い改めの実を結ぶ

6,7節を見てみましょう。13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』「そして、イエスは次のたとえを話された。」とあります。6-9節には今まで話してきた悔い改めを「いちじくの木」のたとえ話を使い補足的に語ります。つまり、悔い改めたのであれば、その実を結ぶことが求められるのです。一般的にいちじくの木とはあまり肥料のない土地でも実を結ぶことが出来る木と言われています。その木の葉が繁ると良い日陰も作ってくれますが、実を結ばなければただの土地をふさぐ邪魔な物となってしまいます。切り倒されてしまうのが普通です。このたとえ話の「いちじくの木」「ぶどう園」に植えられていたので、肥料も良いはずです。多くの実を結んでいるはずです。ところがある人が、「実を探しに来たが見つからなかった」のです。三年もしっかりと手入れをされていたのに実を結ばなかったのです。ですから、ある人は園丁に「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」と命じたのです。園丁とはあなり馴染みのない言葉ですが、庭師、ガーデナーのことです。ある人は、三年も実を結ばない。これ以上何をしても駄目だろう。肥料が無駄になってしまうどころか、他の木の栄養を横取りしてしまうと思ったことでしょう。この命令に対する園丁の答えが8,9節です。13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」13:8 “The gardener answered, ‘Sir, give it one more chance. Leave it another year, and I’ll give it special attention and plenty of fertilizer. 13:9 If we get figs next year, fine. If not, then you can cut it down.’”(NLT)園丁はもう一年間を頂けるよう、主人に懇願しています。その間に一層の手入れをし、来年、実がなることを試したいと訴えるのです。英語の聖書ではgive it one more chance.イチジクの木にもう一回のチャンスを与えてくださいです。特別の世話をし、たくさんの肥料を与えます。そして、「もしそれでもだめなら、切り倒してください。」と主人へ伝えたのです。ここで、PPTたとえられている事柄を確認してみましょう。「ぶどう園」とはこの世を意味し、「いちじくの木」とはイスラエルを表しています。「ある人=御主人様」は神、「園丁」は言うまでもありませんが、イエス・キリストです。「三年」は主イエスの公生涯、伝道期間を意味します。つまり、イスラエルの民が、三年にわたる主イエスの働きにもかかわらず、霊的な実を結んでいないのです。歴史を振り返ってみるとイスラエルの民ほど恩恵が与えられている民族はいません。しかし、彼らは不毛の民なのです。主イエスがなされた数々の御業を見ていたのです。福音を聞いていたのですが、信仰の実を結んでいないのです。そのため切り倒せという命令が出されたのです。しかし、園丁イエスは父なる神にもう一年の猶予期間を求めたのです。ペトロの手紙二 3章9節の後半の御言葉を見てみましょう。PPTそうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主イエスは全員が悔い改めるように忍耐深く待っておられるのです。このたとえ話はユダヤ人に語られたものですが、その後もユダヤ人は悔い改めることをせずに主イエスを十字架に付けてしまいました。その四十年後、エルサレムの町も神殿も破壊されたのです。その間に主が復活されペンテコステにより教会が生まれ、伝道が始まったのですが、主イエスを救い主として受け入れずに、弟子たちを迫害さえしたのです。悔い改めの機会は永遠に続くものではありません。シロアムの塔がいつ私たちに倒れてくるかはわからないのです。自分は実を結んでいるだろか、土地ふさぎとなっていないかを真剣に自問しようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたことは悔い改めの実を結ぶということです。悔い改めは三つの要素からなります。英語の頭文字をとって3Cとも言います。Conviction(認罪)、Confection(告白)、Conversion(転換)です。認罪や告白のままでは悔い改めの実を結んだことにはならないのです。罪びとであることを認め、罪を告白し赦して頂き、自分向きの生活から神向きの生活に方向転換をすることなのです。

③福音伝道が急務

今日の箇所からもう一つのことがわかります。2004年、スマトラ島沖地震がおこりました。死者と行方不明者数を合わせると約23万人の大惨事でした。地震から暫くすると、これはキリスト教ではない他の宗教の人口が多い国への裁きだという発言を聞きました。その7年後の2011年に東日本大震災が起こりました。死者と行方不明者数を合わせると1,9万人弱で関東大震災に次ぐ被害規模です。この時はイエスを受け入れない日本に裁きが下ったのだとの声を聴きました。ある政治家は天罰とさえ言いました。いずれも被災者の心を顧みない残念な発言としか言いようがありません。何故、災害に遭うのか。いつ災害に遭うかはわかりません。正に、神のみぞ知る世界です。しかし、人はキリスト者であろうが、他の宗教を信仰していようが、無神論者であろうが、災害に遭うのです。塔は倒れるのです。ですから、塔が倒れる前に、一日も早く悔い改めて滅びに至らないように備えなければならないのです。そのためにも、福音伝道が急務であることを示されるのです。今日最後に覚えていただきたいことは福音伝道が急務ということです。アドベントが始まりました。この時期は伝道に最も適した時期です。今年も、コロナの影響で大きな集会、イベントは出来ないかもしれませんが、家族、友人、知人への福音伝道教に励んで参りましょう。

Today’s Point①自分自身の死後のことを考える、②悔い改めの実を結ぶ、③福音伝道が急務 

Thinking Time「方向転換」はできていますか。