• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年11月7日主日礼拝  

説教題 賢い生き方~友と一緒に天国に行こう!~ 聖書箇所:ルカによる福音書16章1-13節

◆「不正な管理人」のたとえ16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。6:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

ハレルヤ!11月の第一主日を迎えています。先週は溝口寛先生にマルコによる福音書4章35-41節から「嵐をしずめるイエス」と題し、二つのことを中心にお話を頂きました。①人は思わぬ時に人生の嵐に遭うことがある、②主イエスは全てを支配されているので私たちの人生の嵐も鎮めてくださる、イエスに全きの信頼おくでした。今、私たちの教会ではルカによる福音書に記されたとえ話を学んでおり、今日はその四回目で、16章1-13節節から「賢い生き方~友と一緒に天国に行こう!~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。今日は先ず、この「不正な管理人」のたとえ話を要約から始めたいと思います。「この不正な管理人は主人の財産を管理するのが仕事だったのにもかかわらず、その財産を浪費、散財していました。そのことが主人に告げ口をされ主人から会計報告をするように命じられます。すると才覚を発揮し、主人の債務者を呼び、その負債額を減額します。それは、主人から首になった時に備えてです。債務者に恩義を売っておけば再就職ができると思ったからです。」このたとえ話はずる賢い管理人の話ですが、勧善懲悪の話ではないのです。驚いたことに主人はこの管理人の抜け目なさを褒めたのです。そして、主イエスは弟子たちにこの管理人のようにしなさいと命じたのです。一体全体、主イエスは弟子たちに何を教えようとしていたのでしょうか。

①褒められたのは知恵

では1節から順番に見てまいりましょう。16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。以前にも申し上げましたが、主イエスが語られたたとえ話を理解する上で大事なことは誰に語られているかです。「弟子たちにも」とあります。今日のたとえ話の前の15章の4部作のたとえ話は、徴税人、罪人、ファリサイ派の人々や律法学者に語れたものでしたが、今日のたとえ話は「弟子たちにも」話されたのです。キリスト者たちにも語られたのです。「ある金持ち」とあります。当時、ガリラヤ地方には不在地主がいました。自身はエルサレムに住み、管理人を雇い不在地の一切を任せていました。主人と管理人とは信用関係で結ばれています。ですから自分がいなくても大事な財産の管理や運用を任せたのです。ところがこの管理人は「無駄使い」をしていたのです。この「無駄使い」と訳された原語は放蕩息子のたとえ話の15章13節でも使われています。15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。この点においては放蕩息子のたとえ話の弟息子と同じです。そして、この「無駄使い」が誰かにより「告げ口」をされ主人の耳に入ってしまったのです。それを聞いた主人の行動が2節です。16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』主人はこの管理人を解雇することを考え会計報告をするよう命じます。3-7節には会計報告を命じられた管理人の機転が記されています。 3節を見てみましょう。16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。肉体労働はできないし「物乞いをするのも恥ずかしい」。。。何か良い策はないだろうと考えました。4節です。16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』この管理人は仕事が首になった場合に備えて、雇ってくれる人を確保しようとします。その具体的な方策が5-7節です。16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』「管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで」とあります。管理人が考えた策は、主人から借りがある人の「証文」を少なく書き直させることです。たとえ話はですが、これは立派な犯罪です。今の日本で言えば私文書偽造罪で、1年以下の懲役または10万円以下の罰金に処せられます。「油百バトス」の借りがある人には「五十バトス」と半分です。『小麦百コロス』の借りがある人には「八十コロス」と二割減です。バトス(リットル換算で23L)とコロス(コロスはバトスの10倍、リットル換算で230L)という単位はピンと来ないと思いますので、口語訳聖書では次のように訳しています。16:6 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 16:7 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。(口語訳)借主がなにもしないのにもかかわらず、油百樽の借り入れが半分の五十樽となり、麦百石が8割の八十石です。これに感謝をしない借主はいないでしょうこの管理人は主人に借りのある人に恩義を売り、自分の再就職に備えたのです。これが不正な管理人がとった行動です。それに対しする主人の態度が8節です。16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。「抜け目のないやり方をほめた」とあります。驚くことに主人は管理人に厳しく罰を与えることなく褒めたのです。主人がこの不正な管理人を褒めたのはこの方策を考えたその抜け目のなさ賢さそのものです。決して私文書偽造を褒めていたわけではありません。今日、先ず覚えて頂きたいことは褒められたのは知恵ということです。才覚といも言えます。 後半に「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」とあります。「この世の子ら」とは世俗的な方やキリスト信仰がない方です。「光の子」とは直接的には弟子たちですが、キリスト者を意味します。つまり、キリスト者ではない人のほうがキリスト者より賢くふるまっているのです。

②共に天国に行ける友人を作る

9節を現代訳、Alive訳と共に見てみましょう。16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。16:9よく聞いておきなさい。この世の富を使って、自分のために信仰の友を作ることです。そうすれば、この世の生を終えた時、あなたがたは、永遠の住まいで、その友達と一緒に過ごすことができるでしょう。(現代訳)16:9ようはこれだ・・・この世で手に入れたものは、友を作るために使うんだ!この世を去る時、持っていたものは失うが、天の永遠の住まいへと迎えてくれる。(Alive訳)「そこで、わたしは言っておく」とあります。9節以降、たとえ話から主イエスのお言葉に代わります。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。」「不正にまみれた富」とは御国には存在しません。この世においてのみ存在するものですから、現代訳聖書では「この世の富」と訳しています。Alive訳では「この世で手に入れたもの」と訳しています。この世の富、この世で手に入れたものは決して永遠の価値があるものではありませんが、これを巧みに用いることにより、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」準備ができるのです。また、ともに御国に行ける友を一人でも多く作ることとは、この世の富を与えてくださった神の願いなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは共に天国に行ける友人を作ることです。ジョン・ウエスレーはこの箇所から「大いに稼げ」と題して説教をしました。ポイントは三つです。先ず、「できる限り稼ぐ」こと。次に、できる限り稼いだら「できる限り倹約をする」こと。そして、本当に「不正にまみれた富で」友達を作ろうとするなら、「できる限り稼いで、できる限り倹約をする」。それに加えて「できる限り与えなさい」を加えよと。私たちはどうでしょうか。この世の富、この世で手に入れたものを使って、天国に一緒に行ける友人を作っているでしょうか。日本では、長期に渡りクリスチャン人口1%、礼拝出席率0.2%という惨憺たる状況が続いています。このことを岸義紘先生のお嬢さんで宣教師のグレイスひとみ先生は「安易な純粋の孤立」、「妥協の埋没」の結果と言います。クリスチャンがあまりにも内向きであり続けてきたことです。多くのキリスト者はキリスト者としか交際をせず、嗜好品をたしなまないのが当たり前で、それらが美徳でもあり、きよめられた理想的なクリスチャンの信仰生活と思い込んでいるのです。また、教会の奉仕、集会等に熱中するあまり、学校、職場や地域社会の行事に参加出来ない、あるいは参加すること自体に嫌悪感や罪悪感すら抱いてしまうのです。牧師や伝道師だけでの宣教、伝道活動には物理的に限界がありますし、むしろ信徒のほうが実社会を熟知しているケースが多いはずです。ひとりひとりのキリスト者が聖霊に満たされると同時に内向きのクリスチャン生活から外向きのクリスチャン生活に変換する必要があるのです。教会以外の行事や活動は伝道の絶好の機会でもありますので積極的に参加し福音を述べ伝えたいものです。

③二人の主(あるじ)に仕えられない

10-12節を見てみましょう。16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。10節に「ごく小さな事」とあります。これは9節の「不正にまみれた富」を言い換えたものですから。この世の富のことです。この世の富とはお金だけではありません。友人もそうですし、健康もそうですし、才能も社会的な立場もそうでしょう。実はこれらのものは全て神から与えられているものなので、預けられているものなのです。ですから私たちにはそれを管理する必要があるのです。「ごく小さな事」とは神様から預かっているものに他ならないのです。ですから。神様からあずかっているものに忠実でないものが、どうして、「大きな事」(神の国)に忠実であろうか、「本当に価値あるもの」神の国)を任せられようかと問うているのです。12節の「他人のもの」とは神の国のものです。神の国を目指して忠実に歩まないものが、一体全体、何が与えられるだろうか。何も与えられはしないだろうの意味です。13節を見てみましょう。16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」「神と富とに仕えることはできない。」神と富との対比で、このたとえ話は終わります。13節には忠実さの質が問われています。今日、この世の中では二人の主人に仕えられる仕事は沢山あります。それぞれをパートタイムにして働けばよいのです。しかし、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。」とあるように神の恵みによって救われたキリスト者は神への忠実、忠誠さが求められるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは二人の主(あるじ)には仕えられないということです。この世にいるキリスト者は神への忠実、忠誠を他のものに向けてはならないのですが、この世のことを御国のことに結び付けて生きることはじつに賢い生き方と言えるのです。

Today’s Point①褒められたのは知恵、②共に天国に行ける友人を作る、③二人の主(あるじ)に仕えられない

Thinking Time「ごく小さな事」に忠実ですか。どうしますか。