説教題:隅の親石になったイエス~真の権威者による恵み~ 聖書箇所:ルカによる福音書20節9-19節
◆「ぶどう園と農夫」のたとえ20:9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。20:10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。20:11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。20:12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。20:13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
ハレルヤ!12月の第二主日、第三アドベントを迎えています。今、私たちの教会ではルカによる福音書に記された主イエスが語られたたとえ話を学んでおり、今日はその九回目で最後です。来週と再来週はマタイによる福音書の2章からクリスマスに因んだお話しを致します。先週は19章11-27節から「賜物は全員に与えられている」と題し三つのことを中心にお話をしました。①賜物はキリスト者全員に与えられている、②一人一人が満足する形で報いてくださる、③信仰を働かせて賜物を用いるでした。今日は20節9-19節から「隅の親石になったイエス~真の権威者による恵み~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。今まで学んできたたとえ話はルカに固有のものでしたが、今日の聖書箇所には並行箇所があります。(マタイ21:33-46、マルコ12:1-12)後ほど、読み比べてみてください。
①主イエスを敬う
では9節を口語訳と一緒に見てみましょう。20:9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 20:9 そこでイエスは次の譬を民衆に語り出された、「ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸し、長い旅に出た。(口語訳)口語訳では「そこで」と始まります。先ず、このたとえ話が語られた背景と誰に語られたのかの確認のため19章45節-20章3節を見てみましょう。19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、 19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」 19:47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、 19:48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。所謂、宮潔めの出来事です。続く20章1-3節を見てみましょう。 20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、 20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」 20:3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。このたとえ話は、主イエスが神殿で民衆に福音を語っていた時に、イエスの神殿での振る舞いに対して「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」と祭司長、律法学者、長老が主イエスに詰め寄ったのです。当時、ローマ帝国支配下のユダヤには最高裁判権を持ったサンヘドリンという名前の宗教的・政治的自治組織があり、祭司長、律法学者、長老から構成されていました。サンヘドリンのメンバーには神殿での権威が与えられていたのです。彼らは自分たちこそが権威者であると自負していたのです。そんな彼らに対して主イエスはこのたとえ話を語られたのです。9節の後半に「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。」とあります。当時、実際に地主が畑を他人に任せて長期の旅行に行くということがありましたが、「ある人」とは父なる神、「ぶどう園」とはユダヤの民、「農夫たち」とはユダヤの民の指導者である祭司長、律法学者、長老たちのことです。ですからサンヘドリンのメンバーとも言えます。10-12節を見てみましょう。20:10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。20:11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。20:12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。神はユダヤ、イスラエルを特に選んだ民とし、祭司長、律法学者、長老たちに長いこと任せていたのです悔い改めることがなかったのです。それで、10節です。「僕を農夫たちのところへ送った。」のです。「僕」とは神が遣わした預言者のことです。主イエスの道備えをしたバプテスマのヨハネも含まれます。この神が送った三人の預言者に対して、ユダヤの指導者たちはそれぞれの預言者を「袋だたきにして、何も持たせないで追い返し」たり、「袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返し」たり、「傷を負わせてほうり出した。」たりしたのです。さんざんな目に合わせたのです。13節を英語の聖書と共に見てみましょう。20:13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』Then said the lord of the vineyard, What shall I do? I will send my beloved son: it may be they will reverence him when they see him.(KJB)「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」とあります。「わたしの愛する息子」はそれまでに送られた僕とはことなります。農園の跡継ぎです。そして「わたしの愛する息子」とは主イエスご自身のことです。「敬ってくれるだろう。」とあります。英語の聖書ではreverenceが使われていて、敬うという意味の同義語のrespect より程度の高い尊敬を表わしています。しかし、ユダヤの指導者たちはこの期待を裏切りました。さて、私たちはどうでしょうか。私たちの一人一人を救うために神の独り子が人間として生まれ十字架に掛かってくださったのです。その主イエスを心から敬っているでしょうか。神の期待に応えているでしょうか。今ここで心を探ってみようではありませんか。今日、覚えて頂きたいことは主イエスを敬うということです。これは父なる神の願いであり期待でもあります。神は預言者たちを送り、ユダヤの民が悔い改めて神に立ち戻ることを求めましたが、ユダヤの民は悔い改めることはなく、そこで最後に愛する独り子の主イエスを遣わしたのです。
②主イエスが隅の親石になった
14,15節を見てみましょう。20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。ぶどう園の主人は自分の息子であれば農夫たちは敬い適切な対応をすると期待していました。ところが農夫たちは「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」と考え、「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」のです。ヘブル書にはこのたとえ話が実現をしたことを示すような御言葉が記されています。13:12 それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。農夫たちの残虐な行為は驚くべきものです。彼らは主人から頂いた数々の恵み、受けた恩を忘れしまっていたのです。15節の後半に「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。」とあるように預言者たちの言うことを聞かす、主イエスをも殺してしまうユダヤの民に神はどのような処置をとるのでしょうか。16節を見てみましょう。20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。「この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」とあります。神はユダヤに与えていた恵みと特権とをとり上げて、他の民族に与えるのです。注意して頂きたいことがあります。「この農夫たちを殺し」とありますが、これはたとえ話の流れの中で語らえたことであり、決して、神の御心ではありません。たとえ話を読むときに気を付けることは話の本質的な部分に着目をすることです。非本質的な部分に捕らわれてしまうと大事な部分が見えなくなってしまいます。木を見て森を見ずにならないように注意をしなければなりません。このたとえを聞いた民衆は「そんなことがあってはなりません」と即座に答えたのです。ユダヤの民にとって与えられている恵みと特権が、異邦人に与えられることなどは考えられないことであり、あってはならないことなのです。この民衆が悔い改めて真理を悟ることを願いつつ、主イエスは次のように語ります。17,18節です。20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」主イエスは「こう書いてある」と語り詩篇から引用をします。家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。」の部分は詩篇 118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。この御言葉は使徒言行録でも引用されています。使徒 4:11 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。開きませんが同様な御言葉がコリントの信徒への手紙一3章11節、エフェソの信徒への2章19-22節、ペトロの手紙一2章4-8節にもあります。「隅の親石」とありますが、新改訳2017版 では「要の石」と訳しています。これは、楔石のことです。当時、家の入口を作る場合、アーチ形に石を積み上げて作るのですが、その最後の石は大きな立派な石ではかえって役に立たないのです。「家を建てる者の捨てた石」、つまり、役に立たないと思われた小石がクサビとして必要になるのです。この石がないと全体が崩れてしまうのでかなめの石なのです。20:17 Then He looked at them and said, “What then is this that is written: ‘The stone which the builders rejected Has become the chief cornerstone’?(NKJV)英語の聖書ではchief cornerstoneと訳されているものもあります。「家を建てる者」とはユダヤの指導者であり、「捨てた石」=「隅の親石」とは見捨てられて十字架に掛けられた主イエスです。そして、主イエスの十字架刑、復活、昇天し勝利をおさめることを暗示しています。今日二番目に覚えて頂きたいことは主イエスが隅の親石になったということです。
③ 特権が特権でなくなった
冒頭にお話ししたようにこの箇所は平行箇所があります。マタイによる福音書21章42-44節でも見てみましょう。21:42 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』 21:43 だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。 21:44 この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」マタイだけには「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」と記されています。実際、紀元70年に、このたとえ話で主イエスが警告、予告されたことが起こります。ユダヤは滅ぼされ神の民の象徴であった神殿は消失してしまいました。そして、神の民の特権はユダヤ、肉のイスラエルから霊的なイスラエル、異邦人に移されたのです。特権は全ての人類に拡大されたのです。 特権とは「特別の権利。ある身分・資格のある者だけがもっている権利」です。今日、最後に覚えて頂きたいことは特権が特権でなくなったいうことです。19節を見てみましょう。20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。「律法学者たちや祭司長たちは」このたとえ話が自分たちへの当てつけとして主イエスが語られたことに気が付いたのです。そして、「イエスに手を下そうとした」のですが、「民衆を恐れ」時期をうかがいイエスを捕らえることにしたのです。その後、主イエスは捕らえられ十字架に処せられ、主がこのたとえで話された通り、ユダヤの民に与えられていた特権は全ての人類に与えられることになるのです。
Today’s Point①主イエスを敬う、②主イエスが隅の親石になった、③特権が特権でなくなった
Thinking Time「特権」が与えられていることにどう応えますか。