• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年4月4日主日礼拝

説教題:「信仰の対象~障害物は取り除かれる~」 聖書箇所:ルカによる福音書24章1-12節

24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

ハレルヤ!4月の第一主日を迎えました。イースターおめでとうございます。主のご復活を心から褒め称えます。また、新年度、2021年度が始まり、最初の礼拝です。今年度もよろしくお願い致します。今日は、主の復活を記念する復活の日曜日です。主イエスが受難の金曜日に十字架にかかられてから、三日目の朝に死を打ち破り復活されたのがこの日曜日です。この歴史の事実に因んで多くの教会では日曜日に礼拝を行っています。今日は、ルカによる福音書24章1-12節から、「信仰の対象~障害物は取り除かれる~」と題しお話をしたいと思います。ご一緒に学んで参りましょう。

キリスト教の信仰がなくてもキリスト教に好意を持っている方は多くいます。実際、キリスト教信仰にもとづく「建学精神」の幼稚園から小中高では多くの未信者の方の子どもが学んでいます。このようにキリスト教に好意を持ちつつも信仰を持てない大きな理由の一つが「復活」です。そして、復活を生き返りと誤解している方がほとんどです。私がよく知っている未信者の方も、「キリスト教って、イエスキリストが死から生き返ったことを信じる宗教だよね。」と言いました。しかし、復活は死人の生き返りではありません。聖書には主イエスが死人を生き返らせた事が三例ほど書かれています。会堂人ヤイロの娘、ナインのやもめの一人息子、マルタとマリアの弟のラザロです。これらはいずれも蘇生ですから、時が経てば必ずもう一度、死にます。一方、復活とは単に生き返ったのではありません。二度と朽ちることのない体になることです。そしてこの復活は決して「たわ言」ではありません。聖書に記されている通り歴史の事実として起こったのです。先ず、このことを覚え、今日のお話を聞いてください。

①主が障害物を取り除かれる

1節から見て参りましょう。24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。1節には主語がありません。主語はそして、とあるように直前の23章55,56節に記されています。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たです。イエスと寝食を共にしていた女性の弟子たちです。信仰深い女性の弟子たちです。1節に戻り、週の初めの日の明け方早く とあります。主イエスが十字架に掛けられたのは金曜日です。翌日は安息日の土曜日ですから、金曜日に十字架刑が終わり次第、大急ぎで主イエスの葬りが行われたのです。ですから、イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは十分な葬りができていないと思い、安息日が明け次第、準備しておいた香料を持って墓に行った のです。主イエスのご遺体とお会いできる、彼女たちにはどんなにか待ち遠しいことだったでしょう。しかし、同時に不安もありました。それは、当時のユダヤの墓は洞穴(どうけつ、ほらあな)で、大きな石の蓋がされていました。女性だけで簡単に動かせるものでもありません。大の男でも二三人は必要な労力でしょう。マルコによる福音書の16章3節には「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。と記されています。また、墓の前には番兵もいるでしょう。どうしたら番兵を説得し、主イエスに香油を塗って差し上げることができるだろうかと心配をしていたのです。しかし、主を慕い思う心は、そうした障害を考えながらも急いで墓に向かったのです。2節を見てみましょう。24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、とあります。彼女たちは色々な思いを巡らしながら墓に付きました。すると蓋が取れていたのです。大きな障害物がなくなっていたのです。ここに主イエスにたいする純粋な信仰を見ることができます。真実なるものを求めるときに、その行く手をふさぐものはありません。人間の常識や分別にとらわれているので、前に進むことができないのです。進んでみれば障害は、障害の方で自ら退いてしまうものなのです。使徒パウロはフィリピへのフィリピの信徒への手紙4章13節で次のように記しています。 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。この御言葉は私たちの教会の今年度(2021年度)の年間聖句です。主イエスによって私たちにはできないことが可能になるのです。今日、先ず、覚えて頂きことは主が障害物を取り除いてくださること。です。

②復活された主が信仰の対象

3,4節を見てみましょう。24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。ところが、墓の中に入ってみると主イエスの遺体が無くなっていたのです。主イエスの遺体に香油を塗って差し上げたい一心で来た彼女たちは途方に暮れてしまったのです。私たちの人生においても途方に暮れてしまうことはあります。一生懸命、目的に向かって進んでいった。しかし、そこには何もなかった。全くの期待外れだったということを経験します。しかし、それで終わりではありません。輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。とあります。先ほどの大きな蓋という障害物が取り除かれていたことのように思ってもいなかったことが起こるのです。信仰の道が開けるのです。輝く衣を着た二人 とは天使のことです。並行箇所のマタイによる福音書28:5を見てみましょう。 28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、5-7節を見てみましょう。24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか とあります。彼女たちは自分たちが的外れなことをしていることを天使から告げ知らされます。彼女たちは死んだ主イエスを求めていたのです。共観福音書には主ご自身が、捕らえられ、十字架にかけら三日目によみがえることを三回予告したことが記されています。彼女たちはイエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちですので、この予告を聞いていたのです。しかし、聞いてはいたものの復活ということが理解できてはいなかったので、主が復活の予告をされたときに、何を言っているのか、何を意味するのか、何がなんだか全くわからなかったのです。 この箇所からとても大事なことがわかります。それは、私たちの信仰とは死人を信じる信仰ではありません。死を打ち破り蘇られ、今も生きておられる主イエスを信じる信仰なのです。故人となった方の教えを信奉しているのではないのです。例えば、仏教は、約2500年前に生まれた釈迦(ゴータマ・シッダール)が創始者で、故人となった方の教えです。聖書学者のウイリアム・バークレイは著書(ルカの福音書)の中で今日の聖書箇所について次のように記しています。「この物語で、最も重要な問題は、墓にいた使者の『あなたがたは、なげ生きた方を死人の中に訪ねているのか」という問いかけである。我々の間にも、イエスを死人の中にさがしている者が多くいる。人々はイエスを最も偉大な人物、最も高貴な英雄とみなしている。この世で最も美しい生を生きて死んだ人、それがイエスだという。それは間違っている。イエスは死んではいない。生きている。彼は過去の英雄ではない。彼は生ける臨在である。』」。今日二番目に覚えて頂きたいことは復活された主イエスが信仰の対象、今も生きておられる主が信仰の対象ということです。

③生きておられる主を証しする

8-10節を見てみましょう。24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、婦人たちはイエスの言葉を思い出した とあります。彼女たちは主の言われたことを思い出しました。そして主が語られた予告が成し遂げられたことを確信したのです。ですから、墓から戻り十一人とマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちかの人皆に一部始終を知らせたのです。彼女たちは信仰を取り戻せ、主イエスの復活について証をしたのです。11節を英語の聖書と一緒に見てみましょう。24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。And their words seemed to them as idle tales, and they believed them not. 使徒たちは婦人たちを信じなかったことが記されています。彼女たちはすくなくとも使徒たちは自分たちの証を信じてくれると思っていたことでしょう。しかし、使徒たちは「たわ言」として聞く耳を持ちませんでした。このたわ言と訳された言葉は英語の聖書ではidel talesです。複数形ですので 根拠のないいくつかの話の意味です。Nonsenseと訳してある英語の聖書もありあす。使徒たちは彼女たちの話、主イエスの復活を根拠のない無意味な話として一蹴したのです。「嘘でもいいから信じたい」という表現がありますが、そんなそぶりもありませんでした。使徒言行録にはパウロが死者の復活について話した時の反応が記されています。17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。復活の出来事は人間の知識、常識、経験では受け入れられないたわ言にすぎないのです。さて、私たちはどうでしょうか。主の証人として、このイエスに仕えた婦人たち、パウロのように証をしているでしょうか。こんな「たわ話」は聞いてくれるはずがないなどと思ってしまってはいないでしょうか。証をためらってしまってはいないでしょうか。今、心を探ってみようではありませんか。マリアの処女懐妊も主イエスの復活も歴史上の事実で、決して「たわ言」ではありません。この信仰を持って証をしましょう。今日、最後に覚えて頂きたいことは復活され今も生きておられる主が私たちの障害物を取り除いてくださることです。12節を見てみましょう。24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。ヨハネによる福音書にはペトロとヨハネが墓に駆け付けたと記されていますが、ルカには使徒の中で、ペトロだけが婦人たちの話を聞き、墓に駈け付けたと記されています。ペトロは主イエスの遺体をくるんでいた亜麻布だけを見て驚いて帰宅しました。なぜ、ペトロが墓に駈け付けたのかは聖書には記されていませんが、主イエスが十字架にかかる前、三度も主を知らないと否定したことを、復活された主にお会いしてお詫びをしかったのかもしれません。いずれにしてもペトロには恥辱を吹き飛ばすだけの大きな勇気をもって行動をしたことは間違いがないと思います。主イエスの復活は弟子たちに前もって伝えられていましたが、信じられなかった、理解ができなかったのです。弟子たちにとって復活は全く予期しない出来事だったのです。これは私たちの信仰生活にも当てはまります。人生には予期せぬことが起こります。しかし、主が私たちに先立ってくださり、私たちの障害物を取り除いてくださるのです。死を打ち破り復活をされた勝利の主に信頼し始まりました新年度を歩んで参りましょう。

Today’s point ①主が障害物を取り除かれる、②復活された主が信仰の対象、③生きておられる主を証しする

Thinking time 主にお委ね出来ない障害物はありませんか。どうしますか。