• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年4月18日主日礼拝      

説教題:「生きるとはキリスト 」聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章12-26節

◆わたしにとって、生きるとはキリストを生きること 1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。1:13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。1:25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。1:26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

ハレルヤ!4月の第三主日を迎えています。先週からフィリピの信徒への手紙を学んでいて、今日は二回目です。先週は、1章1-11節から「キリストの僕」と題し、三つのことを中心に学びました。①クリスチャンはキリストの僕、奴隷、②与えらえている賜物を生かし、使命感をもって福音宣教に関わる、③真の知識とは神と主イエスを知ることでした。今日は、1章12-26節から「生きるとはキリスト」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①信仰は連鎖反応する

12節を見てみましょう。1:12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。12節に、わたしの身に起こったこと とありますが、これは、1章7節に記されている通り、監禁されて獄中に入れられてしまったことです。獄中の場所はわかりませんが、パウロはこの手紙を獄中で書いています。そして、この獄中に入れられてしまったことが福音の前進に役だったことを知ってほしいと述べているのです。獄中生活は大変苦しく、不自由なものです。ある刑務所で、出所を目の前にひかえた受刑者が、脱獄を試みて捕まり刑期が延びてしまったということを聞いたことがあります。出所が目前に近づいても、一日も早く自由になりたいものなのです。しかし、パウロは違いました。福音の前進に役だったことを知ってほしいと語るのです。この個所には直接、喜びの表現はありませんが、パウロの喜びが目に浮かびます。その理由が13節と14節です。13節を見てみましょう。13節に兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡りとあります。監禁されている場所がローマ皇帝の親衛隊の兵営の近くだったのです。ですから、パウロは交代で来る番兵たちに福音を伝えることができたのです。牢屋に入れられてしまったからこそ福音が前進しているのです。それまでに福音を伝えたくても伝えられなかったローマ皇帝の親衛隊に福音を伝えることができたのです。パウロは自分の置かれた環境を福音宣教の観点から記しているのです。ローマ 8章28 節には次のように記されています。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。災い転じて福となすと言いますが、聖書は万事が益となるようにもたらしてくださると教えています。1:14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。14節にはもう一つの福音が前進した理由が記されています。捕らわれているのを見て確信を得、とあるように、パウロが獄中に入れられてしまったことが、フィリピの人々の心を動かし、福音の前進に繋がったのです。獄中にいるパウロの代わりに、フィリピの人たちは自分たちがしっかりしなければならないと思ったのです。一人の人間の献身的な行いが、周りの人々に勇気を与え、信仰を強めるのです。多くの人々に信仰の連鎖反応が起こるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは信仰の連鎖反応は起こるということです。

②福音伝搬が第一

15-17節を見てみましょう。PPT1:15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。1:16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、1:17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。パウロは獄中にいることには問題を感じていませんが、教会の問題を懸念していました。15節にねたみと争いの念にかられてする者、善意でする者 とあります。16,17節では言葉を変えて二つの派閥を説明しています。獄中のパウロを思い善意で福音を伝える者だけではなく、妬みや争い、党派心にかられて福音を伝える人がいたのです。そのことがパウロを苦しめていました。日ごろからパウロのことをよく思わない人がいて、パウロが投獄されたことを良いことにして、自分の勢力を増やそうとしたのでしょう。ねたみは人間の普遍的な罪の性質です。党派心とは自分を誇示し、自分の勢力を得ようとする分派の精神です。ねたみがあるところには争いが起こり、争いが党派心を生み分派になるのです。考え方や意見の違いはあります。あってよいのです。見方や、切り口が異なれば意見は異なります。また、能力、経験、賜物によって考え方も違うでしょう。問題は何を見つめているかです。考え方や意見の違いが、党派心から出ているのが問題なのです。私たちはどうでしょうか。何を見つめているでしょうか。主イエスをしっかり見つめているでしょうか。18節を見てみましょう。1:18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。18節でパウロは口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。と語ります。これは、宣教の動機や態度、党派心のことがどうでもよいということではありません。党派心の問題についてはこの手紙の2章に記されていますし、開きませんが、Ⅱコリント12章20節にも記されています。では、18節の言わんとすることは何でしょうか。それは、第一のことは第一にするということです。つまり、この個所でパウロが言いたいことは、動機はどうであれ、キリスト・イエスによる福音が伝えられていることを喜んでいるのです。福音伝搬が第一なのです。福音伝搬によって人は救われ、福音伝搬は神が喜ぶことなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは福音伝搬が第一ということです。19節を英語の聖書と共に見てみましょう。1:19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。1:19 for I know that through your prayers and God’s provision of the Spirit of Jesus Christ what has happened to me will turn out for my deliverance. (NIV) あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになる とあります。既に救われているパウロが救われるとはどういうことでしょうか。救われると訳されている原語σωτηρίαν には救い(salvation)と解放(deliverance)の意味があります。この箇所では解放の意味です。ですから、ほとんどの英語の聖書ではdeliveranceが使われています。つまり、19節は獄中にいてもフィリピの人々の祈りと御霊の助けにより、パウロは心の苦しみから解放されることを知っていたの意味です。

③主が内に生きている

20-21節を見てみましょう。1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。この箇所にはパウロの死生観が記されています。生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるよう とありますが、一体どうしたらこのようなことが可能になるのでしょうか。パウロはガラテヤの信徒への手紙で次のように記しています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。信仰者とは自分が生きているのではありません。自分の内にキリストが生きているのです。パウロが不当な仕打ちを受けたり、牢屋に入れられたりしても、恥を恥とも思わないのはパウロの中に主イエス・キリストご自身が生きていたからです。今日、三番目に覚えて頂きたいことは主が内に生きているということです。これを神学用語では内住のキリストと言います。私たち自身では決して喜ぶことができないことも内なるキリストによって可能となるのです。私たちはどうでしょうか。生きることはキリストのため、主イエスのためと言えるでしょうか。今生きているは自分自身のためではありませんか、今ここで、心を探ってみようではありませんか。死ぬとあります。パウロはローマ皇帝からの処刑宣告を覚悟して記したのではないかとの学説があります。では、死ぬことは利益とはどういう意味でしょうか。この世の人で死を利益と考える人はいないでしょう。長生きを願うものです。しかし、キリスト者にとって死は恐れでも呪いでもありません。天国への入口です。天国では、主イエスとパウロとの間に、肉体という分離の壁がなくなるからです。主イエスと離れることなく常に一緒にいられるからです。ですから、パウロは死ぬことは利益と語るのです。22-25節を見てみましょう。1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。1:25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。23節に板挟みの状態です。とあります。二つの選択肢のうちどちらかを選ぶべきかのジレンマです。牢から解放されて主のために実り多き働きをするか、主イエスのもとへ行くことです。パウロの心は揺れましたが、生き残りフィリピの人達と再びともにいれることに導かれたのです。パウロも人間ですから、自分の願いはあったと思います。しかし、御心を求め主に進む道をお委ねしたのです。パウロがキリスト者として召され、使徒として召されたのはパウロ自身のためではありません。御心を行うためです。今日の個所では25節のあなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすようです。パウロが生きながらえることによって、多くの信仰者の信仰が前進し、生きる喜びに溢れていくための働きができるのです。日本のキリスト教会の発展に大きく貢献した内村鑑三先生の墓標には英語で、I for Japan, Japan for world, world for Christ, All for God.(われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、すべては神のため。)と刻まれていますが、元日本同盟基督教団の副理事長の故 朝岡茂先生はこの墓標を見たときに、今日の聖書個所のフィリピ1:23-25に見るパウロの精神だと言っています。26節を見てみましょう。1:26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。26節は次のように言い換えることができます。フィリピの人々はパウロに会うことが出来る。そして、パウロを見ることによって、主イエスにある誇りが増すのです。私たちもパウロに倣い、誰かが私たちの言動を見ることによって、その誰かの主イエスある誇りが増し加わる者とさせて頂こうではありませんか。御霊に満たされ「生きることはキリスト」と言い切れるようにならせて頂きましょう。

Today’s point ①信仰は連鎖反応する、②福音伝搬が第一、③主が内に生きている

Thinking time 主イエスから目が離れてしまってはいませんか。どうしますか。