説教題:「何を誇りますか?」聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章12-18節
◆共に喜ぶ 2:12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
ハレルヤ!5月の第二主日を迎えています。今日は母の日です。アメージンググレイスの作詞家として有名なジョンニュートンは奴隷商人でした。ある日、ニュートンは奴隷を運ぶ航海中に凄まじい暴風雨に合いました。ニュートンは船が転覆する。もう駄目だと思い目を閉じました。そのときです。一つの映像が浮かびあがりました。ニュートンの母の姿です。神に祈る母の姿です。ニュートンは、思わず「お母さん」と叫びました。この一瞬にして奴隷商人の残忍な心はキリストに入れ替わったのです。その後、ニュートンは牧師となり、アメージンググレイスを初め数々の讃美歌を作詞しました。人はこれが最後だと思うとき、母の映像に接すると言われています。ニュートンの母は敬虔なクリスチャンでしたが、彼が7歳の時に天国に行きました。母親とは、それほど人の心の奥深く刻まれたものなのです。母の愛もアメージンググレイスです。私たちの教会では、先月からフィリピの信徒への手紙を学んでいて、今日は五回目です。先週は、2章1-11節から「キリスト讃歌に学ぶ不一致の解決法」と題し、三つのことを中心に学びました。①主イエスにより一致する、②主イエスが真のへりくだり、③イエス・キリストは主、神でした。今日は、2章12-18節から「何を誇りますか?」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①救いの達成も神が働いてくださる
12節から見てまいりましょう。2:12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。だからとあります。先週学んだ2章1-11節の内容を受けてです。主イエスを模範とし、主イエスのようにお互いを愛することによって一致をする。主イエスが父なる神にいかに従順であった事実を述べ、讃歌をもって主イエス褒め称えたのです。今日の個所はそれを受けての勧告です。フィリピの人々を救おうとする神の恵みの働きに従順であれということが記されています。わたしの愛する人たち とあります。パウロはこの表現を他の手紙でもしばしば使っています。(1コリ10:14,ロマ12:19など)勧告の口調を和らげるためです。このことからもパウロは偉大な伝道者であったことに加え、配慮に長けた牧会者だったことがわかります。恐れおののきつつとあります。神のみを神とし、御前にひれ伏すこと。神のみを頼りとすることですが、ちいロバ牧師として有名な榎本保朗先生は著書「新約聖書一日一章」の中でこの個所を次のように記しています。「キリスト教信仰において、闘っていかなければならないことは慣れだと思う。何年間か教会に出席して、奏楽や主の祈り、説教、献金と、同じことが続くと慣れが起こる。聖書の言葉に対しても、神の言葉を聞こうとする新鮮な期待が失われてしまう。それゆえ、パウロは恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」と言っていると。慣れには良い意味での慣れと悪い意味の慣れがあります。私たちはどうでしょうか。「悪い意味の慣れ」の状態になってしまってはいないでしょうか。心を探ってみようではありませんか。自分の救いを達成するように努めなさいとあります。この箇所だけを見ますと、一切を神に委ねることと矛盾するのではないかと思うかもしれません。自己努力による自力救済を説いているのかと思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。それはこの手紙は主イエスを救い主として受け入れて救われたフィリピの信徒宛に記されているからです。(1:1)クリスチャン宛の手紙なのです。救いは三つの段階があります。救いの三つの段階とは、先ず、主イエスを救い主と受け入れた瞬間です。次が、それ以降の信仰生活の歩み。信仰から離れず、救いの恵みに預かり続けることです。最後が再臨時の救いの完成です。先ず、第一の段階ですが、エフェソ2:1 とガラテヤ2:26を見てみましょう。さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。私たちは生まれながらにして罪びとです。罪に死んでいたものが自分で自分を救うことなどできません。ですから聖書(ガラテヤ2:26)は教えます。2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。私たちが救われるのは私たちが何か良いことをしたからではありません。私たちの行為ではありません。ただただ信仰によるものです。これを神学用語では信仰義認と言います。救いは神の一方的な恵みの業です。しかし、主イエスを受け入れて誕生した霊的な赤ん坊は成長をしなければなりません。救いの第一段階において、私たちは何もすることがありません。信じて告白をするだけです。この12節の自分の救いを達成するように努めなさいとは第二の段階です。この世での信仰生活の歩みです。救いの完成である再臨時までの歩みです。贈り物をされた時、私たちはそれを受け取らなければ自分のものにすることはできません。また、病気の時、医師の指示に従い、処方された薬を飲まなければ症状は回復しません。ある方が不眠症になってしまいました。仕事のストレスがピークになっていたのです。その方は毎晩、かなりのお酒を飲んで寝ていたのですが、それでも眠れず専門医を訪ね睡眠導入剤を処方されました。初めは、睡眠導入剤を飲むことに抵抗があったそうですが、飲み続け、幸いなことに直ぐに治ったそうです。医者への信頼と睡眠導入剤を飲んだことで回復をしたのです。同じようにこの世での信仰の歩みとは、神の働きを信じ、神の助けに応答しつつ進むものです。ですから私たちの側の責任でもあるわけです。達成とは最後までやり通すことです。神の救いを頂いたものは、その救いを中途半端にしてはならないとパウロは語るのです。旧約聖書の出エジプト記にはイスラエルの民がモーセに率いられ、エジプトでの奴隷の生活から逃れて、乳と蜜の溢れ流れる約束の地カナンに向かいました。イスラエルの民はこの信仰にたって行進を始めました。その道中で主はいくつも彼らにしるしをお与えになったことが、出エジプト記13:21,22に記されています。その後、イスラエルの民はモーセ―にエジプトにいればこんな苦労をすることはなかったと毒づいたりし、40年もの荒野での放浪を続けましたが、最後は約束の地に入ることが出来たのです。主に頼って、主がお立てになった指導者モーセ―に頼った結果です。13節を見てみましょう。2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。しかし、この私たち人間側にも責任がある救いの達成においても神が働いてくださり御心にかなった歩みができるようにしてくださるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは救いの達成も神が働いてくださることです。救いの御業を含め全ての物事は神によって始まり、神によって継続され、神によって完成されるのです。ですからパウロは続いて次のように語るのです。14-16a節を英語の聖書と一緒に見てみましょう。2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 2:16a 命の言葉をしっかり保つでしょう。Phil.2:14Do all things without murmurings and disputings: 2:15That ye may be blameless and harmless, the sons of God, without rebuke, in the midst of a crooked and perverse nation, among whom ye shine as lights in the world; 12:16aHolding forth the word of life;(KJB)14節に不平や理屈を言わずに とあります。不平と訳された言葉は言語ではゴーギャスモスとういう擬声語です。イスラエルの民が荒野での不信仰を表す言葉で、その意味は「つぶやかず」の意味です。理屈と訳された言葉は言語では役に立たない論争をするの意味です。ですから多くの英語の聖書ではwithout murmurings and disputings と訳されているのです。15節にはキリスト者とはなんであるかが記されています。とがめられるところのないblameless、清いharmless、非のうちどころのないwithout rebukeという三つの類語を反復してクリスチャンの性質を強調しています。清いharmlessと訳された言葉の原語の意味は混合物のないこと、混ぜ物のないことの意味です。金属でいえば何の不純物も含まれていないことです。人間についていう場合は、行動の動機に混じりがけない、純真な心から生まれる誠実さ意味します。この清いと訳されたギリシャ語はヘブル語では祭祀や燔祭の動物にも使われています。申命記15:21を見てみましょう。15:21 初子の足や目、あるいはほかのどこかに大きな傷があれば、あなたの神、主にいけにえとして屠ってはならない。傷がある=混じり物があるの意味です。パウロは旧約聖書に長けていたので、15節は申命記からの引用の言葉を使ったと思います。クリスチャンがこの悪しき世の中にあって、非のうちどころのない生きた証しの生活をすることによって、星のように輝き命の言葉をしっかり保つことができるのです。星のように輝きとあります。クリスチャンは暗闇に光を照らす存在です。主イエスが山上の垂訓で世の光であれと語られた通りです。命の言葉を言い換えれば命を与える言葉、つまり福音です。クリスチャンは暗黒の世界に光を照らすのです。福音を語り、日常生活を通して福音を証しするのです。
②主イエスを誇る
16節の後半を見てみましょう。2:16bこうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。自分が走ったこと 労苦したこと とありますが、労苦の原語にはアスリートが訓練する、鍛錬するという意味があります。パウロ書簡、パウロの書いた手紙の特徴の一つに陸上競技の言葉がしばしば使われていることが挙げられます。これは当時、ギリシャの世界ではスポーツが盛んで、大きな体育館があり、そこは運動の場だけではなく演説や討論の場としても栄えていました。ですから、パウロは比喩的に用いたのです。実際、パウロ自身も大きな体育館で福音を雄弁に語ったはずだとの学説もあります。自分が走ったこと、労苦したこととは具体的には福音宣教の活動を意味します。開きませんが、ガラテヤ2:2、4:11とでも同じ言葉が使われています。パウロは獄中にいながらも、自分の今までの福音宣教の働きを無駄ではなかったと断言しています。そして、キリストの日、主イエスと再びお会いした時に誇れるでしょうとも記しています。では、パウロは御前で何を誇るのでしょうか。自分が導いたフィリピの人々が救われたことを誇るのでしょうか。そうではありません。フィリピの人々に対して働いているのは、究極的には神の恵みであって、パウロはキリストの僕に過ぎないのです。ですから、パウロが語る誇りとは神の恵みによる勝利です。パウロはキリストの日に、神の恵みによる勝利を誇ることができるでしょうと語るのです。パウロは一コリント1:31で次のように記しています。1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。私たちが誇るべきものを一言でいえば主です。主イエスを誇るのです。これが、今日二番目にお覚えて頂きたいことです。
③苦しみも召命ゆえに喜べる
17,18節を見てみましょう。2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。この個所はパウロの召命感に基づいて記されています。パウロにとって主イエスのために死ぬことは光栄であり、また、特権的なものでもありました。ですから、パウロは自分自身の命を神に生贄として捧げることを喜んでいました。また、実際にそのことが起こったとしてもパウロにとっては大きな喜びなので、フィリピの人々も悲しまずに喜んでほしいと願っているのです。パウロは、苦難を受け、生贄となり、骨を折るように労苦を強いられることも主からの召命と確信していたのです。主から委ねられた働きをまっとうすることで、地上での苦労よりもはるかに勝る栄光が天にあることを見つめていたのです。ですから、パウロはその召命を後悔やつぶやきの言葉を用いずに、たたただ喜んでいるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは苦しみも召命ゆえに喜べることです。私たちも自分の召命を喜ぼうではありませんか。やがて、主の御前に立つ日が必ず来ます。あなたは何を誇るでしょうか。
Today’s point ①救いの達成も神が働いてくださる、②誇るべきものは主イエス、③苦しみも召命ゆえに喜べる
Thinking time 自分自身を誇ってはいませんか。どうしますか。