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2021年5月2日主日礼拝

説教題:「キリスト讃歌に学ぶ不一致の解決法」聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1-11節

2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

ハレルヤ!5月の第一主日を迎えています。先月からフィリピの信徒への手紙を学んでいて、今日はその四回目です。先週は、1章27-30節から「キリスト者の戦い」と題し、三つのことを中心に学びました。①天国市民の言動がキリストの兵士を生む、②戦いの相手は悪魔、③戦いは続いている。でした。人間のいるところには問題があります。それは、人間が罪びとだからです。そして、これは教会にも当てはまります。クリスチャンは罪赦された罪びとに過ぎず、教会はその罪びとが集まるところです。先々週学んだ1章に記されていますが、入獄中のパウロを思い善意で福音を伝えるものだけではなく、妬みや争い、党派心にかられて福音を伝える人がいたのです。派閥があったのです。派閥は政治の世界に限ったことではありません。教会にも派閥の問題が起こります。「3人集まれば派閥ができる」と言われるように2対1で、仲間割れが起きるものです。しかし、キリストの福音に生きるためには不一致の問題は解決をしなければなりません。本日は、2章1-11節から「キリスト讃歌に学ぶ不一致の解決法」と題し、お話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①主イエスにより一致する

1,2節から見てまいりましょう。2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。そこで、とあります。1章27節以降に記されている内容を受けてです。キリストの福音にふさわしい生活をすることです。当時、フィリピはローマの植民地でした。また、ローマは世界の中心でしたので、フィリピの人々はローマに対する憧れがあったのです。ローマ市民の誇り、特権、責任を心に留め生活をしていたのです。しかし、パウロはローマ市民の誇り、特権、責任よりももっと高いものがある。つまり、神の国の市民としての誇り、特権、責任を忘れるなと語ったことを受けてです。続いて、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心とあります。1節には不一致の原因を取り除き、解決を与えることができるものの本質が記されています。それはキリストと霊(聖霊)です。形式的な励まし、愛の慰め、交わり、慈しみ、憐みの心ではありません。キリストによ励まし、愛の慰め。霊による交わり、慈しみ、憐みの心です。その心があって初めて、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たすことができるのです。キリストによる一致をパウロは願っていたのです。パウロの願い、喜びは神に喜ばれることに他なりませんでした。動機はどうであれ福音が正しく伝えられていたことをパウロは喜んでいました。ですから、教会が正しく運営をされていたらパウロは一層、喜ぶのです。獄中にいても、これからどんなことが起ころうとも教会が健全であればパウロは嬉しく思っていたのです。これらは内住の聖霊の働きにより、キリストによる一致によってもたらされるものなのです。今日先ず覚えて頂きたいことは、主イエスにより一致する ことです。3,4節を英語の聖書と一緒に見てみましょう。2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。2:3Do nothing out of selfish ambition or vain conceit. Rather, in humility value others above yourselves, 2:4not looking to your own interests but each of you to the interests of the others.(NIV)3節には不一致の原因が記されています。利己心や虚栄心です。利己心の部分は口語訳では党派心で新改訳では自己中心と訳しています。原語のギリシャ語では競争心、野望の意味です。ですから英語の聖書ではselfish ambitionと訳しています。自分の考えや意見に固執したり自分の味方を増やそうとしたりする思いです。虚栄心とはうぬぼれや見栄をはることです。英語の聖書ではvain conceit と訳しています。直訳すれば、うぬぼれが強いうぬぼれです。類語を反復することでうぬぼれを強調しています。人間は成功し富ができると最終的には名誉や名声が欲しくなると言われています。称賛されること、尊敬されること、名前や顔が知られ著名になることです。これらのことは必ずしも悪いことではありませんが、主の栄光を表さずに自己顕示欲からきているのが問題なのです。自己顕示欲は教会の一致を妨げます。キリスト者の目的は自己顕示ではありません。自己消去と言えます。クリスチャンのおこないは他人に褒めてもらうことではなく、神が褒めたえられるためなのです。キリスト者は光輝いて見えます。しかし、それは自分自身が輝いているのではありません。月が太陽に照らされ光るように、キリスト者は内なる主イエスキリストにあって光り輝くのです。このことを忘れてしまうと高慢、傲慢の罪に陥ってしまうのです。ですから、パウロは続いて、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。と勧めているのです。では、どうしたらこの勧めが実行できるのでしょうか。

②主イエスが真のへりくだり

それが、5節の後半です。キリスト・イエスにもみられるもの とあります。キリストがへりくだり、他人ことにも注意を払ってくださったことです。そのような態度をお互いに心がけなさいとパウロは勧めています。そのキリストのへりくだりについての内容が6-11節です。6-11節はキリスト讃歌です。主イエスをほめたたえる気持ちを表す歌です。このキリスト讃歌はパウロが主イエスについて書いたものの中で最も優れた、最も感動的な文章の一つと古から言われています。 前半の6-8節を見てみましょう。2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。自分を無にして とあります。神であるキリストが身分を捨てて人間としてお生まれになられた。そして、犯罪人として処刑されその生涯を終えたのです。その事実をパウロは自分を無にしてと語ります。このキリストの生き方こそが、真の「へりくだり」なのです。皆さんは、遜る、謙遜と聞くと何を思い起こすでしょうか。愚妻、愚息、豚児という表現があります。自分の奥さんや息子のことを遜って言う場合ですが、これは本当のへりくだりではありません。本当に自分のこどもがブタの子のように愚かだと思っている親はいないでしょう。一種の社交辞令のようなものです。主イエスが身をもって示したへりくだりとは全くことなるものなのです。人間と同じ者になられました とあります。仮現説という学説があります。イエスの身体性を否定する教説で、「イエスの人としての誕生・行動や死はみな、人間の目にそのように見えただけであった」という考え方です。今でも、イエスは仮現ではないかという人がいますが、そうではありません。主イエスは100%神であり、100%人間であったのです。死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。とあります。主イエスは人間でもありましたので、十字架上で想像も出来ないほどの苦しみを受けたのですが、十字架に至る迄も従順でした。マタイによる福音書26章39節を見てみましょう。26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」杯とあります。杯は罪に対する神の怒り、憤りの象徴(イザヤ書51章17節、エレミヤ書25章15節)でした。つまり十字架刑です。また、主イエスは公生涯中、謙遜と従順と献身を身をもって示しましたのです。主イエスは人間を支配することを願わず、ただ、人間に仕えることを願いました。主はご自身の道を望まれずに、ただ、父なる神の道を望まれました。主はご自身が称賛されることを願わず、ご自身の全ての栄光を人間のために捨て去ることを願われたのです。聖書には高ぶらずに謙遜でありなさいとの教えが繰り返し記されていますが、主イエスご自身も自分を低くするものだけが高くされること述べています。マタイによる福音書12章12節には次のように記されています。マタイ 23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。これは、主が律法学者とファリサイ派の人々に対して語られたときのものです。私たちが主イエスを見つめ続けることにより、キリストにある一致が生まれます。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主イエスが真のへりくだりということです。私たちは主イエスに倣った真のへりくだりにより教会の一致が生まれるのです。主イエスようなにへりくだることなんて絶対無理と思われるかもしれませんが内なる聖霊の働きにより日々作り変えられ、最終的にはキリストの身の丈まで成長をさてくださるのです。このことは開きませんが、コリントの信徒への手紙二3章18節とエペソの信徒への手紙 4章13 節に記されています。この信仰に固く立ち歩んで参りましょう。

③イエス・キリストは主、神

9-11節を見てみましょう。9-11節はキリスト讃歌の後半です。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。このため とありますが、主イエスの公生涯が従順、謙遜、献身であり、十字架刑に処せられたことです。それにより、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのです。その結果が10,11節です。(そのまま読む)11節に「イエス・キリストは主である」とあります。この短い文章からとても大事なことがわかります。イエス、キリスト、主、であるという四つの言葉は、キリスト教会の信条のなかで根幹をなす信条です。クリスチャンとはイエス。キリストは主であると告白したものだからです。主イコール神ですから、イエスキリストは神であると告白することなのです。パウロはこの大事な信条をローマの信徒への手紙とコリントの信徒への手紙一でも記しています。見てみましょう。ローマ 10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。一コリント 12:3 ここであなたがたに言っておたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。イエス・キリストは主である 短い信条ですが、すべての信条の内容を包括する信条です。私たちはこの信条に固く立ち続ける必要があるのです。主イエスの御業、主イエスの生涯、主イエスが目標とされたものの全ては主イエスご自身が栄光を受けるためではなく、神の栄光のためだったのです。そして、私たちもイエスキリストは主であると告白することによって、栄光を父なる神に帰する日をやがて迎えるのです。

Today’s point①主イエスにより一致する、②主イエスが真のへりくだり③イエス・キリストは主、神

Thinking timeお互いに自分よりも優れたものと思っていますか。どうしますか。