• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年7月18日主日礼拝   

説教題:エルサレム会議での出来事~交わりの中心は主イエス~ 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙2章1-10節

使徒たち、パウロを受け入れる2:1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。2:2 エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。2:3 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。2:4 潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。2:5 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。2:6 おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。2:7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。2:8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。2:9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。2:10 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。

ハレルヤ!7月の第三主日を迎えています。今月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその三回目です。先週は、1章11-24節から「パウロの召命~人は救われる~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①アンチクリスチャンでも救われる、②救いには人間側の要素もある、③召命には使命が伴うでした。今日の個所は一般的にエルサレム会議と呼ばれていて、この会議のことは使徒言行録15章1-29節にも記されていますので、是非、後ほどお読みください。使徒言行録15章1-2節にはこのエルサレム会議を開催することになった理由が記されています。15:1 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。 15:2 それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

割礼派の人々(割礼の必要性を主張する異端の人々)がパウロの遣わされていたアンテオケの教会に来て、パウロやバルナバたちと救いに関して激しい論争が起こったのです。その問題解決のためパウロたちはエルサレムに上ったのです。今日の個所には、エルサレムの指導者からいかにパウロの伝道を認められたかということ、パウロが語る福音を完全なものとして認められたこと、そして、パウロが交わりに加えられ祝福が与えられたことが記されています。今日は2章1-11節から「エルサレム会議での出来事~交わりの中心は主イエス~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①主が示してくださる

1節から見て参りましょう。2:1 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。「その後十四年たってから」とあります。これは1章18節を受けてのことです。従って、初めてエルサレムを訪れてから14年後にエルサレムを再訪問したのです。初めてエルサレムを訪れたのは回心の三年後ですので、回心からですと17年後となります。この間、生まれ故郷のタルソを始めパウロは異邦人伝道に熱心に励んでいました。「バルナバ」とありますが、使徒言行録9章には誰一人として回心したパウロのことをとして信用していなかったのですが、バルナバがパウロをエルサレムの使徒の下へ連れて行ったことが記されています。また、使徒言行録11章にはエルサレム教会からバルナバがアンテオケ教会に派遣され、聖霊と信仰に満ちたバルナバがパウロをタルソからアンテオケ教会に連れて行き、二人して多くの人を教えたことが記されています。いわば、パウロにとってバルナバは恩人のような存在です。「テトス」とあります。使徒言行録にテトスの名前はありませんが、テトスはギリシャ人でコリント教会のために、パウロの代理人のように働いた人物です。パウロはその二人を連れて再度、エルサレムを訪問したのです。2節を見てみましょう。2:2 エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。「啓示によるものでした」 とあります。パウロがエルサレムにいった理由は主からの直接の啓示だったのです。アンテオケ教会にも割礼派という異端の人々が入り込んできたのです。教会は混乱し、パウロたちは対応を協議し、祈っていたことでしょう。そのパウロをエルサレムに向かわせたのは主だったのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは主が示してくださるということです。私たちの信仰生活でもどのように進めば良いのか、対応すれば良いのかが判断できないと思う場合もあると思います。祈りこむこともあると思います。しかし、最終的には主が行先を示してくださるのです。是非、この信仰に立とうではありませんか。「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないか」とあります。パウロは14年間(回心からは17年間)の伝道を振り返り、もしエルサレムの使徒たちが、異邦人からの回心者は全て割礼を受けなければならないと主張するのであれば、自分のこれまでの働きが無駄になってしまう。福音が歪められ福音ではなくなってしまうと考えたのです。何としてもエルサレムの使徒たちに対してアクションを取らねばならないと決意をして会議に臨んだのです。

②福音の伝え方は様々

3-4節を見てみましょう。2:3 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。2:4 潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。3節に「テトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。」とあります。パウロはユダヤ人、異邦人(ギリシア人)の区別なく、割礼のあるなしにかかわらず、福音は全ての人に救いを与える神の力であるという、自らの福音理解の生き証人としてテトスを連れていったのです。4節に「潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかった」とあります。パウロは「偽の兄弟たち」と辛辣な言葉を使いますが、割礼を主張する異端の人々のことです。パウロが仕えていたアンテオケの教会にもガラテヤの諸教会と同様に異端の人が入り込んでいたのです。それにもかかわらずにテトスは割礼を強制されることがなかったことがわかります。「わたしたちを奴隷にしようとして」とありますが、「偽の兄弟たち」(異端の人々)はキリスト者を律法の奴隷にしようとし、更に「キリスト・イエスによって得ている自由」を奪おうとしていたのです。5節を見てみましょう。2:5 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。パウロは「福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように」と語ります。続いて、ガラテヤの諸教会の人々を鼓舞するため。異端に対して「屈服して譲歩するようなことはしませんでした」と語ります。ガラテヤの諸教会の人々に対して、あなたたちも絶対に妥協などするなと伝えているのです。6,7節を見てみましょう。2:6 おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。2:7 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。「おもだった人たち」とあります。これはエルサレムの指導者のペトロや主の弟のヤコブです。彼らとの会議の内容が記されています。パウロにとって、たとえ彼らがどんな人物であっても全く問題はありませんでした。その理由が「神は人を分け隔てなさい」からです。神は依怙贔屓をするお方ではありません。「わたしにどんな義務も負わせませんでした」とありますが、エルサレムの指導者はパウロの福音に何も付け加えることはしなかったのです。つまり、パウロが語る福音とエルサレムの指導者の語る福音は同じだったのです。7節に「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました」とあります。エルサレムの指導者はかっては自分たちキリスト者を迫害していたパウロを異邦人伝道者として認めたのです。パウロが語る福音とエルサレムの指導者の語る福音は同じだったので、ここには派閥はありませんが、宣教の相手をすみ分けたことがわかります。福音は同じでも宣教の働きが違うのです。福音を伝える相手が違うとも言えます。福音を伝える相手が違えば福音を伝える方法も異なります。16年前のことですが、カリフォルニアの州都サクラメントにあるキャピタルクリスチャンセンターという教会を訪れました。礼拝は世代別(kid、youth、adult、elder)に分け4回の礼拝をしていました。説教の内容や賛美など礼拝のスタイルが異なり、伝道にも配慮した世代別の礼拝です。礼拝後は、それぞれの世代別の集会もありました。海や池が異なれば魚が異なり、魚が異なれば釣り方も変わるのと同様です。今日二番目に覚えて頂きたいことは福音は一つですが、その福音の伝え方は様々ということです。

③交わりの中心は主イエス

8-9節を見てみましょう。2:8 割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。2:9 また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。8節に「ペトロに働きかけた方」とあります。これは神です。割礼を受けた人のため、ユダヤ人を回心させるためにペトロを使徒に任じた神は、パウロを異邦人に対する使徒として任じたのです。パウロはこのエルサレム会議においても、人間からではなく神から使徒職を任命されたことを宣言しているのです。9節に「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人」とあります。エルサレム教会の指導者たちは、パウロとバルナバに「一致のしるしとして右手を差し出し」。異邦人に対する宣教の働きを祝福し、異邦人伝道に送り出したのです。キリストにある交わりは、結局、一つなのです。この手紙の1章でパウロは自分が語る福音はひとからのものではなく神からのものだと語りました。そして、今日の個所では、その福音がエルサレム教会の使徒が語る福音と異質なものではなく同じ福音と主張しているのです。その同じ福音がペトロを中心としてユダヤ人に宣べ伝えられ、パウロを中心にして異邦人に宣べ伝えられることを相互に理解し承認し、交わりを一つとしたのです。この交わりとは、キリスト者がお茶を飲みながら楽しく会話をすることでもたらせるものではありません。主イエスの十字架上の犠牲によってもたらされたものなのです。ですから、この交わりの中心は主イエスで、私たちはこの交わりを通して成長させて頂くものなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは交わりの中心は主イエスということです。交わりの場にファシリテーターのような方が必要な場合もあるかもしれませんが、交わりの中心は誰々さん(人間)ではありません。主イエスです。教会は交わりの場でもあります。パウロはコリントの信徒への手紙一12章26節で次のように語りました。12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。さて、私たちはどうでしょか。この御言葉を実践出来ているでしょうか。今、心を探ってみようではありませんか。10節を見てみましょう。2:10 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。「貧しい人たちのことを忘れないように」とあります。エルサレム教会の指導者たちはパウロに一つだけ注文を付けましたが、パウロは「ちょうどわたしも心がけてきた点です」と答えたのです。実際、パウロはローマの信徒への手紙15章26節で次のように記しています。15:26 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。キリストにある交わりの中には経済的な支援援助があることも忘れてはならないのです。

Today’s point①主が示してくださる、②福音の伝え方は様々、交わりの中心は主イエス

Thinking time手を差し伸ばし忘れている方はいませんか。どうしますか。