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2021年7月25日主日礼拝

説教題:救いはキリスト信仰のみ~人生のハンドルを握るお方~ 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙2章11-21節

◆パウロ、ペトロを非難する2:11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。2:13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」◆すべての人は信仰によって義とされる2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

ハレルヤ!7月の第四主日を迎えています。ガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその四回目です。先週は、2章1-10節から「エルサレム会議での出来事~交わりの中心は主イエス~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①主が示してくださる、②福音の伝え方は様々、③交わりの中心は主イエスでした。今日は2章11-21節から「救いはキリスト信仰のみ~人生のハンドルを握るお方~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①恐るべきものを恐れる

11,12節から見て参りましょう。2:11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。「さて、」とあります。今日の聖書個所は先週、学んだエルサレム会議の後で、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来た時の出来事です。パウロはペトロの行動に対して「非難すべきところがあったので」、ペトロに「面と向かって反対し」たのです。その理由が12節です。「ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに」とあります。どのような理由でペトロがパウロのいるアンティオキアに来たかはわかりませんが、「ヤコブのもとからある人々」つまり、エルサレムからある人が来るまでは、異邦人と一緒に食卓を囲んでいたのです。ここにはキリスト者の自由があります。イエスの十字架により、ユダヤ人と異邦人の壁が取り壊されたのです。しかし、エルサレムから来た、ある人のなかに律法主義的な食習慣のキリスト者や割礼派のキリスト者がいたのでしょう。ペトロはその人たちを恐れ、異邦人との食事をやめてしまったのです。つまり、律法に逆戻りしてしまったのです。13,14節を見てみましょう。2:13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」「バルナバさえも」とあります。パウロにとって恩人ともいえるバルナバも「心にもないことを行」う連中に引き込まれてしまったのです。ですから、パウロは14節にあるようにペトロに「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」と面と向かって非難をしたのです。この個所をパラフレーズするとこのように言えると思います。「ペトロ、あなたはユダヤ人だが、主の十字架によってもたらされた恵みによる福音で救われたキリスト者でないか。どうして律法主義者に戻るのですか。」パウロにとって信仰の大先輩であるペトロを公衆の面前で非難することには勇気がいったでしょう。また、恩人であるバルナバの名前を手紙に記すことも勇気が必要だったでしょう。しかし、パウロは「福音の真理」にのっとらず歩む人々、律法に遡りする人々に我慢ができなかったのです。このペトロに対する非難から読み取れることがあります。それは、本心を偽って行動をするという人間の弱さです。ペトロは自分の行為が福音に適していないと知りつつも異邦人との食事を避けてしまいました。このようにペトロを追い込んでしまったのは12節に「恐れてしり込みし」とあるように人の目です。人間です。人の目を恐れるということは誰もが抱える人間の弱さです。主イエスはマタイによる福音者で次のように語られました。マタイ 10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。開きませんが、箴言29:5、イザヤ51:12を読まれてください。私たちが本当に恐れるものは人間ではありません。神、主です。今日、先ず覚えて頂きたいことは恐るべきものを恐れるということです。私たちはどうでしょうか。人の目ばかりを気にしたり、恐れてしまったりはいないでしょうか。今、心を探ってみようではありません。

②神様は気前が良いお方

15,16節を見てみましょう。2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。パウロはこの手紙で初めから最後まで福音について多く記しています。全部で16ヶ所、記されていますが、14節までが11回です。15,16節では福音の真理とは何かと明らかにします。それが、16節の「律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくため」です。神学用語でいうと信仰義認です。16節はこの書簡の中心です。ユダヤ人であろうが異邦人であろうが義とされるのは主イエスを信じる信仰のみなのです。律法の行いは関係がないのです。つまり全ての人は信仰のみによって義とされるのであり、誰一人として律法の行いによっては義とされないのです。マタイよる福音書の20章1-16節にはぶどう園の労働者のたとえが記されています。早朝から12時間も働いた人から、9時間、6時間、3時間、1時間しか働かなかった人がいました。しかし、ぶどう園の主人は労働時間にかかわらず、全員に約束した通り1デナリの報酬を渡したのです。当然のように労働者からは不満がでます。 マタイ20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』これに対する主人の答えの結論が15節です。マタイ20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』今日、二番目に覚えて頂きたいことは神様は気前の良いお方ということです。気前の良さはユダヤ人だけはなく全人類に対するものなのです。大きな愛の現れの一つです。ユダヤ人は救われるために律法を厳守して生きてきました。早朝からぶどう園で12時間も働いてきたようなものです。しかし、主イエスの十字架によってなされた福音―信じるだけで救われるという福音―は最後の1時間しか働かなかったようなもの、いや、全く働かなかったものにも恵みによって同様に与えられるのです。17,18節を見てみましょう。2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。17.18節は「信仰義認が罪を助長する」という疑問への反論です。律法ではなく信仰によってのみ義とされるのであるなら、罪の中に留まってもよいのではないか。罪を犯しても信仰によって義とされるのならキリストは罪の助成者(罪に仕える者)になってしまうのではないかとの疑問です。ですから、パウロは「決してそうではない。」と告げ、18節でその理由を述べておるのです。信仰によって義とされた後も、私たちが罪の中に留まってしまっていたとしても信仰義認が間違っているのではありません。当然、キリストは罪の助成者(罪に仕える者)でもありません。その責任は私たちの側にあるのです。罪に対して死ぬべき私が、せっかく「打ち壊したもの(律法を示す)を再び建てるとすれば、」私たち自身が「違犯者であると証明する」のです。パウロはローマの信徒への手紙の5章20節-6章2節でも、「信仰義認が罪を助長する」ことへの反論を記しています。ローマ5:20 律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 5:21 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。 ◆罪に死に、キリストに生きる 6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

③主イエスがハンドルを握っている

19a節を見てみましょう。2:19 aわたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。「神に対して生きる」とあります。「律法によって死んだ」とあります。ユダヤ教徒においては神に対していきるとは神が定めた律法を厳格に守るということです。しかし、キリスト者が「神に対して生きる」とはそうではありません。そのことが続く19,b-20節に記されています。2:19bわたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。「キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。」とあります。パウロは律法による生き方からの脱却と、キリストによって生かされていることを宣言しています。その理由が「キリストがわたしの内に生きておられる」からです。キリスト者は内住のキリストによって生かされ、生きるのです。そして20節の後半「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」とあります。何を信仰するのかが記されています。神の子に対する信仰です。心配性の人を乗せて車の運転をすると「イラっと」してしまうことはないでしょうか。私たちは教会堂に来るときに車できているのですが、心配症な妻、美恵子牧師はコーナーを曲がる時「あ、あぶない右側に出過ぎているよ。対向車が来ているよ!」などとしょっちゅう言います。うるさいよ!運転手を信頼して任せなさいと言いたくもなるのですが、妻にとっては心配なのでしょう。信仰のドライブも一緒です。主にハンドルをお任せした以上、すべてお任せするべきなのです。人間は事故を起こす場合があります。事故を貰う場合もありますが、主イエスの運転に事故はありません。「キリストがわたしの内に生きておられる」、つまり、主イエスが私たちの人生のハンドルを握ってくださっているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは主イエスがハンドルを握っているということです。この信仰に固く立とうではありませんか。21節を見てみましょう。パウロは「わたしは、神の恵みを無にはしません。」と語ります。罪びとである私たちをキリストに在って義と認めてくださり、神の子どもとして下さったこの恵みを決して無駄にはしてはならないのです。万一そうであれば、「キリストの死は無意味になってしまいます。」私たちは自己中心的な古い肉の生き方から神中心の聖霊による生き方をしつつ、神と主イエスの愛に応える生活が求められるのです。このことについては3章以降で詳しく学んで参ります。

Today’s Point①恐るべきものを恐れる、②神様は気前が良いお方、③主イエスがハンドルを握っている

Thinking Time律法に縛られてはいませんか。どうしますか。

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