説教題:主が呪いを受けてくださった 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙3章1-14節
◆律法によるか、信仰によるか3:1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。3:4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。3:5 あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。3:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。3:7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。3:9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。3:10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。3:11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。3:12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。3:14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。
ハレルヤ!8月の第一主日を迎えています。先月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその5回目です。先週は、2章11-21節から「救いはキリスト信仰のみ~誰を恐れていますか?~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①恐るべきものを恐れる、②神様は気前が良いお方、③主イエスがハンドルを握っているでした。今日は3章1-14節から「主が呪いを受けてくださった」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①律法的な心に陥らない
1,2節から見て参りましょう。3:1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」とあります。パウロが嘆いている姿が目に浮かびます。「ガラテヤの兄弟たち」ではなく「ガラテヤの人たち」と記しています。あきれはてて兄弟と呼びたくなかったのかもしれません。パウロはガラテヤの人たちをキリストに導きましたが、そのガラテヤの人たちが惑わされてしまったことに驚き呆れ果てきいるのです。「だれがあなたがたを惑わしたのか。」とありますが、パウロは惑わした人を知らないわけではありません。「イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された」という事実にもかかわらず、割礼派の人々によって惑わされてしまったことを暗に伝えているのです。この惑わすと訳された原語には「魔法にかける」の意味がありますので、ガラテヤの人たちは魔力によって惑わされたと訳せます。だれによって惑わされたかと言うと直接的には割礼派の人たちですが、その背後にいる悪魔、サタンの存在を忘れてはいけません。パウロはサタンが彼らを惑わしたと確信をしていました。ですから、ガラテヤの人たちの目を覚まそうとして、二者択一の質問をします。2節「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」ガラテヤの人たちが「“霊”を受けたのは、福音を聞いて信じたから」にほかなりません。コリントの信徒への手紙一12章3節には次のように記されています。12:3ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。そもそも、人がイエスを主と告白できるのは聖霊の働きなのです。そして、イエスを主と信じて告白した瞬間から聖霊が内に留まり続けるのです。 3-5節を見てみましょう。3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。3:4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。3:5 あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。3節で、「物分かりが悪く、肉によって仕上げようとする」と非難をしているのです。物分かりが悪くは1節でも使われていておろかさが強調されています。4節に「あれほどのことを体験した」とありますが、「“霊”によって始めた」ことです。聖霊を受けることは一回のことです。このことは、「“霊”によって始めた」の「始めた」の原語(ギリシャ語)の文法からも説明が出来ます。過去の一回的な体験、決定的な歴史的出来事を指し示すアオリストという時制が使われています。後半に「無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……」とあり呆れ果てて居る様子がわかります。5節は2節で述べられた内容が言葉を少し変え繰り返しています。さて、1-5節に記されていることからとても大事なことがわかります。それは、私たちもガラテヤの人たちと同じように律法に戻ってしまう、律法主義者のようになってしまう危険性があるのです。私たちが救われたのは信仰によってのみです。まったくの恵みによるものですが、信仰生活を続けると御言葉を実行する者となります。主の弟子として整えられていきます。教会での奉仕も積極的に行います。しかし、この奉仕をする時に慢心となってしまい他人を見下してはいないでしょうか。もし、そうであればそれは律法主義的な心に陥ってしまっているのです。また、逆に自分の不足している事だけをみつめ悲観し救いの喜びが失われるのも律法主義的な心に陥ってしまっているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは律法的な心に陥らないことです。18世紀のイングランド国教会の司祭のジョン・ウェスレーはこれを「サタンの策略」と呼びました。このサタンの策略にのってしまうとキリストにある自由と喜びが奪われてしまい、自責の念という十字架を背負いながら歩いているようなものです。因みにですが、私たちもそうですが、多くのホーリネス系の教団、教会はこのジョン・ウェスレーの流れを汲んでいます。
②福音は前もって伝えられていた
パウロは旧約聖書に長けていましたので、6-14節には旧約聖書の視点から信仰義認の真理を証明しようとしています。そのため旧約聖書から6回も引用がされています。6-7節を見てみましょう。3:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。3:7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。6節に「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」とあります。突然、アブラハムの名前がでてきますが、これは創世記15章6節からの引用です。 創世記15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。この個所からとても大事なことがわかります。アブラハムは律法ではなく信仰によって義とされたのです。律法が与えられたのはアブラハムの時代の約400年後のモーセの時代ですから、アブラハムの時代には律法がなかったのです。また、創世記の17章には割礼が神の契約の民となる印であることが記されていますが、割礼以前、信仰によってアブラハムが義とされたという事実が15章6節からわかります。主イエスの十字架の御業に先立ち、旧約聖書の中にも信仰による救いが記されていたのです。ですから、続く7節で、「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」とパウロは勧めているのです。 8-9節を見てみましょう。3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。3:9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。8節に「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」とありますが、これは創世記12章3節からの引用です。12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」3:8And the Scripture, foreseeing that God would justify the Gentiles by faith, preached the gospel beforehand to Abraham, saying, “In you shall all the nations be blessed.”(ESV)この個所からも割礼に先立って、信仰よって故郷を旅だったアブラハムに神は祝福を約束されたことがわかります。また、8節の後半に「予告しました」とありますが、原語のギリシャ語(προευηγγελίσατο)では一語で「福音が前もって伝えられた」の意味です。英語の聖書(ESV)では「preached the gospel beforehand」と訳されています。今日、二番目に覚えて頂きたいことは、福音は前もって(アブラハムの時代に)伝えられていたことです。ですからパウロは続く9節で「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」と確信をもって語るのです。6-9節の主題は信仰が祝福をもたらすですが、10-12節には律法が呪いに至ることを語り、信仰と律法を対比しています。引き続き旧約聖書を引用しています。引用箇所を含めて10-12節を順番に見てみましょう。3:10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。申命記 27:26 「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」民は皆、「アーメン」と言わねばならない。そもそも、ユダヤ人にしても異邦人にしても律法を完全に守ることはできません。呪われるだけなので救いの道ではないとパウロは語ります。 3:11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。ハバクク 2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」11節には万一、律法を完全に守ることができたとしてもそれによって義とされることはあり得ないことを述べています。 3:12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。レビ 18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。律法と信仰とは車の両輪ではありません。完全に相対立するものなのです。信仰とは神を信じ、神によって生かされることです。一方、律法とは自分を信じ、自分で生きることですから、両立ができないのです。二者択一をしなければならないのです。当然、選び取るものは信仰です。このことを終極的に保証しているのが、イエス・キリストです。そして、キリストはわれわれに代わって、律法の呪いを引き受けてくださったのです。
③キリストが呪いを受けてくださった
そのことが13,14節です。13節を旧約聖書の引用部分と一緒に見てみましょう。3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。申命記 21:23 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。旧約の時代、極刑と言えは石打の刑でした。そして見せしめのために石打刑の後で木につるしたと言われています。申命記の教えは「木につるせ」ではありません。「必ずその日のうちに埋めねばならない」です。見るに忍びない状況だからです。それほど残酷な刑にもかかわらず、キリストは、私たちの身代わりとしてこの世にこられたのです。私たちが受けるべきのろいの刑罰、十字架にかかってくださったのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリストが呪いを受けてくださったことです。14節を見てみましょう。3:14 それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。キリストの死により成し遂げられたことが二つ記されています。先ず、律法の支配に完全な終止符を打ち、救いは異邦人(全人類)にまで及んだのです。そして、信仰によって約束をされた祝福、即ち、主イエスを救い主として受け入れて人には聖霊を受けることが出来るようになったのです。
Today’s Point①律法的な心に陥らない、②福音は前もって伝えられていた、③キリストが呪いを受けてくださった
Thinking Time自責の念という十字架を背負ってはいませんか。どうしますか。