本日は、詩編11編1-3節から「何に望みをおく」と題して短くお話をします。
詩編11:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】主を、わたしは避けどころとしている。どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか/「鳥のように山へ逃れよ。 11:2 見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。11:3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」と。
詩編11編は、作者のダビデがサウルから命を狙われていた頃(サムエル一21~26章)のことではないかとの学説がありますが、極めて明瞭な信仰の詩です。それは先ず結論ありきだからです。詩人は最初に「主を、わたしは避けどころとしている。」、「わたしは主に寄り頼む」(口語訳)と結論を語ります。続いて「どうしてあなたたちはわたしの魂に言うのか」、「なにゆえ、あなたがたはわたしにむかって言うのか」(口語訳)と詩人は友人からの忠告を否定しています。2,3節にはその詩人が否定した友人からの忠告です。「鳥のように山へ逃れよ。」とは不安にかられた鳥が山に逃げるように逃げなさいの意味です。それは世の基がとりこわされてしまい、悪しきものが義しきものを滅ぼそうとしているからです。それが、「見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ/闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。11:3 世の秩序が覆っているのに/主に従う人に何ができようか」、『「11:3 基が取りこわされるならば、正しい者は何をなし得ようか」と。』(口語訳)です。私たちには信仰の友が必要です。お互いに聖書を学び祈ったり、励まし合い慰め合ったりするかけがえのない関係です。しかし、主にある関係であっても現実ばかりを見つめてしまう場合があるでしょう。頼るべきものを忘れてしまっている場合がありますし、今日の個所のように信仰よりも現実的な助言を頂く場合もあるでしょう。勿論、正しい知恵と知識を持って現実を見ることは必要であり、現実を顧みずに信仰に立つのは妄信です。旧約聖書の箴言は知恵と悟りの書と言われていますが、1章7節には次のように記されています。1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。1:7 主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。(口語訳)私たちが正しく畏怖し、より頼むべきものは主イエス以外にはありません。マルチン・ルターが作詞、作曲をした「深き悩みより」という賛美(讃美歌21 160番)があり、3節には次のように訳されています。「おのれの業には 少しも頼らず、おのれの力に 救いを求めず、疑うことなく 神のみ言葉に 望みをおくのみ。」私たちは何に望みをおいているでしょうか。