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2021年10月3日主日礼拝 

説教題:十字架を誇ろう!聖書箇所:ガラテヤの信徒への手⑬ 6章11-18節

◆結びの言葉6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

ハレルヤ!10月の第一主日を迎えています。7月からガラテヤの信徒への手紙を学んでいて、今日はその13回目で最後となります。先週は、6章1-10節「キリストの律法~主の愛に押し出される~」と題して三つのことを中心にお話をしました。①主の愛に押し出される、②自分の負うべき責務を果たす、③神の法則は霊の世界も支配するでした。今日は6章11-18節から「十字架を誇ろう!」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①十字架以外に誇るものはない

11節から見て参りましょう。6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。他のパウロ書簡では最後の部分は短く挨拶と祝祷に留めていますが、この手紙では11-18節と長く記されています。「自分の手で」とあります。当時、筆記者を用いて手紙を書くことは一般的で、パウロも自分の手紙を筆記者に口述して書かせていました。20世紀に活躍したドイツの牧師で神学者のディートリヒ・ボンヘッファー は「キリスト者の手でしたためられた書簡は、キリスト者を強める」と語りましたが、パウロもガラテヤの人々にそうなって欲しいと願ったことでしょう。また、パウロは自ら「大きな字で」筆を取りました。大きな字で直接、記したのには大きな意味があります。この手紙には強い口調の言葉や、厳しい叱責も記されていますが、ガラテヤの人々を愛するが故のことです。今日の聖書個所には、その愛するガラテヤの人々へパウロが直接、最後に伝え残したい重要な内容なのです。「大きな字」には二つのことが考えられます。先ず、強調のためです。今日でも強調したい個所は太字(ボールド体)を使います。私たちの教会のHPでも強調したい個所は太字にしたり、斜体にしたり、ハイライトをかけたりして目立たせています。二つ目は、パウロは目を患っていたとの学説(根拠4章15節)がありますので、直筆の場合は大きく書かざるを得なかったと考えられます。両方とも考えられるでしょう。12,13節を見てみましょう。6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。12節以降にはパウロが大文字で直接伝えたいことの具体的な内容が記されています。最後に伝え残したい重要な内容なのです。割礼と律法です。とりわけ、割礼派の人々の動機を断罪しています。パウロは割礼派の人たちを「肉において人からよく思われたがっている者たち」と呼び彼らの行動を「迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。」と語ります。当時、キリスト者は迫害を受けていました。割礼派の人たちはガラテヤの人たちに迫害という不安を煽り、割礼を強いようとしていたのです。割礼を受ければユダヤ主義者と看做され迫害を避けられるからです。割礼派のキリスト者とは一方でキリスト者と称しながら、一方では割礼を説くことによって迫害を逃れようとしていたのです。自分たちの神学的な解釈から来る動機ではなくただ、迫害を逃れたいとの思いです。パウロはそれを断罪したのです。ペトロは自己保身の思いからから三度も主イエスを知らないと否定したように、迫害を避けるために割礼を受けることは主イエスを拒むことに他ならないからです。13節に「割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが」とあります。割礼派の人たちは律法を守っていない偽善者だったのです。それなのに彼らが割礼を強いるのは「肉について誇りたいため」なのです。割礼をさせ自分たちの勢力を誇りたいという肉の思いなのです。自己の野心を満足させたいものだけなのです。14節を見てみましょう。6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。パウロは割礼派に対する非難からこの手紙の中心的な課題に話を戻します。割礼派の人たちは肉を誇り野心を追求するであろう。しかし、パウロにとってそのような肉の誇りや野心とは滅びに至るものに過ぎないのです。パウロは肉の思いや誇りをフィリピの信徒への手紙で「それらを塵あくたと見なしています。」と語りました。「塵あくた」とは原語では排泄物、糞尿の意味です。ですから、パウロは「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」と語るのです。今年はオリンピック、パラリンピックが開催されました。コロナ下、賛否両論の中での開催ではありましたが、メダルを獲得した選手には一生忘れることのできない思い出となったことでしょう。恩師の岸義紘先生は48歳の時に日本マスターズ水泳協会が認定した日本新記録メダルを取ったのですが、著者「ガラテヤ人への手紙」には次のように記されています。そのまま引用致します。「ここに、日本マスターズ水泳協会の、日本新記録の認定メダルがあります。その年の日本記録保持者に贈られるのです。45-49歳クラスの、自由形25mの日本記録です。このメダルをじっと見ていると、心が高揚して来て、鼻息が荒くなってきます。そして、『やったぞ。これからもやるぞ。練習に励む。練習を続けるのだ。48歳でこの記録を出したから、まだまだ行ける。出してやる。』という気持ちになってきます。疲れた時、落ち込んでいる時にこれをじっと見ていると、力が出てきます。こんなものが誇りになってはならないし、これは過ぎ行くものですが、、、私たちがクリスチャンとして、教会として、何に目を留めるのか。苦しめば苦しむほど、悲しめば悲しむほど、落ち込めば落ち落ち込むほど、行き詰れば行き詰るほど、私たちがじっと目を見開いて、目を留めるもの。それはイエス・キリストの十字架です。(中略)十字架を見つめれば、私たちのうちに信仰と希望と愛が燃え上がってくる。ガラテヤの教会と共に、パウロと共に、ただ一つを死守して戦いましょう。」と。14節の前半をもう一度、お読みします。しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。十字架は滅びに至る者には無意味なものかかもしれない。しかし、救いの恵みに預かった者には救いの御業を思い起こさせるための証拠なのです。救いはキリスト信仰ただ一つ。これがこの手紙の主題です。神学用語でいえば信仰義認のみ。その証拠が十字架なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは十字架以外に誇るものはないということです。後半に「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」とあります。パウロはこの世に対して死んだのです。この世がパウロに対して何をしようが、何を言おうが関係がないのです。パウロがこの手紙の2章20節で述べた通りなのです。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。パウロは自分に死んでいるのです。この世に対し、律法に対し、罪に対し死んでしまったのです。この世に属してはいないのです。たしかに、パウロにしても私たちにしてもキリスト者はこの世を生きてはいます。しかし、キリスト者の本国、国籍は天に移されているのです。

②主により新しく創造された

15節を見てみましょう。6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。15節はこの手紙の5章6節(5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。)で述べたことと似ていますが、内容は異なります。「大切なのは、新しく創造されること」とあります。神はまず、アダムとエバを創造されました。そして、神の時が満ちてキリストによる十字架の御業により新しい創造を行われました。ユダヤ人もなく異邦人もない。この世の人間的なことは全く重要ではないのです。キリストに在って新しく創造されたことが最も大事な事柄なのです。パウロはコリントの信徒への手紙二で次のように記しています。二コリント 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。「新しく創造された者」、つまり、聖霊によって新しく生まれ、キリストに在って新しい人生を歩む。これを神学用語では新生、英語ではborn againと言います。born again以上に価値があるものはないと思います。さて、私たちはどうでしょうか。新しく創造されているでしょうか。古いままではないでしょうか。自分のために奉仕をしたり福音を伝えたりはしていないでしょうか。自分のために教会成長を願ったりはしていないでしょうか。心を探ってみたいと思います。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主により新しく創造されたということです。16節を見てみましょう。6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。「このような原理に従って生きていく人の上に」とあります。割礼の有無ではなく、キリストに在って新しく造られた者の意味です。「神のイスラエル」とありますが、アブラハムの霊的子孫であるキリスト者の群れです。キリストの体なる教会を意味します。そして、この原理によって歩む全てのキリスト者とキリストの体なる教会に「平和と憐れみがあるように」と祈るのです。

③主イエスの焼き印が押されている

17節を見てみましょう。6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。手紙を閉じるにあたり、「だれもわたしを煩わさないでほしい。」とあります。少し冷淡で突き放してしまうような表現と思うかもしれませんが、そうではありません。煩わすとはパウロが難産の上に産んだガラテヤの諸教会の人々が割礼派の教えに惑わされてしまい、その結果としてパウロが再びガラテヤの諸教会の人々に干渉をしなければならないことです。ですから、パウロはこれ以上、惑わされることなくしっかりキリスト信仰に生きよ!と勧告をしているのです。続いて「イエスの焼き印を身に受けている」とあります。「焼き印」は元々、牛の焼印でした。昔、広大な放牧地には複数の農家がいっしょに牛を放牧していました。その中から自家の牛と他家の牛を取り間違えないようにその家の印の付いた焼印を牛のお尻のあたりに押していました。今日のブランド品のロゴマークもこの焼印に由来しています。パウロはキリストの焼き印をおされている。つまり、自分の主人はイエス・キリストである、自分はキリストというブランド品なのだと宣言をしているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリスト者には主イエスの焼き印が押されているということです。18節を見てみましょう。6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。18節は祝祷です。他のパウロ書簡と同様に祝祷で始まり祝祷で終わりますが、この手紙の特徴の一つとして、儀礼的な挨拶することなく始まり、儀礼的な挨拶を書くことなく閉じられています。ガラテヤの信徒への手紙は記されている内容の激しさから、戦いの手紙と呼ばれますが、戦う相手は異端で、その戦う理由の証拠が十字架なのです。十字架を誇りましょう!

Today‘Point①十字架以外に誇るものはない、②主により新しくされた、③主イエスの焼き印が押されている

Thinking Timeあなたは何を誇っているでしょうか