• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年10月9日主日礼拝

世の罪を取り除く神の小羊

ヨハネによる福音書1章29-34節

◆神の小羊 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

おはようございます。今日も共に礼拝を捧げることのできる恵みを感謝します。前回は「バプテスマのヨハネの証」と題して3つのことを学びました。①熱心に悔い改める、②私たちもキリストを証しする声となれますように、③ヨハネの徹底的な謙遜は私たちの手本でした。今朝はこの箇所から「世の罪を取り除く神の子羊」と題してみことばを見ていきます。阿部元首相の銃撃により、旧統一協会の高額献金による被害の実態が明らかになりました。山上容疑者のお母さんが1億円以上の献金をして自己破産しても懲りずに、統一協会にのめりこみ、育児放棄していて、彼はつらい少年時代を過ごしていたことが報じられていました。勿論だからと言って彼のしたことは決して容認することはできませんが、彼も犠牲者の一人であると思います。今回のことで改めて被害の深さを知り、神の憐れみを祈ります。なぜこのように、高額な献金をしてしまうのか。一言でいえば、先祖の怨念からの解放のためです。旧統一協会の手口は、先祖の怨念があなたの人生を、あなたの家族を苦しめています。だからそれを解放するためにお金を捧げなさいということです。私も昔、統一教会に騙されていました。私の場合は、霊験あらたかな霊能者と言われる人から、あなたの先祖の7代前は武士で、刀をもって人を殺めたので、今その怨念が妹さんに出たのです。このままだとあなたの家は絶家します。と言われました。妹は小学生の時に、心臓の大手術をしました。妹の体にメスが入れられたのは先祖の呪いだというのです。こうやって不安をあおり、そこから救われるためには、万物復帰と言って、もともと神様のものであった万物、つまりお金を神様にお返しすることでその呪いは断ち切られる。そのために壺と印鑑を買うようにと勧められました。初めは少しおかしいなと思ったのですが、だんだん洗脳されて購入してしまいました。後で分かったのですが、その霊験あらたかな霊能者と言われる人も統一教会の信者が成りすましてやっていたのでした。今思い返せば本当に愚かでした。なぜそのような非常識なことを信じてしまうのかと思われるかもしれませんが、人の弱みに付け込み、天使のように優しく近づきながら、組織ぐるみで悪賢く洗脳していくのです。それでは「救い」について考えてみましょう。新興宗教で言うところの「救い」とは、人生の苦しみや問題、病などからの救いが重視され、ご利益宗教と言われるゆえんです。もちろん霊魂の救いを説きますが、そのためにお金を捧げたり、儀式や何かの行(修行)を行うなど、人間の行いを要求してきます。キリスト教でいう「救い」とは何でしょうか。もちろん、人生の苦しみや、病などからの救いも含みますが、本質的には最後の審判における神の裁きからの救い、つまり私たちの「罪の滅びからの救い」です。ヘブル 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、と死後に裁きがあると聖書は語っています。そしてそのためには高額の献金をしたとか、難行苦行をしたとか、自分を犠牲にして何か良いことをしたとかと言う、人間の側の行いではなく、ただ救い主キリストを信じる信仰だけなのです。この点、他の新興宗教と違います。今朝のお話と大変関係があるので、T&Mセミナー(ホーリネス教団が推奨している弟子訓練のセミナー)で学んだ3つの円(PPT図を用いて説明する)を用いてゆっくり説明していきたいと思います。

私たちは世界を見たり、ニュースを聞いていると、この世界も人々も傷ついていることを感じます。これが今私たちが生きている世界です。しかし神様が計画した世界は完全な世界でした。神様は愛する対象として人間を造り、互いに愛し合う、調和の取れた世界でした。人は神と交わり、多くの恵みと良きものを与えられていました。ところが悪魔にそそのかされた人間は神に逆らい、神から離れて自分勝手な生き方を求めて行ってしまいました。その結果、神との交わりが断たれ、神の恵みを頂けなくなりました。神から離れることを罪と言います。人は苦しみから逃げようとしながらも傷ついた世界に生きています。ある人はお金に、ある人は成功に、ある人は権力を逃げ場として求めます。またある人は薬物やお酒、快楽に逃げ場を求め、またある人は道徳や宗教に救いを求めます。しかしいずれも最初に神様が創造された関係を回復することはできません。ただ神様だけが人との関係を回復することができます。神様は神の子イエス様を地上に送られました。イエス様は私たちの罪のため犠牲となって十字架で死なれました。そして三日目によみがえって罪と死を打ち破りました。自分の罪を悔い改める人、つまり神様に立ち返る人は、神様に罪の許しを求め、人生の主としてイエス様を受け入れます。イエス・キリストを信じることにより、罪から救われ、私たちを造ってくださった神様との愛の関係が回復されます。そして最後の審判の時には、キリストを信じ罪許された者として、天国で永遠に神と共に生きる者として頂けるのです。これが福音、グッドニュース、良い知らせなのです。造られた目的に従い、的外れではない、的を得た歩みこそ真の満足、幸福なのではないでしょうか。しかし神を無視して自分勝手な生き方をしているので、人生うまくいきません。いろいろな問題が出てきます。その根本問題は神様から離れているからです。繰り返しますがこれを罪と言います。この根本問題の解決こそ、今朝のテーマ「世の罪を取り除く神の子羊」にあるのです。長くなりましたが、そのことを踏まえて今朝の箇所を学んでいきましょう。

◆神の小羊 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。「その翌日」とありますが、これは前回見たように、イエス・キリストの先駆者として来たバプテスマのヨハネのことを調査するように派遣された人々に対して、バプテスマのヨハネが自分のことを証をした、その翌日のことです。ヨハネはイエス様に出会い、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。これはすごいことです。今でこそ私たちクリスチャンはイエス様が人間の罪を取り除くために来られたと、良く知っていますが、当時の人々にとってはこの発言はビッグニュースでした。それまでのユダヤでは、律法に従い、民の犯した罪を許すために動物が身代わりとなり、殺され血を流すことによって、その罪が赦されるということを繰り返ししてきたのです。旧約聖書には罪の許しのために動物が殺されたことがよく出てきます。例えば、アダムとエバが罪を犯し、自分たちが裸であることを知った彼らのために、神様は動物の皮で衣を作り与えました(創世記3章21節)。ここで罪を犯した彼らのために動物が殺されました。またユダヤの民がエジプトで奴隷として酷使されている中から、神はモーセをリーダーとしエジプトから脱出させますが、何度も神に逆らうエジプト王パロの手から脱出させるために、神はユダヤの民に小羊の血を玄関の柱と鴨居に塗るように命じました。その血を見て神の裁きは過ぎこされましたが、そうしないエジプトの家の長男はみな殺されたのです。こうやってユダヤの民はエジプトから脱出できました(出エジプト12章)。以来この日を過ぎ越しの祭りとして、神の恵みを忘れないように毎年祝われ、今も行われています。このように小羊の命が犠牲となり、その血が流されることによって神の呪いは過ぎこされたのです。今から約三千六百年前に神がモーセを通してユダヤの民に与えた契約に、罪を犯した者のために、動物が殺されその血が流されることにより罪が赦されるという約束があり、彼らはそのことをずっと守って行ってきたのです。そして現在もイスラエルの国では多くの国民が大贖罪日(ヨム・キプール 年に一度、国民の罪を許していただく厳かな日)を守っているそうです。私たち日本人には「世の罪を取り除く神の小羊」と言ってもよくわかりませんが、ユダヤ人にとってはそれがどういう意味かよくわかっていたわけです。バプテスマのヨハネは、このイエス様こそ、世の罪を取り除く神の小羊なのだと、宣言したのです。しかも世の罪です。ユダヤ人だけではありません。世界中のすべての人間の罪を取り除くために、身代わりとして殺され、血を流し、それによってすべての人類の罪を取り除くために来られた方、それがこの人イエスだと言いました。ユダヤではメシヤが待ち望まれていたこの時代に、この方こそメシヤ、救い主なのだと言ったのです。 1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」 1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」ヨハネはその前の日に、私の後から来られる方は大変偉大な方で、私はその方の靴の紐を解く資格もないと言いましたが、「昨日、私が話したのは、正にこの方なのだ」と言いました。そしてその証拠は、私をお遣わしになった方、神様が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。マルコによる福音者を見てみましょう。 ◆イエス、洗礼を受ける(ヨハネは神が言われる通りのことを見た) 1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。バプテスマのヨハネはこの出来事を言っています。ヨハネ自身が、イエス様に水のバプテスマを授けた後に、霊が鳩のようにイエス様の上に下るのを見、天からの声を聞いたのです。神が前もって言われたその通りのことを私は見たのだ。だからこの方こそ、聖霊によって洗礼を授ける人、メシヤなのだと、確信をもって言いました。そして確かにそれから約3年半後、イエス・キリストは人類の罪の身代わりに、十字架で殺され血を流し、墓に葬られ、三日目に復活して、贖いのわざを成し遂げてくださいました。旧約の時代には、動物の犠牲がささげられることにより、ユダヤの民の罪が赦され、神様との関係が回復されるということを、毎年毎年繰り返してきました。しかしイエス様が十字架で、人類の罪の身代わりとして死んで血を流し、葬られ、三日目に復活してくださったことにより、ただ一度だけで、永遠に、完全に全人類の罪が赦され、神様との関係が回復したのです。何という恵でしょうか。今私たちはその恵みの時代に生かされています。大切なことは、神様が差し出して下さったこの素晴らしい救いのプレゼントを信仰をもって受け取ることです。自分の罪を認め、悔い改め、イエス・キリストを信じ受け入れるだけで、今まで犯してきたすべての罪、これから犯してしまう可能性のある罪もすべて許していただけるのです。素晴らしい証ですね。人は誰しも、すべて見通される神のみ前に、立つ時が来るのです。その時こそ、十字架の恵みがはっきりとわかるでしょう。全ての罪を赦され、天国に入れていただけるのです。一方的な神の恵みです。ヨハネによる福音書には次のように記されています。3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。神は一人子イエス・キリストを十字架につけるほど、私たち人間を愛してくださっています。自分の子供を犠牲にするなど考えられないことです。このことが約二千年前に実際に行われたのです。そしてイエス様も、父なる神様に従順に従い、人類の罪のために殺されることを承知で「世の罪を取り除く神の小羊」としてきてくださったのです。何という愛ではないでしょうか。神の目には、私たち一人一人はそれほど高価で貴い、愛してやまないものなのです。求道中の方は是非、キリストを信じ、罪の許しをいただき、キリストと主に歩む新しい人生の恵みの中に入られることをお勧めします。また先に救われた私たちクリスチャンは、これほど大きな愛で愛されていることを確信し、様々な問題の中にあっても、主を見上げ、主に信頼していきましょう。神が共にいてくださいます。試練は必ず乗り越えることができると聖書は約束しています。望みの神に希望を抱いて信仰を働かせていきましょう。そしてこの主を宣べ伝えていきましょう。

Thinking Time

一ヨハネ 3:1aわたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。(口語訳)父なる神様は、一人子イエス様を十字架につけてでも、救いたいと思うほど、私たちを愛してくださっているのです。まず自分がどんなに愛されているのか黙想しようではありませんか。そして神に感謝を捧げたいです。