• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年11月20日主日礼拝

説教題 キリストに在る鍛錬 聖書箇所 ヘブライ人への手紙12章1-13節

◆主による鍛錬

12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

ハレルヤ!11月の第三主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその22回目です。前回のおさらいから始めましょう。11章29-40節通し、「信仰勇者列伝④~たといそうでなくても~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①罪びとは罪びと、②聖書は信仰を強めるための書、③再臨の報いは同じでした。今日は続く12章1-13節を通し、「キリストに在る鍛錬」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

①主イエスを見つめる

1-3節は12章全体の要約で、この手紙の最高峰とも言えます。1節から順番に見てみましょう。12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、私たちの信仰生活は長距離競争に例えられます。この手紙の著者も同様にその例えを使っているのです。「こういうわけで、」とあります。11章で信仰の勇者たちについて学びました。名前が挙げられている方やそうでない方もいましたが、私たちの信仰の先輩は数多くおり、競技場の観客のように私たちを見ているのです。そのことを「おびただしい証人の群れに囲まれている」と言葉を換え語るのです。「自分に定められている競走」とあります。この世の長距離走では参加者全員が同じコースを走ります。中には完走を出来ない場合もあります。信仰生活とは神が一人一人にコースを定めたものなので、基本的に完走可能なコースなのですが、完走をするためには「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て」ようと勧告をするのです。長距離走において大事なことは、それに適した身なりです。長ズボンに革靴で参加する人はいないでしょうし、荷物を背負って走る人もいないでしょう。信仰生活も同様に「すべての重荷や絡みつく罪」は完走に邪魔な存在なのです。罪は私たちを誘惑しその虜にします。ですから、「絡みつく罪」と表現をしているのです。「忍耐強く走り抜こう」とあります。信仰生活の完走のためにもう一つのことが忍耐です。この忍耐はどこから学ぶことができるでしょうか。ローマの信徒への手紙15:4 にはこのように記されています。 15:4かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。2節を見てみましょう。12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。「イエスを見つめながら」とあります。信仰生活を完走するためには「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て」ることと「忍耐」は必要なことですが、それに加えて「イエスを見つめ」ることも大事なのです。むしろ一番大切なことかもしれません。その理由は「信仰の創始者また完成者」とあるように、私たちに信仰を与え、私たちの信仰を完成させてくださるお方だからです。見るべきものを見ずに他の物をみると路頭に迷ってしまう場合があります。「砂漠の旅人」という話があります。砂漠の中で一人の旅人が迷ってしまい不安と恐怖に脅えていました。その時、一つの足跡を見つけ大喜びしました。「やった!この足跡をたどっていけば人里、人のいるところに行けるぞ」と確信したからです。何時間も何時間も歩いたのですが、いっこうに人里にはたどり着けません。その時、旅人は気が付きました。たどっていた足跡は自分自身の足跡なのだと。砂漠で迷ってしまった場合、旅人が見つめるものは北極星など方向を示す星なのです。さて、私たちはどうでしょうか。見つめるべきもの、主イエスを見つめているでしょうか。この世の富や名声、地位などに目が向いていないでしょうか。心を探ってみようではありませんか。今日、先ず覚えて頂きたいことは主イエスを見つめるということです。3節を見てみましょう。12:3 あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。「気力を失い疲れ果ててしまわないように」とありますが、こういった状態に陥らないためにも主イエスを見つめる必要があるのです。また、後半に「御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」とありますが、この手紙の受取人に、今受けている苦難と主イエスの苦難を比較してみなさいと訴えているのです。確かにこの手紙の受取人は迫害を受けていました。それにより各地に離散していたと考えられていますが、著者の本音は、「主イエスが受けた苦しみに比べたら、あなたたちの苦しみはそれほどのものではないだろう。主イエスの苦しみ、十字架はあなたたちのためでもあったのだよ」です。クリスチャンの信仰には高価な代償が支払われていることを暗に伝えているのです。

②鍛錬は私たちの益

4-11節は鍛錬を受ける目的が記されています。 4節を見てみましょう。12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 信仰生活を完走するために主イエスを見つめることは大事ですが、同時に信仰者自身もしっかりしている必要があります。何と言っても完走するのは信仰者自信なのです。ですから、「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」との勧告をするのです。信仰生活には誘惑が伴います。サタンはキリスト者を堕落させるために巧妙な罠をしかけます。著者は既に1節で「絡みつく罪をかなぐり捨てて」と述べました。かなぐり捨てるとは全部を捨て去ることですので、そこには当然、サタンとの戦いがあるのです。これらを避けてしまってはいけないのです。主イエスが「罪と戦って血を流すまで抵抗」したのですから、受取人もそのような覚悟をしなさいと述べているのです。さもないと罪が絡みついてしまい信仰生活が完走できなくなってしまうこともあるのです。5,6節を見てみましょう。12:5 また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。 12:6 なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」著者は困難、苦難を耐え忍ぶ理由について、先ず、信仰の勇者たちが耐え忍んだことを述べ、次に主イエスが耐え忍ばれた苦難に比べれば取るに足りないことを指摘しましたが、この箇所で苦難は訓練として神から与えられることの説明をします。この箇所は箴言3章11,12節からの引用です。3:11 わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。 3:12 かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる。この引用されている箴言の御言葉は、当時、迫害と苦難の生活に元気をなくし、落ちこんでいた民に神が語りかけた励ましの言葉です。神は民を「わが子よ」と呼び掛けています。真に神は慈悲深い父として、身近に語りかけているのです。人生の苦難は神が愛する子に与える訓練なのです。その訓練は私たちを傷つけるものでなく、私たちにとって益となるためのものなのです。私たちを成長させ信仰生活を完走するためのものなのです。ですから、放任は愛なき証拠とも言えます。7.8節を見てみましょう。12:7 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 12:8 もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。「神は、あなたがたを子として取り扱っておられます」とあります。神、創造主であり聖なるお方が、御子をこの世に送り、取るに足りない罪びとに過ぎなかった私たちをご自分の愛する子としてくださっているということは何と幸いなことでしょう。このことがわかれば「これを鍛錬として忍耐」することが出来るのです。8節の後半に、「庶子であって、実の子ではありません」とあります。「庶子」「実の子」が対比されていますが、婚外子を指す語で「私生児」と訳されている聖書もあります。当時、父親はその嫡出でない息子に同じ権利や特権を与えないので、わざわざ懲らしめることもしなかったのです。同様に天の父なる神も御国という特権が与えられている自分の子を鍛錬なさるのです。9,10節を見てみましょう。12:9 更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。 12:10 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。9,10節では「肉の父」「霊の父」が対比されています。「肉の父」が子どもを自分の考えに従って訓練するのは、子どもが成人するまでの短い時間です。一方、「霊の父」は、私たちが地上生活を終える日まで、そして永遠の憩いである御国に入る日まで。信仰の訓練をお与えになるのです。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」と記されている通りです。単に時間的な長短があるというだけでなく、「肉の父」は、この世的な自分の好みに従って子どもを訓練しますが、「霊の父」は、永遠のご計画に従って私たちのために訓練をされるのです。それはとりもなおさず、私たちの利益になるためなのです。「肉の父」は自分たちが良いと考えた方向に子を訓練するものです。これは子どもの利益というよりも自分自身のための場合があります。入学試験もその一つだと思います。しかし、「霊の父」は私たちの利益のためであって、決して、ご自身の利益のためではないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは鍛錬は私たちの益ということです。

③キリストにある希望を忘れない

11節を見てみましょう。12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 「当座は喜ばしいものではなく、悲しいもの」とあります。訓練はどんな訓練でもそれを受けている時は苦しいものであり、悲しいものであるでしょう。しかし、キリストにある希望があれば、その苦しさ悲しさの中にも喜びを感じるものです。使徒パウロはローマの信徒への手紙で次の通り述べています。5:2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 5:3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 5:4 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリストにある希望を忘れないということです。12,13節を見てみましょう。イザヤ書35章3節の御言葉を念頭に置いてのものです。また、12:12 だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。 12:13 また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。イザヤ35:3 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。12,13節は修辞法、比喩的な表現ですので、わかりやすいアライブ訳を見てみましょう。12:12だから、弱った手をしっかり握りしめ、震えるひざをまっすぐにして、立ち上がれ!12:13そして、自分の前に、まっすぐで平らな道を切り開け!そうすれば、あとに続く人たちが、たとえ弱くて足が不自由でも、倒れたり、けがをしたりせず、むしろ丈夫になる。著者は、鍛錬の理由を述べてきました。そして、信仰の弱いものが背教をしないように、受取人全員への奮起を促しているのです。主エスにある希望を持ち続け、周りの方への信仰の見本となろうではありませんか。

Today’s Take-away

①主イエスを見つめる、②鍛錬は私たちの益、③キリストにある希望を忘れない

Thinking Time

どのように周りの方へ信仰の見本を示しますか