聖書箇所:コロサイの信徒への手紙2章20節-3章4節
◆日々新たにされて 2:20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。2:22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。2:23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
ハレルヤ!2月の第二主日を迎えています。今、私たちの教会ではコロサイの信徒への手紙を講解で学んでいて、今日はその五回目です。先週は2章6-19節から「信仰生活の土台~全ての罪が十字架に釘付けられた!~」と題し三つのことを中心にお話をしました。①キリストが信仰生活の土台、②全ての罪が十字架に釘付けられた、③主が私たちを成長させるでした。今日は続く2章20節-3章4節から「真のいのち~何に優先順位を置いていますか~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①聖書の教えは禁欲主義ではない
20,21節から見てみましょう。2:20 あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。コロサイに侵入してきた異端はキリストの神聖を否定するもので、ユダヤ主義的でもありました。が、パウロはこれらに対してキリストの卓越性と充足性を述べました。今日の箇所では、この世の教え、禁欲主義的なものに対し勧告をします。そして、この勧告は二つの事実に基づいています。一つ目が20節の「キリストと共に死んで」です。キリスト者は信仰により、キリストと結び付き、キリストの死といのちにあずかるものとされます。パウロはローマの信徒への手紙の7章2-4節で、律法からの解放を夫が死亡した時の妻のあり方にたとえて語ります。 7:2 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。 7:3 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。 7:4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。パウロは、キリストとともに死ぬことによって律法から解放されていることを語るのです。パウロは続いて「世を支配する諸霊とは何の関係もない」と語ります。「諸霊」とありますが、原語には霊の意味はありません。原語を直訳するとこの世の初歩です。現代訳では「この世の幼稚な教え」と訳しています。パウロは「この世の幼稚な教えから離れた」のに『なぜ、まだ世に属しているかのように生き、2:21 「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。』と警告をします。「世に属している」とは、新生をしていない人、霊的に生まれ変わっていない古い人の生き方です。肉に従った生き方です。ローマの信徒への手紙の8章4節には次のように記されています。 8:4 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。さて、私たちはどうでしょうか。私たちの歩みは霊に従ったものでしょうか。肉に従ったものではありませんか。今。ここで心を探ってみようではありませんか。21節の前半に「手をつけるな。味わうな。触れるな」とあります。今日でもそうですが、キリスト教の事を禁欲主義の生き方だと思っている方がいますが、コロサイの教会に侵入したグノーシス派の中にも禁欲主義者がいたのです。22,23節でそのことに警告をします。 22節を見てみましょう。2:22 これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。パウロは三つの理由で禁欲主義を論破します。22節には二つの理由が記されています。先ず、「使えば無くなってしまうもの」です。これらは一時的なものです。先週、学びましたが旧約聖書に記されている食物規定もそうです。2:17 「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」とある通りです。二つ目の理由が「人の規則や教えによるもの」だからです。この御言葉はイザヤ書からの引用ですが、主イエスも引用をしています。イザヤ 29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。マタイ15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」 23節を見てみましょう。2:23 これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。禁欲主義を論破する三つ目の理由が「体の苦行」です。禁欲と苦行は分かちがたく結びついた概念です。仏教では煩悩を否定し、その束縛から解放された究極の境地を解脱と呼びますが、そのために断食、断水や不眠不臥といった苦行をおこなったりするのはその良い例です。パウロはこうした肉体的鍛錬よりも有益なものがあることをテモテへの手紙一で次のように述べています。一テモテ 4:8 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。禁欲主義とは「何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけ」に過ぎないのです。キリスト者の自由とは規則や慣習によって欲望を阻止することからではありません。キリスト者がキリストの内におり、キリストがキリスト者のうちにおられるが故に、悪しき習慣や欲望に死んで良き願いをもった生活が生まれるのです。一つ、注意をしてほしいことがあります。禁欲と自制は異なります。自制は御霊の実の一つです。開きませんがガラテヤの信徒への手紙5章23節に記されています。自制は私たちの歩みに必要なものでもあり、主イエスにお仕えるために自制したり節制したりすることは素晴らしいことです。しかし、それによって自分は敬虔であると思ってしまうなら、それは禁欲主義に陥ってしまっているのです。十分に注意が必要です。今日、先ず覚えて頂きたいことは聖書の教えは禁欲主義ではないとうことです。
②主イエスを第一優先にする
3章1,2節を見てみましょう。3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。「キリストと共に復活させられた」とあります。冒頭でお話ししたように、今日の箇所の警告や勧告は二つの事実に基づいています。一つ目が2章20節の「キリストと共に死んで」で、二つ目の事実が「キリストと共に復活させられた」なのです。キリストとともに死んだものは、それで終わりではありません。キリストと共に復活させられたものになるのです。この事実にたった勧告が1-4節です。キリスト者がこの二つの事実を自分のものとしていることが大切です。それは、キリスト者の生活とは律法の上ではなく、この二つの事実の上に建て上げられていくからです。「キリストと共に復活させられた」という事実に基づく第一の勧めが「上にあるものを求めなさい。」です。上にあるものとは「キリストが神の右の座に着いておられ」るところです。つまり天です。ところで、聖書が天という場合二つの意味があるので注意が必要です。一つ目は、開きませんが創世記1章に記されている天です。これは地、つまり地球に対しての天です。天体や大空と言えます。もう一つの意味はこの世との対象の意味で使います。主の祈りの「天にますます、われらの父よ」の天がそうです。3章1節の天はこの意味です。ですから、1節を言い換えれば「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのだから、天におられるキリストを求めなさい」と言えます。キリストとともに古き罪まみれの人に死んで、キリストとともに生き返らせられた以上、私たちの興味や関心はキリストが一番になるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主イエスを第一優先にするということです。古き人の特徴は、自分の願望、自分の計画、自分の栄誉など全てが自分のことです。しかし、キリストにあって生まれかわったものは、全ての第一優先、トップ・プライオリティーがキリストなのです。キリスト者の価値判断は、人間の基準ではなく、主イエスが基準なのです。ですから、日々のデボショーンで主のみ旨を問う必要があるのです。2節では1節の「上にあるものを求めなさい。」を「上にあるものに心を留め」と同義語を使い強調をしています。「心を留め」と訳された原語には、知的に関心を持つだけでなく、深い心情的な関心を寄せるという意味です。パウロは、この言葉をフィリピの信徒への手紙でしばしば使っています。開きませんが、1章7節、2章2,5,節、3章15,19節、4章2,10節を後ほどお読みください。「地上のものに心を引かれないようにしなさい」とあります。パウロの時代から今日に至るまでこの世ものには魅力的なものがあります。悪魔の誘惑もあります。お茶の水の宣教団体で働いていた時のことですが、お茶の水は学生街であり楽器店街です。各店に特徴がありますが、中には高級なビンテージギターを専門に扱っている店もあり、時々目の保養のため見に行きました。既に十分すぎるほどギターを持っているのですが、それでもビンテージギターを見ると欲しくなります。ある日、50万円もするビンテージギターに見とれていました。すると悪魔がささやきます。「このビンテージギターで奏楽すれば賛美がもっと良くなるよ。5年ローン、60回払いも可能だよ。」60回払いか。そうすると、月に一万もしないな。買ってしまおうかな。と思ったことがありました。それでも買わなかったのは妻が怖かったではなく、次の御言葉が頭に浮かんだからです。フィリピ 4:19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。キリスト者には必要なものは全て満たされているのです。
③真のいのちは主の内にある
3章3節を見てみましょう。3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。パウロは、「キリストと共に復活させられた」ものが、更にキリストを知ろうとし、キリストに関心を抱き続けることを語りましたが、その理由が3,4節です。「神の内に隠されている」とあります。当時、ギリシャ圏では人が死んで葬られることを「地中に隠された」と表現をしていたので、パウロはそれに倣ったのでしょう。そして、この言葉は2章3節 の御言葉と対比されるべきものです。2:3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。隠されたと訳された言葉の原語の元々の意味は「内蔵されている」です。ですから、キリスト者のいのちは目には見えませんが、神の内にあるのです。キリスト者の原動力は神の内にあるのです。そのことが世の人にもやがてわかる時がきます。それが、4節です。3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。「キリストが現れるとき」とは再臨のことです。キリスト者はこの世にあって、キリスト者ということだけで栄光を受けることはないでしょう。しかし、キリスト者は再臨の時に、「キリストと共に栄光に包まれて現れる」のです。ヨハネによる福音書には次のように記されています。 14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。キリスト者の人生にも山あり谷ありです。晴れの日ばかりではありません。雨の日、雪の日、嵐の日もあります。しかし、キリスト者の命は主の内にあるのです。私たちの命はキリストです。今日、最後に覚えて頂きたいことは真のいのちは主の内にあるということです。キリストが永遠に生きておられるから、私たちも永遠に生きることができるという事なのです。
Today’s Point①聖書の教えは禁欲主義ではない、②主イエスを第一優先にする、③真のいのちは主の内にある
Thinking Time主イエス以外のものを第一優先にしていませんか。どうしますか。