• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年2月27日主日礼拝  

説教題:主にある家庭内の人間関係 聖書箇所:コロサイの信徒への手紙3章18節-4章1節

家族に対して3:18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。3:20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。3:21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。3:22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。3:24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。3:25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。

ハレルヤ!2月の第四主日を迎えています。今、私たちの教会ではコロサイの信徒への手紙を講解で学んでいて、今日はその七回目です。先週は3章5-17節「主の御名による生活~脱ぎ去るもの、身に着けるもの~」と題し三つのことを中心にお話をしました。①偶像礼拝は貪欲から起る、②愛が全ての美徳を完成させる、③全ての事を主の御名で行うでした。先週から実践の教えの部分を学んでおり、今日は3章18節-4章1節を通して、「主にある家庭内の人間関係」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリストに従うよう相手に従う

18節から順番に見て参りましょう。3:18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。家庭は、「家族が生活を共有する場」であり、社会の最小単位です。家庭こそ社会の基礎とも言えます。その家庭は夫と妻により成り立ちます。夫婦間の人間関係がうまくいかないと家庭崩壊、家族崩壊となり、社会もゆらぎを生じるものなのです。夫婦は国家や教会と同様に神によって制定されたものですから、そこには秩序があります。キリスト教の倫理とは、権利と義務が全ての人に適用される相互義務に基づく倫理です。ですから「他人は私に何をしてくれるのか」と望むのではなく「私は他人に何をしてあげるか」を考えて行動すべきなのです。18節の「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。」ここだけを読むと女性蔑視ではないかと思うかもしれませんが、決してそうではありません。夫に対する盲従を勧めているのではありません。夫が主に在った歩みをしていることが前提なのです。キリスト教の倫理感に照らし合わせて、妻をキリスト者、夫をキリストに置き換えると良くわかります。「キリスト者たちよ、主を信じる者にふさわしく、キリストに仕えなさい。」となります。ですから、18節の教えは女性蔑視でも不名誉なことでも不条理なことでもありません。19節を見てみましょう。3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。19節は夫に対する勧告です。聖書が教える夫婦の関係は一方的に義務を課すものではありません。夫に対しても要求がなされます。パウロのこの勧告の背景ですが、当時のギリシャやローマ圏では女性は男性の所有物に過ぎず、権利などが認められていませんでした。人格が認められず物のような存在でした。今でいうDV(ドメスティックバイオレンス)も日常茶飯事だったでしょう。また、当時のユダヤ教のラビ(ユダヤ教の指導者)でさえ旧約聖書の教えを間違って解釈をしていました。「幸いなるかな、男の子を得たものは。災いなるかな女の子を得たものは」というラビの言葉があったほどです。「妻を愛しなさい。」とありますが、新約聖書が書かれたギリシャ語には三つの愛が使い分けられています。エロス(性愛)、フィリア(友愛)、アガペー(神の愛)です。19節では神の愛を示すアガペーが使われています。神がキリストにあって示された聖なる犠牲的な愛です。キリストが私たちを愛するように妻を愛しなさいとパウロは語るのです。このアガペーとは具体的にはどのような愛なのでしょうか。コリントの信徒への手紙一13章4-7節を見てみましょう。 13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。妻帯者の皆さん、どうでしょうか。このように妻を愛しているでしょうか。この愛の部分に自分の名前を入れ替えてみてください。私は恥ずかしくなります。また、愛の部分を神と入れ替えると正に神は愛なりということがわかると思います。今日、先ずに覚えて頂きたいことはキリストに従うよう相手に従うという事です。

②励ましと希望を与える

20,21節を見てみましょう。3:20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。3:21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。パウロは夫婦間のあり方に続き、親子関の在り方について言及をします。「どんなことについても両親に従いなさい。」とありますが、これも両親に対する盲従を勧めているわけではありません。親子の関係も相互義務の関係です。儒教のように、親の言うことは全て正しく一方的に従えとの教えではありません。夫婦の場合と同じく親が主に在った歩みをしていることが前提なのです。この勧告をした背景には当時のギリシャやローマ圏での父親の権力は絶大だったことがあげられます。子どもに対する殺生与奪権を持ち、奴隷に売ることも可能だったのです。21節に「子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」とあります。子どもの教育において大切なことは感情を不安定にさせないことです。親は自分の物差しだけを使って子どもを叱ってはならないのです。18世紀に活躍したドイツの神学者のヨハン・アルブレヒト・ベンゲルは次のように語りました。「若者の致命的病気は失望である」と。子育てにおいて、時に叱ることは必要ですが、それと同時に励ますことも必要なのです。失望ではなく希望を与えるのです。私たちが属する日本ホーリネス教団はメソジスト派の創始者と言われるジョン・ウエスレーの流れを汲んでいるのですが、ジョン・ウエスレーが母のスザンナについて語る時には、いつも「私が妻を迎える時は母のような人を選びたい」と言っていたと言われています。ウエスレーは決してマザコンだったわけではありません。スザンナは牧師の娘で、20歳の時に牧師のサムエル・ウエスレーと結婚し多くの子どもが与えられました。数千曲もの賛美歌を作詞したチャールズ・ウェスレーはジョンの弟です。スザンナは子どもの過失に対して、悪かったと悟とり悔い改めたなら決して追い打ちをかけるような叱責はせずに、善行については大いにこれをほめましたと言われています。同時代に活躍した作家のアイザック・テーラーはスザンナについて次のように述べています。「スザンナは実に、宗教的また道徳的にメソジストの母というべき人であった。その勇気といい、その高尚な主義といい、その自立自制の精神といい、そのあたたかい感情といい、みな、ことごとくその子の品格と行為に反映していた」と。ウエスレーは几帳面であったためメソジストと呼ばれたともいわれていますが、それは、母、スザンナから受け継いだキリストにある秩序と法則(メソッド)が揺るぎのないものだったからです。敬虔なキリスト者の母の教えに従う行動が、御心に従った行動となったのです。励ましと希望を与えることが大事なのです。これは自分の子どもだけに限ったことではありません。霊的な子どももそうですし。自分以外の全ての人に当てはまります。今日、二番目に覚えて頂きことは励ましと希望を与えということです。

③キリスト者には差別がない

22,23節を見てみましょう。3:22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。パウロは親子関係に続いて主人と奴隷、主従関係の在り方について語ります。この箇所を読むと、聖書は奴隷制度を容認しているのかと思う方もいるかもしれませんが、そうではありません。夫婦(創世記1:27,28)、安息日、(創世記2:2,3)権威(ローマ13:1)は神によって定められたものですが、聖書には奴隷制度を神が定めたものとはどこにも記されていません。奴隷制度は人間が作ったもので、主は人が他の人を所有することを喜ばれません。22,23節と同様な御言葉がエフェソの信徒への手紙にも記されていますので見てみましょう。エフェソ6:5 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。 6:6 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、 6:7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。パウロが奴隷と主人に対する関係で伝えていることも、盲従ではありません。主人に従う仕方を、キリストが示した模範に従いなさいと教えているのです。神の独り子であるキリストは天から来られ私たちの奴隷となられたのです。そのキリストに倣うのです。パウロがこの奴隷と主人との人間関係について言及している背景にはフィレモンとオネシモのことが考えられます。オネシモについてはこの手紙の4章9節とフィレモンへの手紙に記されていますが、オネシモはキリスト者のフィレモンの奴隷でしたが逃げてしまったのです。導きにより、逃亡先で投獄をされているパウロと出会いあい、回心をします。パウロはキリスト者となったオネシモにこのコロサイの信徒への手紙とフィレモン宛ての手紙とを預け送り返したのです。続く35節-4章1節を見てみましょう。3:24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。3:25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。24節に「あなたがたは」とありますが、これは22節の「奴隷たち」を受けています。続いて、「御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。」とあります。奴隷には所有物は何一つありません。自分の子どもでさえ主人のものなのです。しかし、キリスト者の奴隷は「御国を受け継ぐという報いを主から受けること」が出来るのです。主イエスを救い主と信じ受け入れる者の特権です。続いて、「あなたがたは主キリストに仕えているのです。」と真の主人はキリストであることをパウロは語るのです。1節は奴隷の主人に対する勧告です。「あなたがたにも主人が天におられるのです。」とあります。このことを深く自覚するときに、「奴隷を正しく、公平に扱」うことが出来るのです。そして、このことは現在の職場などの主従関係にも当てはまります。先程、ご紹介したスザンナ・ウエスレーは給仕に対して、こともたちに決して命令調ではなく丁寧な言葉を使わせていました。「妻と夫」、「子と両親」、「奴隷と主人」の人間関係の在り方にについて学んでいますが、全ての人間関係はキリストに従うように従うことです。その大前提は夫、親、主人がキリストに従っていることです。「妻と夫」、「子と両親」、「奴隷と主人」は当時の家庭内の人間関係のことです。奴隷は家庭内の人ではありますが、家族ではありません。ですから、新共同訳聖書の小見出しは「家族に対して」となっていますが、「家庭内の人たちに対して」の方がベターだと個人的に思っています。また、一つ着目をしたいことがあります。「妻と夫」、「子と両親」、「奴隷と主人」という順番です。夫と妻、両親と子、主人と奴隷という一般的な順番ではありません。パウロはガラテヤの信徒への手紙で次のように語ります。3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。キリスト者はキリストにあって区別はありますが、差別はないのです。今日の箇所でパウロはこの事を言外に示しているのです。今日、全てのキリスト者はキリストの僕です。身分の差はあるでしょう。しかし、キリスト者には差別がないのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリスト者には差別がないということです。ですから、キリスト者は誰一人もれることなく御国へ行けるのです。人間は罪びとであり、それ故にエゴイストになります。家庭内を含めどのような人間関係においても憎しみや争いになってしまうことはまことに悲しむべきものです。不調和の対立関係から、調和のある関係になるためには、一人一人が主イエスとの正しい関係を持ち続けることです。主イエスに従う歩みこそ、全ての不調和はかえられ素晴らしい人間関係が生まれてくることを聖書は明確に教えているのです。今、日本では、殺人事件の半数は家庭内で起こっています。一層の福音宣教に励もうではありませんか。

Today’s Point ①キリストに従うよう相手に従う、②励ましと希望を与える、③キリスト者には差別がない

Thinking Time 今週、誰にどのような励ましをしますか。