説教題 十字架上の三つの言葉~備えは出来ていますか~ 聖書箇所 ヨハネによる福音書19章25-31節
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。◆イエスの死19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。◆イエスのわき腹を槍で突く19:31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
ハレルヤ!4月の第二主日を迎えています。今日から受難週にはいります。今日は、イエス・キリストが復活された1週間前の日曜日です。棕櫚の主日、受難の主日とも言い、英語ではパームサンデーです。主イエスがエルサレム入城した時、人々はシュロの枝(パーム)を道に敷き、シュロの枝を手に持って主イエスのエルサレム入城を歓迎したことに由来しています。主イエスは十字架上で七つの言葉を語られたことは有名ですが、順番に確認をしてみましょう。
1「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 (ルカ 23:34)
2「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)
3「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)
4「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46、マルコ15:34)
5「渇く」(ヨハネ19:28)
6「成し遂げられた」(ヨハネ19:28)
7「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ 23:46)
昨年の受難の主日はルカによる福音書23章32-43節から「十字架上の二つの言葉」と題してお話をしました。今日は、ヨハネによる福音書19章25-37節から、「十字架上の三つの言葉~備えは出来ていますか~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。人は死を目前にすると自分自身のことで頭が一杯になると言われています。他のことなど考えられないでしょう。それほど、死とは人間にとって厳しい現実なのです。主イエスは十字架に掛けられました。共和政ローマ末期の政治家、弁護士のキケロは十字架刑を「最も残酷で身の毛のよだつ死刑」と断言し、また、ローマ帝政期の政治家、歴史家のタキトゥスは「卑劣きわまる刑」と呼びました。しかし、主イエスはその恐ろしい十字架刑に臨んだときでさえ、周りの方への配慮と愛に満ちた言葉を発しています。主イエスは100%神であり、100%人間でもありました。十字架上での想像を絶する痛みを覚えながらの配慮に満ちたお言葉です。今日の聖書箇所には三つの言葉が記されています。
➀主からの警告や叱責を探る
25節から順番に見て参りましょう。
19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。色々な人が様々な思いで十字架の周りを行き来していたと思われます。遠い場所から来ていた方もいたでしょう。やがて、十字架のそばから人々がいなくなっても、主イエスを信じる者5名だけが主イエスの最後を見届けたのです。それが、「その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア」と26節に記されている「愛する弟子」です。三名のマリアがいたことがわかります。先ず、「その母」とありますが、イエスの肉体の母であるマリアです。この時のマリアの思いはどのようなものだったでしょうか。想像すら難しいと思いますが、ある死刑囚の母親の気持が如実に表れた話を聞いたことがあります。ご紹介します。一人の死刑囚がいました。死刑執行の通知を受け取った母親は、息子の遺骸の引き渡しを当局に申請をしました。ところが、規則により死刑囚の遺骸は決められた墓地に埋葬することになっていて、母親の願いは適いませんでした。すると、母親は次のように記した申請書を当局に送りました。「それでは、私が亡くなったら息子と同じ場所に葬って頂けないでしょうか。」と。死刑囚の母であることを恥じともしないばかりか、同じ墓に葬られることを望んだのです。自分の子どもに対する母親の思いとはこのようなものなのでしょう。二人目のマリアが、「クロパの妻マリア」です。今日の箇所の平行箇所(マタイ27:56、マルコ15:40)を読むとこのマリアは、ヤコブとヨハネの母のマリアかサロメではないかとの学説があります。真偽はわかりませんが、十字架刑の場にサロメがいたことは平行箇所から確かです。このサロメから一つの適用が出来ます。サロメは自分の息子たちに御国で一番よい地位を授けて欲しいと主イエスに訴えたのですが、主イエスからそのような考えは誤りだと指摘された経緯があります。開きませんが、マタイ20:20-23を後ほどお読みください。そのサロメがこの場にいるということは、主からの叱責を謙虚に受け入れ、献身的に主を愛し続けたからに他ならないのです。警告や叱責をどのように与え、またそれをどのように受け入れるかということの教訓です。日々のデボーションを通して、主から警告や叱責をされていることはありませんか。謙虚に受け入れ悔い改めましょう。今日、先ず覚えて頂きことは主からの警告や叱責を探るということです。ところで、サロメという名の女性はもう一人、福音書に記されています。洗礼者ヨハネの首を望んだ悪女サロメですが、今日の箇所のサロメとは全くの別人です。三人目のマリアが、マグダラのマリアです。マグダラのマリアについては磔刑と復活以外には、イエスによって七つの悪霊を追い出されたこと(ルカ8:2)しか記されていませんので詳しいことはわかりませんが、主イエスの最後を見届けたのですから、親しい関係だったと思います。26,27節を見てみましょう。19:26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。19:27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。26,27節には主イエスが十字架上で語られた三番目の言葉で、今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書)に記されている一番目のお言葉が記されています。「愛する弟子」とありますが、サロメの息子でこの福音書を記した使徒ヨハネです。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」とあります。「婦人よ」という呼びかけに違和感を覚えるかもしれませんが、この「婦人よ」という呼びかけはこの福音書の2章4節にも使われていて、原語には英語で言えばa woman, wife, my lady.という意味があり無礼な表現ではありません。主イエスは母マリアに、愛する弟子のヨハネを、今後は自分の子どもとして扱ってくださいと述べているのです。続いて、ヨハネには「見なさい。あなたの母です。」とあるように、今後は母マリアを自分の母親のように扱ってくださいと伝えたのです。自分はこれから処刑される。「ヨハネよ、母マリアを頼むぞ」いう願いです。その主の願い通り、その瞬間からヨハネは「イエスの母を自分の家に引き取った。」のです。主イエスには兄弟がいました。マタイによる福音書とマルコによる福音書を読むと、イエスにはヤコブ、ヨセフ、シモン(シメオン)、ユダ及び妹2人がいたことが分かります。なぜ、主イエスは兄弟ではなくヨハネに母のことをお願いしたのでしょうか。この福音書の7章5節に答えがあります。7:5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。イエスの兄弟たちは不信仰だったのです。真のイエスの兄弟姉妹とはイエスを救い主と信じ、主の御心を行うもので、御国に入れられるものなのです。そうは言っても、信仰がなくとも兄弟たちに母のことを頼まないのは冷たいと思うかもしれませんが、そうではありません。ルカによる福音書14章26節には次のように記されています。14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。この箇所は、自分の肉親を顧みてはいけないということではありません。断ちがたい肉親との絆を、キリストのために断ち切りなさいとの教えです。この教えを実行したのが主イエスご本人なのです。主イエスは断ちがたい肉親との絆を断ち、愛弟子ヨハネに母マリアのことを託したのです。死を前にして、激しい苦痛の最中においても、母マリアへの愛の配慮をお示しになったのです。
②十字架により全人類への救いが成就した
28節を見てみましょう。19:28 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。28-30節は受難の物語の頂点であり、同時に福音書全体の頂点でもあります。主イエスの十字架の死は終焉でなく、全人類への救いの成就であり、完成の時であったのです。今日二番目に覚えて頂きことは十字架により全人類への救いが成就したということです。「渇く」と言われた。とあります。主イエスが十字架上で語られた五番目の言葉で、今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書)に記されている二番目のお言葉です。「こうして、聖書の言葉が実現した。」とありますが、これは旧約聖書の詩編で預言されことの成就です。詩編22:16、69:22(口語訳、新改訳は詩篇22:15、69:21)を見てみましょう。22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。 69:22 人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。28節は預言の成就ですが、それ以上に意味があります。主イエスは、本来であれば私たちが受けるべき刑罰、永遠の刑罰による激しい渇きを述べているのです。ルカによる福音書16章に記されている、「金持ちとラザロ」の例えを思い起こすと思います。ルカ16:23,24節を見てみましょう。16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』また、この28節の「渇く」は、主イエスが十字架上で話された四番目のお言葉「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ 27:46、マルコ15:34)と密接な関係があります。主イエスは常に父なる神と深い交わりをしていました。しかし、身代わりの贖罪を前にして見捨てられたと思い、霊的な渇きを感じていたことでしょう。
③キリストは過越の小羊
29節を見てみましょう。19:29 そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。「酸いぶどう酒」とありますが、これは一種の麻酔だったという学説があります。「人々」とは、イエスを処刑するローマの兵士たちと思われます。また、「ヒソプ」とは、聖書に描かれた植物で、出エジプト記12:22には次のように記されています。 12:22 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。「ヒソプ」は清めの儀式でも用いられたことが旧約聖書のレビ記、民数記、詩編にも記されていますが、新約聖書では今日の聖書箇所の29節と旧約聖書の解説をしているヘブル9:19のみです。「ヒソプ」とは主イエスが真の過ぎ越しの子羊であることを象徴しているのです。コリントの信徒への手紙一15章7節bには次のように記されています。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。主イエスが十字架に掛けられたのは、まさに過越しの祭りの時でした。主は過越しの羊として捧げられ、その血によって信じる者の罪と裁きを過越してくださるのです。今日三番目に覚えて頂きたいことはキリストは過越の小羊ということです。
30節を見てみましょう。19:30 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。「成し遂げられた」とあります。主イエスが十字架上で語られた六番目の言葉で、今日の聖書箇所(ヨハネによる福音書)に記されている三番目(最後)のお言葉です。原語では完了形が使われています。父なる神がご計画された全人類への救いが完了したのです。同時にそれは、本来であれば私たちが受けなければならない苦しみを、一人の人間でもある御子イエスが受けた苦しみが終わったことを意味するのです。こうして、主イエスはご自身の走るべき道程を走り通されたのです。
④礼拝のため心を整える
31節を見てみましょう。19:31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。「準備の日」とあります。神の民は昔から「備え日」という概念がありました。翌日が安息日である場合、その日に行われる礼拝の準備を行うのです。私たちが所属している日本ホーリネス教団では土曜日、「備え日」を重視します。千葉教区のある牧師は備え日にメールをする場合、「備え日に失礼をします。」、「備え日に失礼をしました。」と付記する牧師がいます。私自身も主日のための祈りと説教の最終見直しのため、冠婚葬祭以外の外出は控えています。昔は、献金にヨレヨレのお札では主に申し訳がないので新札を用意する方もいたと聞いたことがありますが、なによりも心の準備が大事です。ある教会の講壇には三つの椅子が置かれています。主イエスと説教者と司会者のためで、主イエスのご臨在を象徴しているのです。毎週の礼拝とはご復活され、今も生きておられる主とお会いすることなのです、心を整えようではありませんか。特に、来週はいよいよイースター礼拝です。万全の準備をもって主のご復活を記念する礼拝に臨もうではありませんか。今日、最後に覚えて頂きことは礼拝のため心を整えるということです。
Today’s Point➀主からの警告や叱責を探る、②十字架により全人類への救いが成就した、③キリストは過越の小羊、④礼拝のため心を整える
Thinking Time周りの方へ愛に満ちた配慮は出来ていますか。