説教題 キリストの三職務~耳を傾けていますか~ 聖書箇所 ヘブライ人への手紙1章1-3節
◆神は御子によって語られた1:1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、1:2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。
ハレルヤ!5月の第一主日を迎えています。先週は(私が千葉栄光で御用をしましたので、八街は)美恵子牧師に御言葉を取り次いで頂きましました。詩編16編1-16節を通して、「喜びの泉はキリストにある」と題し、三つのことを中心に語って頂きました。➀より頼むお方は神のみ、②常に主を前に置く、③主の前には満ち溢れる喜びがあるでした。今日からヘブライ人への手紙を講解で学びます。新共同訳聖書では1-4節が一つのまとまりとなっていて◆神は御子によって語られたと小見出しが付けられていますが、内容から判断すると区切りは1-3節の方が適切と思いますので、今日は1章1-3節を通し、「キリストの三職務~耳を傾けていますか~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。今日は初回ですので、全体的なお話しからしてみたいと思います。先ず、ヘブライ人(へブル人)、イスラエル人、ユダヤ人と呼ばれる場合がありますが、時代や立場によって呼ばれ方が違うだけで、全て同じ民族を指しています。ヘブライ人(へブル人) ➡︎エベルが変化したもの(創世記10章24節)イスラエル人➡︎ヤコブがイスラエルという名を神から与えられた(創世記32章28節)ユダヤ人➡︎元々はユダ部族を意味したが、バビロン捕囚以降12部族全体を指す。色々な呼び方がありますが、この講解説教では特別な場合を除き「ユダヤ人、ユダヤの民」と呼ぶことにしたいと思います。この手紙には四つの特徴があります。先ず、手紙の形式ではありますが、内容が神学的に優れた論文であること。17世紀に活躍したイギリスの神学者のジョン・オウエンは「ローマの信徒への手紙に次ぐ重要な手紙である」と述べました。二番目の特徴は、筆者が不明であること。筆者について使徒パウロ、同労者のバルナバ、アポロなど諸説ありますが、不明です。三世紀の教父オリゲネスはこの手紙の著者を「神のみが確実に知りたもう」と述べています。著者は不明ですが、旧約聖書に精通した人物が記しています。三番目の特徴は、宛先も本文には記されていません。実は、この手紙の原文には「ヘブライ人への手紙」という表題はなかったのですが、手紙の内容から判断し、紀元2世紀頃に表題が付けられたと考えられています。この手紙はその内容から「契約の手紙」や「大祭司イエス・キリストの手紙」と呼ばれることもあります。「ローマ人でない者は人間ではない」言われていた時代、迫害を受け、各地に離散しているユダヤ人のキリスト者に書かれたという説もありますし、13章19節の御言葉( 13:19 特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。)から判断し、場所は不明ですが、どこか特定の場所にいるユダヤ人のキリスト者に書かれたとの説もあります。いずれにせよヘブライ人への手紙は背教の問題について語っています。この手紙の受取人(共同体)はキリスト教信仰から離れ、ユダヤ教へ遡りする可能性があったのです。四番目の特徴として、旧約聖書からの引用が多いのが特徴です。実はここにこの手紙を学ぶのが難しいと感じてしまう理由があります。しかし、引用をされている箇所を丁寧に学ぶことによって旧約聖書と新約聖書の繋がりを一層、理解できるものなのです。執筆年代については68年頃と考えられています。今日、学ぶ1-3節は、聖書中もっとも壮大なもので、創世記やヨハネによる福音書の冒頭に匹敵します。キリストの人格とその御業が凝縮されていて、啓示について二つのことがわかります。旧新約聖書に与えられた啓示の連続的一貫性とキリストによる啓示の優位性です。
➀キリストは預言者
それでは1節から順番に見て参りましょう。1:1 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、ここには序文、挨拶、祝祷といったものは一切ありません。著者はいきなり神と御子イエス・キリストについて語り始めます。短期集中、クラッシュコースのようなものですが、1-2節には旧約時代の預言者とキリストについての違いが記されています。「かつて預言者たちによって」とありますが、「かつて」とは旧約時代です。旧約時代、神はご自分の御心を示すために預言者をたてました。預言者を通さずに直接、民に語られることはなかったのです。「多くのかたちで、また多くのしかたで」とあるように、神は様々な預言者を通して民に必要な事を伝えました。例えば、アモスは神の義を、ホセアは神の愛を、また、イザヤは神の聖と贖いの望みを語りました。キリストについて様々な預言がありますが、エレミヤ書を開いて見ましょう。31章31-33節には次のように記されています。31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 31:33 しかし、来(きた)るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。このように旧約聖書に記された御子イエスについての預言は断片的で漸進的(ぜんしんてき)、段階的なものでした。以前にもお話しましが、預言と予言の違いについて説明をします。預言とは主からの言葉を預かった人が別の人に伝えることです。内容は過去、現在、未来に及び、預言が成就しないことはありません。預言は必ず成就します。一方、予言とは人が別の人に未来のことに伝えることで、予言は外れます。1999年7月に世界が滅びるというノストラダムスの大予言がそうでした。2節を見てみましょう。1:2 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。「この終わりの時代」とあります。エレミヤ書で語られた「来るべき日」とは「この終わりの時代」です。聖書が語る「終わりの時代」には二つの意味があります。キリストの初臨と再臨です。そのどちらかは文脈から判断します。そして、キリスト者とはこの二つの時代に生きるものなのです。「御子によってわたしたちに語られました。」とあります。キリストが語ることは預言書が語って来たものとは異なることを伝えようとしているのです。つまり、旧約時代の預言者は真理の一部を語りましたが、キリストは真理の全部を語り、断片的な啓示ではなく完全な啓示なのです。キリストは究極的な預言者なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリストは預言者ということです。さて、この「御子によってわたしたちに語られました。」からとても大事な適用がわかります。それは、復活されて今も生きておられる主イエスは今も私たちに語られているのです。この事実を忘れてはいけません。主にお願いすることはあっても、主が語られていることに耳を傾けているでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。神が人間をお創りになったのは、語りかける対象としていたとも言えます。これこそ人間が神の姿に似て創られたことなのです。開きませんが、創世記1章27節に記されています。つまり、神は人格的関係を持つものとして人間を創られたのです。ですから、神と人間との正常な関係とは、神の語りかけを人間が聞いて、それに人間が応えていくことなのです。この関係が機能せずにいるとしたら、それは罪に他なりません。「主よ、何も語らないでください。私は私のやり方で進めたいのです。」という思いです。このような罪状態から私たちを救うため、神は旧約聖書の預言を成就するために御子をお遣わしになったのです。この背後にある出来事が十字架と復活です。では、どうすれば主イエスの語られることに従うことが出来るのでしょうか。中には、主イエスが語られたことで、必ずしも簡単に従えないものもあります。「隣人を愛しなさい」はその最たるものだと思います。このことについて、ちいろば牧師こと榎本保朗先生は新約聖書一日一章のなかで次のように解説をされています。そのまま引用します。「たとえ自分に十分納得できなくても、イエスは隣人を愛せよと言われたのだから、その人を愛していくんだということが、イエスを神とすることである。(中略)だれかを本当に自分の隣人として愛していく生活をつづけていくことは、本を読んだり、学説をしったからというのではなく、イエスの愛に励まされたところから生まれるのである。」イエスの愛に励まされることにより、イエスが語ることに従うことが出来るのです。 2節の後半に「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」とあります。キリストが万物の相続者であり、万物の創造者なのです。キリストが万物の創造者であることはヨハネによる福音書1章3節にも記されています。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。開きませんが、コロサイの信徒への手紙1章16節にも記されていますので、後ほど読まれてください。万物の創造者なのです。ですから、時間も空間もこの世界も私たちもキリストによって創られたのです。創世記1章では万物が神の言葉で創られたことが記るされていて、ヨハネによる福音書では言葉がキリストであることが記るされています。また、「万物の相続者」とありますが、これは詩編2編8節の成就です。 2:8 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。万物をお創りになったキリストはその創造されたものを全て相続しているのです。このことから一つのことがわかります。それは、キリストはご自身が創られた全てのものに関心を持ち続け、これを生かし動かされているのです。キリストは私たち一人一人にも心を留めて続けてくださっているのです。キリストは万物の創造者で相続者ですので、世の始まりと世の終わりのどちらにも存在するのです。「万物の相続者」という表現はキリストの究極的な勝利と栄光を現したものなのです。
②キリストは大祭司
3節を見てみましょう。1:3 御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。「神の栄光の反映」とありますが、太陽を考えると良くわかります。太陽は燃え滾る天体ですが、私たちが太陽を認識できるのは太陽が放つ光によってです。同様に、キリストは神が放つ光によって認知されるのです。著者は、キリストは神から放たれた光であり、神そのものであることを「神の栄光の反映」と表現をしているのです。キリストは神の栄光を現すために来られたのです。その輝かしい栄光は暗黒の十字架上の死によってその頂点に達したのです。続いて、「神の本質の完全な現れ」とあります。「完全な現れ」と訳されていますが、原語では印鑑を押して残る「印影」の意味です。当時、印鑑はワックスに押して封印などに使っていました。ですから、「神の本質の完全な現れ」は「神の本質の印影」と言えます。印鑑と押された印影とは別個のものですが、同一の役目を果たします。それらにより本人確認が出来るからです。押印された印を見れば、印鑑がわかります。つまり、キリストを見れば神がわかり、神とキリストは一体であることを表現しているのです。神の栄光の輝きを「神の栄光の反映」と表現しているのも、この神とキリストが一体という真理に基づいているのです。「人々の罪を清められた後、」とありますが、言葉を補足するとこの部分は「主イエスは十字架にご自身を捧げ、私たちの罪が清められた後」と言えます。キリストは100%真の神であり、100%肉体をもった人間でもありました。肉体を持った人間であるからこそ、私たちの罪の身代わりとなることができたのです。逆に言えば、100%肉体をもった人間でこの世に来られる必要があったのです。キリストは民の罪を完全にきよめる大祭司なのです。今日、二番目に覚えて頂きことはキリストは大祭司ということです。 今までキリストの人格についてかたってきた著者は、ここで初めてキリストの贖罪の御業について簡単に述べています。このキリストの贖罪の御業は本書の根底主題で、これから学んでいきます。キリストが大祭司であることは4章で詳しく学びます。
③キリストは王
キリストは贖罪の御業を完成されたので、「天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きに」なられたのです。これは詩編110編1節の成就です。110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」3節では「大いなる方の右の座」、詩編では「わたしの右の座」とあります。「右の座」とは、神の右という物理的な場所を示すのでなく、イエス・キリストが神の代理人として、支配者の地位に着いておられることを示しています。つまり、キリストが至高の場に着かれたのです。天にある真の至聖所の王になられたのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリストは王ということです。さて、そこで、キリストは何をされているのでしょうか。この手紙の7章25節を見てみましょう。 7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。復活をされ今も生きておられる主イエスが、私たちのため、人類の救いのために執り成しをしてくださっているのです。これ以上の励ましと慰めはないのと思います。
Today’s Point➀キリストは預言者、②キリストは大祭司、③キリストは王
Thinking Time主の栄光を反映していますか。