• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年5月15日主日礼拝      

説教題 低いものとされた救い主~錨を下ろし忘れるな!~ 聖書箇所 ヘブライ人への手紙2章1-9節

◆大いなる救い2:1 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。2:2 もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、2:3 ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、2:4 更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。◆救いの創始者2:5 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。2:6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。2:7 あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

ハレルヤ!5月の第三主日を迎えています。今月からヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその三回目です。先週は、1章4-14節を通し、「喜びの油~高価で尊く愛されている~」と題して三つのことを中心にお話をしました。高慢、傲慢は罪、救いはキリスト信仰のみ、高価で尊く愛されているでした。今日は続く2章1-9節を通し、「低いものとされた救い主~錨を下ろし忘れるな!~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

➀福音という錨を下ろす

1節から見て参りましょう。2:1 だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。「だから、」とあります。これは、1章で語られた内容を受けてのことです。著者は先ず、キリストが旧約時代の預言者に勝ること、次に、キリストが天使に遥かに勝る存在であることを語りました。このことを受けて、「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」と警告をします。講解説教の初回で話しましたが、手紙の受取人(共同体)はキリスト信仰から離れユダヤ教に戻ってしまう可能性があったのです。また、手紙の執筆年代(68年)を考えると手紙の受取人には二世や三世の人もいたことでしょう。彼らは主イエスから直接、話を聞いていないのです。ですから著者は大事なことが伝えられていないことを考え警告をするのです。「注意を払わねばなりません」「押し流されてしまいます。」とありますが、それぞれの原語に着目をしたいと思います。

先ず、「注意を払わねばなりません」と訳された原語ギリシャ語には、「注意を傾ける」の意味に加え、船員用語として、船の錨を下ろすという意味があります。また、「押し流されてしまいます。」と訳された原語のギリシャ語は「不注意や無意識で(何かが)すべって落ちた」という意味で、船員用語としては、船員が注意を怠ってしまったため船が停泊場所から流されてしまったことを意味します。ですから、2章1節は次のように言い換えることが出来ます。「だから、私たちは聞いたことに人生の錨を下ろして、人生という船が停泊場所から押し流されないようにしよう」と。2節をアライブ訳聖書と一緒に見てみましょう。2:2 もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、2:2天使をとおして語った神のことばさえ、いつも真理と認められ、そのことばに従わない人は、例外なく罰せられた。(alive訳)2節を一言で言えば律法です。「天使たちを通して語られた言葉」とありますが、律法のことです。旧約聖書にはその記述はありませんが、口伝として律法は天使を通して与えられたと考えていました。開きませんが、同様な考え方が、新約聖書の使徒言行録7章35節とガラテヤ人への手紙3章19節に記されています。後ほど、お読みください。「効力を発し」とありますが、アライブ訳では「いつも真理と認められ」です。つまり、律法は効力を持つものとして認められていたのです。「すべての違犯や不従順が当然な罰を受けた」とあります。ここには律法によって裁かれる二つの罪の性質が記されています。「違犯」「不従順」です。「違犯」とは律法を犯す積極的な罪と言え、「不従順」とは律法を守らない怠慢、消極的な罪とも言えます。律法はこれらの罪に対してそれ相応の罰を与えますが、律法では罪びとを生かすことは出来ないのです。3節もアライブ訳聖書と一緒に見てみましょう。2:3 ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、2:3だとしたら、王・イエス自身の口から語られ、それを聞いた人たちが伝え、真実を証明してくれた救いの最高な知らせゴスペルを無視したとき、どうして罰を免れることができるだろうか。3節は一言で言えば福音、福音の真理です。「大きな救いに対してむとんちゃく」、アライブ訳では「救いの最高な知らせゴスペルを無視」とあります。もし、神から恵みで与えられる救いが疑わしものであれば、それから離れてしまっても無理のないことと思います。しかし、この救いは「主が最初に語られ」、「王・イエス自身の口から語られ」とあるように、十分に信頼ができる確実なものなのです。「主が最初に語られ」、「王・イエス自身の口から語られ」とは福音の啓示の原点です。ですから、3節では人に永遠の命を与える福音に無頓着であったり無視をしたりして良いのかが問われているのです。福音に無頓着であったり無視をしたりしたらどのような結末になるのかを考えなさいと著者は語るのです。ある捨てられた赤ん坊とそれを育てた女性の話をご紹介したいと思います。第二次世界大戦中のことです。ある冬の寒い朝、一人の女性が赤ん坊の大きな泣き声が聞こえ目覚めました。玄関を開けると、そこには女の子の赤ん坊が捨てられていました。その女性は迷ったのですが、自分が育てようと決意をしました。自分が生んだわけではないのでお乳がでません。粉ミルクを買えばよいのですが、当時、粉ミルクは高価でしたので、その女性は道路工事の仕事を始めました。そんなある日、女の子が車で引かれるという事故にあいました。一命は取り留めたのですが、大きな傷が残ってしまいました。その女性は女の子の将来を考え、自分の皮膚から移植手術をすることになりました。手術は成功し、女の子の傷跡は無くなりましたが、代わりに女性には大きな傷跡が残りました。女の子は成長しミッションスクールの中学生になったのですが、なんだかんだと理由を付けて、お母さんと一緒に銭湯に行かなくなりました。母親にはその理由がわかっていました。傷跡です。ある日、母親は真実を話すことにしましました。流石に捨てられていたとは言えないので、養女にしたとだけ伝え、傷跡のことには触れませんでした。すると女の子は驚きながらも強がって「産みの親は産みの親、育ての親は育ての親。それだけのことでしょ。」と答えました。母親は自分の傷跡のことを伝えると、「お母さん、ごめんなさい。お母さんのおなかの傷跡が恥ずかしくて、一緒にお風呂にいかなかったの」と泣きじゃくりながら母親に伝えました。その後まもなく、この女子中学生は学校で聞いたイエスキリストの犠牲による福音を思い出し、イエスキリストを救い主と受け入れ、周りの方に福音を伝え始めたのです。私たちが救われたのは、この母親が示した愛の行いのようなものであり、いや、それ以上のものなのです。ヨハネによる福音書3章16節を見てみましょう。3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ですから、この素晴らしい福音に無頓着や無視をして良いはずがありません。この手紙が書かれたときから今日に至る迄、私たちを福音から押し流そうとする悪の力が存在し続けているのです。ですから、キリスト信仰に固く立ち、決して福音から押し流されてはいけないのです。人生航路の錨である福音をしっかりとおろさないといないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは福音という錨を下ろすということです。

②賜物は御心に従って与えられる

4節を見てみましょう。2:4 更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。 3節後半に「それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され」とありました。これは啓示の伝達です。「更に」とありますが、啓示の伝達に加えての意味で、4節は啓示の力について記されています。人間の証に加え「神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証し」されるのです。「しるし、不思議な業、さまざまな奇跡」は類語を反復することのよって御業の力を強調しているのです。「聖霊の賜物」とあります。開きませんが、コリントの信徒への手紙一12章に記されていますので、後ほどお読みください。これらの賜物が「御心に従って」分け与えられているのです。ですから、賜物とは人間側の意思ではなく、あくまでも神が主権をもって人間にお与えになるものなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは賜物は御心に従って与えられるということです。賜物は主の栄光を現すために必ず与えられます。一人一人に与えられる賜物はことなりますので、比較する必要はないのです。証ししておられます。」とあります。これを過去のものとして捉えてはいけないのです。文法通り現在形として神が今も私たちに語られているのです。福音の啓示は先ず。主によって語られ、次に聞いた人々によって証され、更に神によって証されたのです。宗教改革の雄であるカルバンはこの 3,4節を「神人合同の証言」と述べています。

③イエスの苦しみを忘れない

5節を見てみましょう。2:5 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。5節は流れからいうと1章14節の続きと言えます。著者は再度、天使に触れています。「わたしたちが語っている来るべき世界」とは再臨の後に完成する新天新地のことです。続いて「天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。」とあります。この箇所からも手紙の受取人(共同体)には天使について正しく理解していなかった方がいたことがわかります。新天新地を治めることが出来るのは天使ではありません。では、誰が新天新地を治めることができるのでしょうか。そのことが、6-8節に記されています。6-8節を見てみましょう。2:6 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。 2:7 あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、 2:8 すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。「ある個所で、次のようにはっきり証しされています。」とありますが、これは詩編8編5-7節(新改訳、口語訳は4-6節)のことです。見てみましょう。8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。著者は詩編を引用し、神がお定めになっている大事なご計画を語ります。「心に留められる人間」、「あなたが顧みられる人の子」とありますが、主イエスのことです。9節からわかります。『「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、』とある通りです。「彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされた」とあります。詩編8編は人間について語られたものですが、主イエスは100%人間であり、100%神なのです。このことがわかっていないとこの引用箇所の理解は難しいです。つまり、救いの御業の完成のために、キリストは人間としてお生まれになる必要があったので、公生涯の期間は天使よりは低かったのです。しかし、主イエスは天に戻られ父なる神の右にいて「すべてのものを、その足の下に従わせられました。」とあるように、天使よりはるかに優れた存在なのです。ところが、「すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」と著者はかたります。人間は欠けのある弱いものです。環境に左右され誘惑に負けてしまうこともあります。主イエスの十字架により自由の身になったのにもかかわらず、罪の奴隷に戻ってしまう場合もあります。19世紀に活躍したイギリスのカトリック教徒で推理小説作家のギルバート・キース・チェスタトンが「人間に関する見解は種々あったとしても、一つだけ確かなことは、人間は神の意図した状態にないということだ」と述べた通りの状態なのです。それほど人間とは罪深いものなのです。9節を見てみましょう。2:9 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。「ただ、」とはじまります。万物がキリストには従っていませんが、「すべての人のために死んでくださった」ことは確かだとかたります。「イエスが」とあります。「主が」ではありません。へブル書でイエスという一人の人間の呼称が使われているのは9節が初めてで、私たちのために死んでくださったことを強調する場合に使われています。「死の苦しみのゆえに、」とありますが、ルカによる福音書22章42-44節を見てみましょう。22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕主イエスは十字架に掛かる前でも十字架上においても苦しみました。主イエスは贖いの御業のために人間として生まれる必要があったのです。血を流され想像を絶する痛みを覚え苦しまれたのです。私たちはどうでしょうか。このキリストの苦しみを忘れてはいないでしょうか。この苦しみがあったからこそ、私たちの罪が赦されているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリストの苦しみを忘れないということです。主イエスは全人類の贖いのために死なれました。そして復活され天に戻り、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のです。

Today’s Point➀福音という錨を下ろす、②賜物は御心に従って与えられる、③イエスの苦しみを忘れない

Thinking Time罪の奴隷に戻らないためどうしますか