説教題 神から任命された大祭司~主イエスに従っていますか~ 聖書箇所 ヘブライ人への手紙4章14節-5章10節
◆偉大な大祭司イエス4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。5:1 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。5:3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。5:4 また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。5:5 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。5:6 また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、5:10 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
ハレルヤ!7月の第二主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその八回目です。先週は4章1-13節を通し、「神の安息にあずかる」と題し三つ事を中心にお話をしました。①礼拝は安息の場、②最終的な安息は御国、③神は全てをご存じでした。今日は、4章14節~5章10節を通し、「神から任命された大祭司~主イエスに従順ですか~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。
➀大祭司イエスを持っている
4節から順番に見てみまししょう。4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。「もろもろの天を通過された」とあります。これは当時のユダヤの伝承です。天は七層に重なりあっていると考えられていて、復活されたキリストはその天を通って神の右に座したと伝えられていたのです。「偉大な大祭司」とあります。14節から16節は2章以降のまとめの部分で5章から始まる大祭司キリスト論のイントロ、序章と言えます。聖書の中でイエスが大祭司と呼ばれているのはこの手紙だけです。幕屋の時代、祭司は聖所には入ることができましたが、至聖所には大祭司しか入ることが赦されていませんでした。このことについては9章で詳しく学びます。聖所と至聖所との間には幕がありました。「天を通過された偉大な大祭司」とあります。この幕屋の幕を通過することができた人間の大司祭が「偉大な大祭司」の予型です。続いて「神の子イエスが与えられている」とあります。著者はこの手紙の中でイエスが人間であること、そしてイエスが神であることを強調し、神の子でもあることを記しています。先週、私たちはいつの日か、必ず神の前で自分の事を語らねばならない時が来る事を学びましたが、大祭司なるイエスが与えられているので感謝です。大祭司なる主イエスが神と私たちの中を取り持ち、神の御座に近づけてくださるからです。「与えられている」と訳されている言葉は原語では「持っている」の意味です。ですから、著者は「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」と勧めるのです。「わたしたちの公に言い表している信仰」とは、このような偉大な大祭司を信じることでありません。このような全てに優る存在である大祭司イエスを持っているということなのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは大祭司イエスを持っているということです。15,16節を見てみまししょう。4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」とあります。既にこの手紙の二章で学びましたが、イエスは神にして人、人にして神であったからこそ大祭司としての務めを果たすことができたのです。ですから、続いて「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」という奨励が語られるのです。「恵みの座」とあります。キリストは神の御座に行かれました。それは、私たちのための神の御座が怒り、裁きの座とならず、恵みの御座となるためなのです。私たちは主イエスにあって大胆に恵みの御座に近づくことが出来るのです。では、今日、この恵みの座とはどこでしょうか。新改訳聖書のコリント人への手紙第二、テサロニケ人への手紙第二を翻訳した村瀬俊夫先生は次のように語ります。『「恵みの御座」を表しているのはこの主日礼拝場でないでしょうか。そして福音が語られる説教壇ではないかと思います。ここで語られる説教は、恵みに支配され、恵みに満ち溢れているものでなければなりません。恵みの福音が語られる説教壇の前に、皆さまが大胆に近づいてくるのです。どうぞ近づいてください!』と。恵みに支配され、恵みに満ち溢れている説教が語れるようお祈りください。また、聖会などで講壇の前の場所を恵みの座ということもあります。「聖霊の満たしを求めるかたは恵みの座に来てください」と呼び掛けることがありますし、また、皆さんが行っているディボーシンも恵みの座と言えるでしょう。5章1節を見てみまししょう。5:1 大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。5章から大祭司キリスト論が始まります。先ず、祭司と大祭司の務めの違いをお話しします。祭司の務めは、毎日、朝晩に灯を点けることと香をたくことでした。安息日にはパンを備えることも祭司の務めでした。祭司たちはこれらの務めを当番制で行っていました。大祭司は年に一度、白い特別な衣装を着て至聖所に入ります。先ず、自分と家族の罪のために生贄として雄牛をほふり、贖罪所と呼ばれていた契約の箱の蓋にふりかけ罪の贖いをします。次に、民の罪のために雄山羊をほふり、同じようにします。 1節は大祭司の資格について記されています。「人間の中から選ばれ」とあります。先ず「人間」であることです。キリストは100%神であり100%人間でしたのでその資格があったのです。旧約時代、預言者と祭司は分けられていましたが、例外的に預言者が祭司となることがありました。アロンもその一人です。アロンは預言者としてモーセを助け、イスラエルの民をエジプトから解放。最初の大祭司となりました。大祭司は聖別され、「罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命」されていたのです。二つ目の資格は「任命」です。民の中から民を代表して神に仕えるのが大祭司です。その大祭司は任命をされる必要があるのです。
②唯一の罪なき大祭司
2,3節を見てみまししょう。5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。5:3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。「自分自身も弱さを身にまとっている」とあります。大祭司は弱さを持つ人間で、罪びとの一人です。続いて、「無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」とあります。人間として痛み苦しみを経験しているからこそ他の人を思いやったり、寄り添ったりできるのです。他人の痛みを自分の痛みとして共感することが出来るのです。後ほど学びますが、著者はキリストが人間の祭司に優るのはこの点であると主張します。想像を絶する痛みの十字架に掛かってくださったからです。私はワクチンを3回摂取しましたが、3回とも全く痛みを感じませんでした。えっもう終わったのという感じでした。腕の良い看護師さんだったのでしょう。ところが過去にはものすごく痛くていたーと悲鳴を上げてしまったことがありました。注射でさえ痛みを感じるのです。手のひらと足くびに太いくぎを打ちつけられた主イエスの痛みは本当に想像を絶する痛み苦しみだったのです。2004年に公開されたメルギブソンが監督をした「パッション」という映画をご覧になった方もいると思います。イエス・キリストの受難と磔刑を描く映画で、あまりの残酷さに最後まで見ることが見ることが出来なかったという方もいました。大祭司は弱さを持つ人間で、同時に罪びとですから、「民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねば」ならないのです。このことはモーセ律法で定められています。レビ記9:7-8,15を見てみましょう。9:7 モーセはアロンに言った。祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。これは主が命じられたことである。 9:8 アロンは祭壇に進み出て、自分の贖罪の献げ物として若い雄牛を屠った。 9:15 その後、アロンは民の献げ物をささげた。すなわち民の贖罪の献げ物として雄山羊を取って屠り、さきに自分のためにしたと同じように、贖罪の儀式を行った。著者はこの箇所からもキリストの優位性を暗に語ります。それはキリストは罪を犯したことがないからです。つまり、キリストは自分の罪を贖う必要がないのです。今日二番目に覚えて頂きたいことは唯一の罪なき大祭司ということです。
③主イエスに従順
4,5節を見てみまししょう。
5:4 また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。5:5 同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。4節に「神から召されて受けるのです。」先程、大祭司の資格が任命を受けることと話しましたが、任命は神から受けるのです。5節の「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」の部分は、この手紙の1章5節でも引用されていましたが、詩篇2:7からの引用です。詩編2:7 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」と言われる神がアロンにしてもキリストにしても大祭司の任命をしているのです。6節を見てみまししょう。5:6 また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。キリストを「メルキゼデクと同じような祭司である」と語ります。メルキゼデクはアブラハムの時代に、サレムの王であり、祭司でした。開きませんが、創世記14:17-24に記されています。サレムとは現在のエルサレムのことと考えられています。メルキゼデクについては7章で詳しく学びますので、今日はこれまでとします。7節を見てみまししょう。5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。この箇所は共観福音書に記されているゲッセマネの園での出来事を念頭にいれて記されたものです。ゲッセマネの園で主イエスは血のしたたる汗をもっていのられました。「激しい叫び声をあげ」とは十字架上でのお言葉をほうふつさせます。マタイ27:46,50には次のように記されています。27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。7節の後半に「畏れ敬う態度」とありますが、この部分は原語では神に対する畏敬、従順、服従の意味です。8節を見てみまししょう。5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。このことついて使徒パウロはフィリピの信徒への手紙でこのように記しています。フィリピ2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。主イエスは「十字架の死に至るまで従順でした。」地球は太陽の周りを正確に回ります。神がそのようにお創りになったからです。私たちはどうでしょうか。主イエスに従順でしょうか。主イエスを中心に置いて、その周りを正確に回っているでしょうか。気が向けば集会に参加し、気が向けば聖書を読むというようなことをしてはいないでしょうか。今ここで、心を探ってみようではありませんか。今日、最後に覚えて頂きたいことは主イエスに従順であるということです。9,10節を見てみまししょう。5:9 そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、5:10 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。「完全な者」とあります。主イエスは人間として様々な経験をされました。ですから祭司としての資格が完全なものとなられたのです。その上で、十字架に掛かられたのです。こうして主イエスは「神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」着目すべきは「神から」です。著者はこの箇所においても神がキリストを大祭司に任命したと念押しをするのです。これには深い意味があります。モーセ律法によれば祭司となれるのはアロンとアロンの子孫です。いくつかの証拠聖句がありますが、出エジプト記28:1を見てみましょう。出エジプト28:1 次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい。アロンはレビ族の流れを汲み、主イエスは肉においてはユダ族の流れを汲みます。このことからキリストの大祭司を認めない人もいることを考え、著者はキリストはモーセ律法からでなく神から直接、任命されたことを強調するのです。この手紙の著者は不明ですが、実に旧約聖書に精通をしています。聖書の章の区分は、1227年頃で節の区分はその200年後と言われていますので、章節のない当時、これだけの引用ができるということは完全に暗記をしていたのではないでしょう。私たちも少しでも多くの御言葉を蓄えて参りましょう。
Today’s Take-away
➀大祭司イエスを持っている、②唯一の罪なき大祭司、③主イエスに従順
Thinking Time
周りに寄り添うべき方はいませんか。