ヨハネ 4:24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
黙示録 4:8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、/全能者である神、主、/かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」 4:9 玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、 4:10 二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。 4:11 「主よ、わたしたちの神よ、/あなたこそ、/栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、/御心によって万物は存在し、/また創造されたからです。」
霊とまことによる礼拝とはどのようなものか考えてみたい。worshipとは、非常に敬意を表すときに用いる言葉。神を礼拝するとは、神に最高の栄誉と価値を認めることだ。絶対者に対して全身全霊をもってあがめることだ。黙示録4:8-11 天上の礼拝ではセラピムが神に向かって「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を褒め称え、栄光と賛美を捧げる。12人の長老は自らの栄を投げ捨てて、神こそ礼拝を受けるにふさわしいお方、なぜならすべてはあなたによるからと、神を褒め称え、崇め、賛美を捧げる。
① 霊とまことによる礼拝の意味
神に絶対的な価値を認め、み名に栄光を捧げるために、どのようにすればよいのか。それは捧げものによる。捧げものとは物質的なものだけではない。心や感謝、賛美、献金、などすべてである。旧約時代、イスラエルの人々は小羊など、全く傷のないの動物の犠牲を捧げた。犠牲の捧げものが神に近づく手段だった。しかし預言者により、犠牲だけでない、心からの悔い改め、服従と祈り、悔いた心と魂を神は受け入れられると語られる。
詩編 51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。 51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
もちろん物質的捧げものが無意味ではない。一週間、神に守られ、労働によって与えられた報酬の一部を献金として捧げる。また健康、仕事、チャンス、などすべて神に与えられたものであることを覚え、神の恵みですと感謝をもって供え物とする。公同の礼拝はすべて供え物に関係している。礼拝は神の招きの言葉に呼ばれて頌栄を捧げる。次に何を信じているのか、信仰告白をし、主の祈り、神の願い、自らの願い、礼拝の祝福の祈り、説教の感謝と応答の祈り、献金、賛美、頌栄から始まって頌栄に終わる一つ一つが捧げものである。その中心は賛美である。(聖書は「賛美のいけにえ」と言う)神礼拝の中心は、すべての造り主なる神の誉れ、偉大さを褒め称える賛美(頌栄)である。礼拝の捧げもののもう一つは私たち自身を捧げることだ。ローマ 12:1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。キリストの犠牲に対する感謝、賛美、祈りと共に、礼拝を捧げるにふさわしいものではないが、聖きものとして受けたまえと、自分自身を捧げることだ。
② 霊とまことによる礼拝の特徴
a霊とまことによる礼拝とは神中心
礼拝とは人間中心でなく神中心のもの。それは神の意志に基づくものである。レビ記では、神ご自身が礼拝のやり方を定められた。そして神が私たちを招かれるところからくる。礼拝は本来的に神ご自身が備え、「招きの言葉」が読まれるように、神が私たちを招いておられる。礼拝とはその神の招き、恵に対する人間の最高の行為である。礼拝は神の賜物、恵みである。神中心とは、神の救いが先行する。神の愛が先行する。神が素晴らしさを表されたからこそ、私たちは礼拝する。
b霊とまことによる礼拝は聖霊による
神の恵みと救いが魂の奥にまで届き、真の祈りとなるのは聖霊による。礼拝は、行ける真の神と出会うため、聖霊の支えを切に求める必要がある。
③霊とまことによる礼拝の特色
それぞれ個人での礼拝はディボーションであるが、共同体としての教会全体による礼拝である。主日礼拝、公同の礼拝である。旧約時代、イスラエル人は、民族全体として供え物をして礼拝を捧げた。共同体を離れての存在はありえなかった。今私たちも共同体として、祭司の国、聖なる国民、神の民として礼拝を捧げている。公同の礼拝は、天上の礼拝、地上のすべての教会の礼拝である。ギリシャ正教では世界中の人々だけでなく、過去の信者たち全員の、多くの群れによる礼拝と言う。八街だけでなく、全世界、全歴史上の人々と共に礼拝を捧げている。だから自分の教会のためだけでなく、地域の教会、教団、日本、世界中の教会の祝福を祈ろう。全地の民が、主のみ前に頭をたれ礼拝を捧げる。全宇宙的、天上の礼拝を意識するならばなんと豊かなものか。また礼拝は、今週もキリストを証しする準備のためでもある。教会は神の救いの担い手。この救いのため、外に向かってキリストを証しするために、教会は準備するのだ。自分から礼拝を捧げる人はどのような人か。それは内なる自由をもって主体的に応答する人だ。生ける神に礼拝を捧げるという意識をもって、心の備えをして臨もう。遅れがちであれば5分でも早く来て静まる。心を低くし、聖霊の導きを求め、真の礼拝に備える。自分が恵まれるのも大切だが、最も大切なことは私たちがキリストに似たものになることだ。そして慰め、希望、生きる力、感情的に豊かな満足も与えられる。霊とまことをもって真心からの礼拝を捧げよう。
Point
① 霊とまことによる礼拝の意味、② 霊とまことによる礼拝の特徴、③ 霊とまことによる礼拝の特色