• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年10月1日主日礼拝

説教題:不品行に陥らないために~キリストの死が背後にある~聖書箇所:コリントの信徒への手紙一6章12-20節

◆聖霊の住まいである体  6:12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。 6:13 食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。 6:14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。 6:15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。 6:16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。 6:17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。 6:18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。 6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

ハレルヤ!10月の第一主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその12回目です。前回のおさらいから始めましょう。6章1-11節から「問題の解決はどうしますか」と題し三つの事を中心にお話をしました。①教会内の問題は内部で解決する、②良心を目覚まさせ正しい道に立ち返えさせる、③旧態依然とした生活に甘んじないでした。コリントの教会は問題だらけの教会でした。パウロはこの手紙で先ず、分派、派閥の問題について述べ、次に不道徳、不品行の問題について語り、そして、信者間の争いの解決、訴訟について語りました。今日の箇所では別の不品行を取り上げ、キリスト者としての真の自由について語るのです。福音は人を自由にします。罪からの解放です。しかし、コリントの信徒の中にはこの自由を履き違えている者がいたのです。なんでも自由であるといって、色々な罪を犯し続けていたのです。その中でも不品行は大きな問題です。当時、コリントの町には異教の女神を祀った神殿がありました。神殿には千名を超える巫女がおり、昼間は巫女として仕え、夜は売春をしていたのです。未信者のみならずコリントの教会の信徒の方にも誘惑にまけ不品行を犯してしまっている人たちがいたのです。元々、霊肉二元論の思想にたつギリシア人は、そこから出発して極端な快楽主義を説くエピクロス派と極端な禁欲主義を説くストア派がありました。この二つの思想はコリント教会の中にも流れ込んでいたのです。今日の箇所でパウロこの快楽主義者の問題を取り上げて、福音の自由がいかに道徳的に制限のあるものであるかを明らかにするのです。今日は6章12-20節を通し、「不品行に陥らないために~キリストの死が背後にある~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①自由には益と支配が伴う

12節を見てみましょう。6:12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。12節で「わたしには、すべてのことが許されている。」が強調のため二回繰り返されています。この言葉は自由を履き違えていたコリントの教会の人たちがいつも口にしていた言葉ですが、パウロは、この言葉を完全には否定してはいません。原則としてこの言葉は正しいからです。キリスト者は何物にも拘束をされないからです。キリスト者には自由が与えられているからです。パウロはガラテヤの信徒への手紙でキリストを信じる者について次のように述べています。5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。キリスト者とは主イエスの十字架と復活により解放され自由になった者です。実際、このガラテヤ書の御言葉で律法的に生きていた方が、律法から解放され自由の身となっていることがわかり、イエス・キリストにある真の自由を味わうことが出来たという証を聞いたことがあります。自己抑制のためにがんじがらめになってしまっていたのですが、この御言葉で解放されたのです。イエス・キリストある真の自由に感謝せずにはいられません。同様な御言葉がローマの信徒への手紙5章20節と6章14節に記されています。開きませんがを読まれてください。しかし、キリスト者の自由とは放縦ではありません。なんでもかんでも好き勝手に出来るという自由ではありません。キリスト者の自由とは、喜んで自らを高い道徳的な生活のため拘束するという自由なのです。そこには条件があり制限があるのです。つまり、自分自身や周りの人にとって「益になる」かが求められるのです。また、何でもゆるされていますが、それを正しく「支配」コントロールしているかが問われるのです。飲酒運転をすれば車は走る凶器になります。魚をさばく出刃包丁も使い方を間違えれば人を殺す凶器となります。正しく支配しなければ罪の奴隷となりそこに災いが起こるものなのです。食欲でも性欲でもそれ自体は許されています。決して悪い物ではありません。食欲がなければ病気になりますし、性欲がなければ子孫を残せないでしょう。しかし、それらが自分自身や周りの人にとって益となっているか、正しくコントロール出来ているかが放縦とキリストにある自由との分かれ目なのです。罪を犯す自由ではなく罪を犯さないための自由なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリスト者の自由には益と支配が伴うということです。

②逃げるが勝ち

13節からは不品行を避けなければならない理由について記されています。13節を見てみましょう。6:13 食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。「食物は腹のため、腹は食物のためにある」とありますが、この言葉もコリントの教会の人たちがいつも口にしていた言葉です。実は、この言葉には続きがあります。「遊女は肉体の欲望を満たすために存在し、肉欲の宿る体は遊女のためにある」です。コリントの教会の信徒にはこのようにうそぶいて不品行を続けている者がいたのです。食欲と性欲は同じ本能ですので、食欲を性欲に置き換え、性欲のはけ口を遊女に求めることを正当化していたのですが、こんな勝手な論理が許されるはずはありません。「神はそのいずれをも滅ぼされます。」とある通りです。後半に「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」とあります。体のよみがえりを信じるキリスト者にとって身体は永続的な意味があります。食べ物で体は汚れることはありませんが、淫らな行いはその尊い体を汚すのです。不品行は厳かに慎まなければならないのです。体は決して不品行のためにあるのではありません。実に体とは「主のために」存在するのもので、「主は体のためにおられるのです。」主は私たちの身を贖われたのです。十字架で主が流された血潮によって私たちは永遠に朽ちない体を与えられているのです。私たちが生きるのは、ただ主のためです。私たちのこの身をもって主の栄光を現わすことが求められている。ですから不品行は厳に戒められなければならないのです。14節を見てみましょう。6:14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。私たちはキリストの死にあずかり、キリストの復活にあずかります。このようにキリストとキリスト者の間には密接な生命的一致があります。キリストにあって一つとされているのです。キリスト者はいつの日か光栄ある主のよみがえりにあずかる者です。この体は主の働きをするため、主の栄光を現わすためのものなのです。15節を見てみましょう。6:15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない「自分の体がキリストの体の一部」とあります。キリストは教会の頭で、キリスト者はそのからだの肢体です。この手紙の12章12,13節には次のように記されています。見てみましょう。12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。ですから、「キリストの体の一部を娼婦の体の一部」にすることはキリストに対する最大の冒涜であり、婚姻者であれば配偶者に対する背信行為です。16,17節を見てみましょう。6:16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。6:17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。「娼婦と交わる者」「主に結び付く者」との対比が描かれています。「娼婦」とありますが、「娼婦を含め配偶者以外の人」という意味で広く解釈をしても良いと思います。「二人は一体となる」の部分は創世記2章24節からの引用です。開いてみましょう。2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。今日、この聖句は結婚式でも使われることもあります。神聖なもので、堕落したものではないのです。パウロは皮肉を込めてこの句を引用したものと思われます。「一体となる」と訳された原語のギリシア語を直訳すると「一つの肉となる」です。肉体関係とは相手の人と一つの肉となることです。「娼婦と交わる者」とは生まれ変わったはずのキリスト者が生まれながらの人間に戻る、堕落することに他ならないのです。パウロはそのことを「知らないのですか」と訴えているのです。17節の後半に「一つの霊となるのです。」とありますが、コリントの信徒への手紙二3章17節を開いてみましょう。 3:17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。主は聖霊であり、私たちがキリストを信じる時、キリストの霊が私たちの内に働くのです。これが「主に結び付く者」なのです。18節を見てみましょう。6:18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。性欲は食欲や睡眠欲とともに生理的要求です。生きていくために必要な、基本的・本能的な欲求ですが、不品行を犯さないための助言が18節に記されています。「みだらな行いを避けなさい。」とありますが、「避けなさい。」と訳されていますが、原語の意味は「逃げ続けなさい」の意味という言葉です。不品行に対してはあの手この手で戦うより、逃げることが一番の方法なのです。人は性的な誘惑に弱い者です。怪力サムソンにしても、英雄ダビデにしても不品行の罪を犯してしまったのです。開きませんが、それぞれ士師記16章、サムエル記下11章に記されていますので、後ほど読まれてください。エジプトの宮廷の主、ファラオの顧問にまでなったヨセフは主人の妻から誘惑を受けましたが、見事に逃れ不品行の罪を犯さずにすんだのです。創世記39章12節を見てみましょう。39:12 彼女はヨセフの着物をつかんで言った。「わたしの床に入りなさい。」ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。中世ヨーロッパの神学者、哲学者であり、カンタベリー大司教の座にあった。アンセルムス( 1033年 – 1109年日)は「他の罪に対しては戦え、だが不品行からは逃れよ」といいました。諺でも「逃げるが勝ち」と言いますが、性的な誘惑に勝利するためには逃げることが一番の得策なのです。18節の後半に人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。」とあります。不品行以外の罪は体の外にあって、体の中までは浸透しないものです。しかし、不品行は良心を傷つけるだけでなく、体そのものの中に入り込み、全人格の破壊となるのです。人は性的な誘惑に勝つことは困難です。ですから、不品行に陥らないためには逃げるが勝ちなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは逃げるが勝ちということです。

キリストの死が背後にある

19節を見てみましょう。6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。「聖霊が宿ってくださる神殿」とありますが、「神殿」の部分は口語訳と新改訳では「聖霊の宮」と訳されています。キリスト者の体は聖霊が宿る神殿、聖霊の宮なのです。なんと尊厳で神聖なものでしょうか。キリスト者の一人一人が聖霊の宮なのでから、神のものとして聖く尊く保つべきなのです。自分の体だからといって好き勝手に振舞って良いという誤った考え方が堕落に繋がるのです。キリスト者の体は聖霊の宮なのです。ですから不品行など論外なのです。20節を見てみましょう。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。「代価を払って買い取られた」とあります。キリスト者とは罪と滅びから、キリストの血という代価をもって買い取られたのです。キリスト者の所有者はキリストであり、キリスト者の全てのものはキリストのものなのです。ですから、キリスト者は欲望のなすがまま不品行をしてはならないのです。むしろ、「自分の体で神の栄光を現」すことが求められるのです。キリスト者の体は聖霊の宮、キリストのものということです。この20節についてちいろば牧師こと榎本保朗の解説をご紹介し説教を閉じたいと思います。そのまま引用します。「この箇所を読むたびに、私たちは自分の体は自分のものとの考えを捨てねばと思う。自分たちのためにどれだけの代価が払われたかを思うと、神にこの体をささげねばと思わざるをえない。私は福音があって私の生活があるのだと常に思い、生活しているのである。数年前、病で入院されている方の誕生日に、私は主が十字架からおろされている聖画カードを贈った。祝れるべき誕生日、しかも長年入院されている方にはどかとも思ったが、私は『あなたの誕生、あなたの人生の根底には、このかたの死があるのでしすよ』と伝えたかったのである。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリストの死が背後にあるということです。

Today’s Takeaways ①自由には益と支配が伴う、②逃げるが勝ち、③キリストの死が背後にある

Thinking Time 聖霊の宮を傷つけたりしてはいないでしょうか