• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年10月15日主日礼拝

説教題:結婚について~恩寵は滅びに勝り、信仰は不信仰に勝る~

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一7章1-16節

◆結婚について  7:1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。 7:2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。 7:3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。 7:4 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。 7:5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。 7:6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。 7:7 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。 7:8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。 7:9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。 7:10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。 7:11 ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。 7:12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。 7:13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。 7:14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。 7:15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。 7:16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。

ハレルヤ!10月の第三主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその13回目です。先週は美恵子牧師に御言葉を取り次いで頂きました。感謝します。前回のおさらいから始めましょう。6章12-20節から「不品行に陥らないために~キリストの死が背後にある~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①自由には益と支配が伴う、②逃げるが勝ち、③キリストの死が背後にあるでした。前回もお話しましたが、元々、霊肉二元論の思想にたつギリシア人は、そこから出発して極端な快楽主義を説くエピクロス派と極端な禁欲主義者を説くストア派がありました。快楽主義がもたらした問題を先週、学びました。7章では禁欲主義が引き起こした結婚と性についての問題が取り上げられています。今日は続7章1-16節を通し、「結婚について~恩寵は滅びに勝り、信仰は不信仰に勝る~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①結婚は愛し合い仕え合う

1,2節から順番に見て参りましょう。7:1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。7:2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。「そちらから書いてよこしたことについて言えば」とありますので、コリントの信徒の誰かからパウロに手紙でなんらかの問い合わせがあったことがわかります。今日の箇所で、パウロはこれから結婚に関する様々な問題を具体的な例を上げて答えていきます。例えば、「独身の状態はどうであるか。離婚は絶対にいけないのか。夫婦の一方が未信者の場合はどうすればよいのか。寡婦の結婚についてはどうか。」です。「男は」とありますが、独身の男性のことです。2節の「男はめいめい自分の妻を持ち、」からそのことがわかります。続いて「女に触れない方がよい。」とありますが、独身主義を主張したり、禁欲主義を称えたりしたものではありません。元々、パウロは熱心なユダヤ教徒で、旧約聖書に長けていましたので創世記1章27,28節の御言葉を知らないはずがありません。創世記1章27,28節を見てみましょう。1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。因みに28節を大文化命令と呼ぶ場合があります。ですから、パウロは個人的な意見として独身である方が望ましいと述べているに過ぎないのです。その理由が「みだらな行いを避けるため」なのです。パウロ書簡を読むとパウロが再臨を待望していたようにも思われます。再臨は近い、そうであれば独身の方が身軽である。しかし、誰でもが独身でいられるわけではありません。不品行に陥るくらいなら結婚した方がよいということなのです。なにか、こう言うと結婚とはお互いの性欲を満たすためにあるのかと思うかもしれませんが、コリントという堕落しきった有様を念頭にいれてのことです。パウロの結婚に対する思いは、コロサイの信徒への手紙3章18,19節とエフェソの信徒への手紙5章21-23節に記されています。開いてみましょう。コロサイ 3:18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。3:19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。 エフェソ 5:21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 5:22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。今日、先ず覚えて頂きたいことは結婚は愛し合い仕え合うということです。結婚とは決して、性欲のはけ口ではないのです。3-5節を見てみましょう。7:3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。 7:4 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。7:5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。3節に「その務めを果たし」と二回記されています。夫婦の営み、夫婦生活の意味です。夫婦はそれぞれがお互いの「体を意のままにする権利」を持っているのです。5節には例外的に夫婦生活を拒んでもよい三つの条件が記されています。「納得しあったうえ」、「専ら祈りに時を過ごすため」、「また一緒になる」です。祈りの期間が終わったら。直ちに通常の夫婦生活に戻らなくてはならないのです。さもないと「サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」不自然な夫婦生活には多くの誘惑があるのです。サタンの誘惑に陥って不品行を犯してしまう危険があるのです。

②各自で主の業に励むことを考える

6,7節を見てみましょう。6節は口語訳でも見てみましょう。7:6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。 7:7 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。7:6 以上のことは、譲歩のつもりで言うのであって、命令するのではない。(口語訳)「命じるつもりはありません。」とあります。パウロは結婚を認めていました。だからといって全ての人に結婚せよと命じているわけではありません。一歩譲り「譲歩のつもりで」結婚を認めているのです。「皆がわたしのように独りでいてほしい。」とあります、再臨は近づいている。伝道に力を注ぐためには自分のように独身でいた方が良いとパウロは思っていたのです。「しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいている」とあります。キリスト者にはそれぞれに異なる賜物が与えられています。ですから、一律にいうことは出来ません。独身の方が主にお仕えし易いと思う方はそうすればよいし、一方、そう思わない方は結婚をすればよいとパウロは語るのです。つまり、主の栄光を現わす、主の業に励むためにどうすればよいかということは各自が決めることなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは結婚を含め各自で主の業に励むことを考えるということです。ところで、聖書にはパウロの結婚歴についての記載はなく様々な学説がありますが、新約聖書学者のウイリアム・バークレーはキリスト教に改宗する前は結婚をしていたのではないかと推測をしています。パウロの改宗の時に彼の妻の方から離れて行ったのではないかとの学説です。8節以降には三種類のタイプの人々が扱われています。8,9節を見てみましょう。7:8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。 7:9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。第一のタイプの人は「未婚者とやもめ」です。「未婚者」とは結婚適齢期に達していても結婚をしていない人のことです。「やもめ」とはかって結婚をしたことがありますが、なんらかの理由で現在は独身の人のことです。パウロはそうした人たちに自分のように独身であればよいと語りますが、性欲は自制することが困難です。ですから、「自分を抑制できなければ結婚しなさい。」というのです。「情欲に身を焦がす」とは情欲を自制できずに、心の中に妄想が起こったり、そのために苦悶したりしている状態のことです。10,11節を見てみましょう。7:10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。 7:11 ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。第二のタイプの人は「既婚者」です。「既婚者」ですが、信者と未信者の結婚のことについて12節以降にありますので、ここでは「キリスト者同士の既婚者」という意味です。信者間同士の結婚でも離婚の問題が起きていたのです。離婚の理由は様々です。今日では性格の不一致、不貞、経済の破綻、病気、犯罪などの理由で相当数の離婚が行われています。令和元年に結婚した方は1/3の方が離婚したという統計があります。コリントの教会においても様々に理由で離婚を考えていた人がいたのです。それに対してパウロは「妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。」、「夫は妻を離縁してはいけない。」と命じています。キリスト者同士の離婚は禁止されていますし、主ご自身も命じておられます。マタイによる福音書19章5,6節を見てみましょう。19:5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 19:6 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」「既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。」とあります。離婚をしてしまったキリスト者の在り方です。「再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。」という選択を伝えています。パウロは離婚してしまった人たちは再婚をすべきではない。また、できる限り元のさやに戻る努力をすべきだと言うのです。ところで、現実問題としてキリスト者同士の夫婦でも離婚をしてしまう場合もあります。やむを得ない理由でしょう。大事なことは、離婚してしまった方たちにこの御言葉を盾に取り裁くことは絶対にしない、また、その方たちに為に祈るということです。私が良く知っている方でキリスト者同士のカップルでしたが、離婚をしてしまいました。その後、その方はキリスト者と再婚し男の子が与えられ幸せに暮らしています。12,13節を見てみましょう。7:12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。 7:13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。「ある信者に信者でない妻がいて、ある女に信者でない夫がいて」とあります。第三のタイプの人はどちらかの配偶者が未信者の場合です。妻が未信者でも夫が未信者でも、その人たちの離婚について「離縁してはいけない。」と命じますが、これは主イエスが命じていることではありません。パウロの個人的な意見ですが、主イエスから直接任命された使徒としての権威を持って命じているのです。その理由が14節以降に記されています。7:14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。14節は婚姻関係の存続を望んでいる場合に離婚を禁じている理由です。「聖なる者」と三回記されていますが、夫婦間において信者でない配偶者が信者によって「聖なる者」とされるとはどういうことでしょうか。夫婦は同じ家に住み寝食を共にします。「似たもの夫婦」と言いますが、その意味は、寝食を共にすることで、見た目や性格、考え方や好みが似ている夫婦のことです。 夫婦が一緒に暮らしていくうちに、だんだん似てくるようになるのです。当然のように信者でない方は信者によって霊的な影響を受け続けているのです。信者のきよい影響が不信者の配偶者や子供にも至たりきよめられるのです。この場合のきよめとは、個人的な救いやきよめ(聖化)を指しているのではなく、不信者の家族が信者や教会と繋がり続けることによって救いの可能性が高まる意味で解釈をするとよいです。15節を見てみましょう。7:15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。15節は不信者が結婚の存続を望んでいない場合についてです。パウロは「去るにまかせなさい。」と消極的ながらも離婚を勧めています。そして、離婚が成立した場合は「縛られてはいません。」とあるように自由の身です。ですから死別と同様に再婚も可能となるのです。どのような結果が生まれるにせよキリスト者とは「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召され」ているのです。

③恩寵は滅びに勝ち、信仰は不信仰に勝つ

16節を見てみましょう。7:16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。パウロは救いの主権が神にあることを告げています。神の恩寵が強調されていますです。私たちが人を救うのではなく、主なる神が人を救ってくださるのですが、未信者の配偶者や家族が救われるためにはあきらめずに祈り続けることと、キリスト者としての生き方を通しての証が必要なのです。ペトロの手紙一3章1,2節を見てみましょう。3:1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 3:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。神の恩寵にたより、祈り、深い愛を持ち誠実に相手に仕えるなら、救いの可能性が引き起こされることを聖書は語っているのです。ホーリネス教団の牧師ではありませんが、今年のイースターに私が親しくしている牧師の母親が救われました。25年間の祈りが応えられたのです。その牧師は都内に住んでいるのですが、週に二回、福祉施設で夜勤をしながら、仙台に住む母親のため月に一回ほど訪問伝道をしていたのです。その牧師の母親は自分の息子の「神を畏れる純真な生活」と自分に対する真摯な態度を見たのでしょう。恩寵を確信し未信者の家族に仕えることにより救いが持たされるのです。未信者の家族が救われ家族全員で主を賛美し、礼拝に出席する。これほど大きな喜びはないでしょう。今日、最後に覚えて頂きたいことは恩寵は滅びに勝ち、信仰は不信仰に勝つということです。

Today’s Takeaways

①結婚は愛し合い仕え合う、②各自で主の業に励むことを考える、③恩寵は滅びに勝ち、信仰は不信仰に勝つ

Thinking Time 

「純真な生活」とはどういう生活でしょうか