説教題: 行使されなかった権利 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一9章1-14節
◆使徒の権利 9:1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。9:2 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。9:3 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。9:4 わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。9:5 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。9:7 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。9:8 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。9:9 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。9:10 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。9:11 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。9:13 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。9:14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。
ハレルヤ!11月の第三主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその17回目です。前回のおさらいから始めましょう。8章1-13節から「自由は愛ゆえに制約を受ける」と題し三つの事を中心にお話をしました。①知らないことを自覚する、②兄弟姉妹を躓かせてはならない、③自由は愛ゆえに制約を受けるでした。今日は続く9章1-13節から「行使されなかった権利」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①使徒として報酬を貰う権利がある
1節を見てみましょう。9:1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。」と主張します。パウロは兄弟愛の精神をもって、信仰の弱い兄弟を躓かせるようなことがあるといけないので、喜んで肉を食べないと言明しました。しかし、本来パウロは「自由な者」だったのです。何ものからも束縛をされない自由な人でした。しかも「使徒」の職にありました。そんなパウロが愛ゆえに進んで束縛を受けるというのです。「主イエスを見た」とありますが、パウロが使徒職を主張する理由の一つがこれです。ダマスコ途上での出来事です。同段落Read開きませんが使徒言行録9章1-19節に記されています。「主イエスを見た」の「見た」の原語の意味は幻想や幻覚のように見たのではなく、その姿を具体的にこの目で見たと言う意味です。パウロは主イエスを自身の目ではっきりと見たのです。パウロは主イエスから直接、使徒としての任命を受けたのですから他の使徒となんらかわりはありません。2,3節を見てみましょう。9:2 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。9:3 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。「他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。」とありますが、パウロが使徒職を主張する理由の二つ目は、コリント教会の中にパウロが使徒であることに疑念を持つ人たちがいたのです。コリント教会はパウロが伝道して生まれた教会です。他の教会ではパウロの使徒職について疑義をはさむ者がいたかもしれませんが、悲しいことにコリント教会においてもパウロの使徒職を疑う物がいたのです。具体的には他の使徒は報酬をもらっていたのですが、パオロだけは報酬をもらっていなかったのです。ですから、自分を「批判する人たちには、こう弁明します。」と言いい、その具体的な内容が4節以降です。4-6節を見てみましょう。9:4 わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。9:5 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。「わたしたち」とありますが、パウロとバルナバのことです。パウロは三つの権利について弁明します。いずれも教会からの経済的支援に関するものです。先ず、「食べたり、飲んだりする権利」です。パウロは使徒として教会のお金で「食べたり、飲んだりする権利」はないのですか。と問うているのです。二番目の権利は「信者である妻を連れて歩く権利」です。これは使徒の結婚をする権利のことではありません。この二番目の権利も教会としての出費のことです。ケファ(ペトロ)は妻帯者でした。開きませんがマルコによる福音書1章30節に記されています。ケファ(ペトロ)や他の使徒は教会から出費を受けて伝道旅行などの際に妻を同行させていたのですが、自分たちにはその権利がないのかと問うているのです。三番目の権利は「生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利」です。パウロは天幕作りをしながら自給伝道をしていました。使徒言行録18章3節を開いてみましょう。PPT 18:3 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。自分でテントメーカーをして生活費を稼いだのですが、生活費をもらえる権利はあるだろうと問うているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは使徒として報酬を貰う権利があるということです。
②律法は報酬を認めている
パウロは続く7節以降でこの世の一般常識と思われるものと旧約聖書を引用して福音を述べ伝える人たちがそれによって生活をすることの正当性を主張しています。7節を見てみましょう。9:7 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。7節では一般常識と思われる三つの例が記されています。「戦争に行」く人は国からお必要なものが支給されます。手弁当で戦争に行く方はいませんし、「ぶどう畑を作って」いる人は当然、収穫したぶどうを食べます。同様に「羊の群れを飼って」いる人は、その乳を飲むのです。8,9a節を見てみましょう。9:8 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。9:9 aモーセの律法に、「脱穀している牛に口籠(くつこ)をはめてはならない」と書いてあります。「人間の思いからでしょうか」とあります。一見、7節の弁明は一般常識のように思えますが、その基にはモーセ律法があります。「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」の部分は申命記25章4節からの引用です。開いて見ましょう。同段落PPT 25:4 脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。若い世代の方は「口籠」をご存じないかもしれませんが、牛が脱穀しているものを食べないように、口を閉じさせるためのものです。牛が働いている間は、自由に穀物を食べられるようにしなさいという戒めです。パウロはモーセ律法を引用し、働く人にはその働きに見合う当然の報酬を与えるべきだというのです。主のための働き人には報酬を貰う権利がある。9b,10節を見てみましょう。9:9 b神が心にかけておられるのは、牛のことですか。9:10 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。哀れみ深い神は、牛にすら食べ物が自由に食べられるようにと「心をかけて」いるのに、人間に心をかけないはずがないと弁明をします。「わたしたちのためにそう書かれている」とありますが、元々、律法とは人間が守るべきものとして人間に与えられているのです。「耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。」とあります。農夫が汗水を流しながら苦労して耕すのも、分け前をもらえることを期待してのことです。だとしたら、神の国のために働く人が、その報酬を受けるのは当然だと弁明をするのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは律法は報酬を認めているということです。
日本で富を築くために牧師となる人はいないでしょう。私が教会に通い初めて暫くたった頃、週報に牧師の謝儀が記されていたのですが、あまりの低さにビックリしたことを覚えています。後日、更に驚いたのはその牧師の謝儀は他教団と比べて高かったのです。日本では、自給伝道が少なからずあります。私の単立の母教会もそうです。牧師は大学で教鞭を取りながら牧会をしています。教団立の教会でも皿洗いをしたり、タクシーの運転手をしたりし、新聞配達をしながら牧会をされていた牧師を良く知っています。また、ある教団のトップの牧師はトップの座に就任した時に「せめて地方公務員くらいの水準まで引き上げたい」と言われていました。一方、韓国では牧師の社会的地位が高く、この世の平均的な年収よりはるかに高額です。牧師は医師や弁護者と並び、女性が結婚したい職業の一つです。主任牧師になるためには最低、修士号が求められと聞いたことがあります。ある韓国の教会の長老はこのように日本を批判しました。「日本では牧師先生に差し上げる謝礼は、この世の人々が受ける給料よりはるかに少ないと聞きました。そういう風に牧師先生を尊敬しなければ、教会が祝福されるわけがありません。日本の教会が小さいのはそのためです。牧師先生が教える神の福音を高価なものと考えていないからです」と。私はこれを聞き、少し違和感を覚えました。キリスト者数が人口の1%以下の日本と人口の30%以上を占める韓国とでは事情が異なりますので牧師の報酬に差があって当然でしょう。しかし、日本でリバイバルが起きて救わる人が続出し教会が成長する。その結果として牧師の報酬が増えることは良いことではないでしょうか。11節を見てみましょう。9:11 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。「霊的なもの」、「肉のもの」とありますが、信徒の霊的な成長の働きとそれに対する報酬の事です。この報酬をもらうことにパウロは「行き過ぎでしょうか。」と問うていますが、修辞疑問文ですので、「行き過ぎではない。当然だ」の意味です。12節を見てみましょう。9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。「他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば」とあります。冒頭で申し上げましたが、他の使徒は報酬をもらっていたのですが、パウロだけは報酬をもらっていなかったのです。使徒ではありませんが、バルナバもそうでした。パウロはコリント教会の生みの親ですので、この権利を行使できたのですが、「この権利を用いせんでした。」と語るのです。その理由は、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」からです。金銭のために働いているという印象を未信者に与えてしまったら大きな躓きとなってしまうのです。「口では福音宣教と綺麗ごとを言っているが、結局は金のために働いているのだろう」という邪推を懸念して「すべてを耐え忍んで」いたのです。この背景にはコリントにある異教徒の神殿の祭司が、祭司としてすべきこともせずに、金まみれの生活をしていたのです。ですから、パウロは自ら働くことによって窮乏に耐えていたのです。先程、使徒言行18:3を開きましたが、使徒言行録20章34節にも次のように記されています。見てみましょう。 20:34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
③主イエスも報酬を認めていた
13,14節を見てみましょう。9:13 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。9:14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。「神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。とあります。パウロは再びモーセ5書に記されていることを要約して弁明をしています。この箇所は民数記18:8,9:31、申命記18:1-14からの要約です。聖なる働きに従事する者は生活の保障を受けていました。「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」とあります。マタイによる福音書10章9,10節とルカによる福音書10章7節を開いてみましょう。 10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。この言葉は、主イエスが十二人の弟子を伝道の働きに遣わすにあたって言われたものです。 10:7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。今日、最後に覚えて頂きたいことは主イエスも報酬を認めていたということです。パウロは報酬を頂ける三つの権利について弁明をしました。使徒であること、旧約聖書が認めていたこと、主イエスも認めていたことです。それでも報酬を受け取ることはしませんでした。未信者に躓きを与えないための配慮もありますが、これはまた、堕落しきったコリントの人が自由を盾にとり他の人を躓かせていることに対しての戒めでもあるのです。全ての伝道者がパウロの真似をすることは出来ませんし、する必要もないでしょう。また、パウロ自信もそうすることを望んではいなかったでしょう。しかし、私たちはパウロという一人の偉大な伝道者の姿勢から大いに学ぶものがあることを覚えたいと思います。
Today’s Takeaways
①使徒として報酬を貰う権利がある、②律法は報酬を認めている、③主イエスも報酬を認めていた
Thinking Time
権利ばかりを主張してはいませんか