説教題:逃れの道が備えられている 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一10章1-13節
◆偶像への礼拝に対する警告 10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、 10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。10:8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。10:9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
ハレルヤ!12月の第二主日を迎えました。先週から待降節(アドヴェント)に入っていますが、引き続きコリントの信徒への手紙一を講解で学びます。今日はその19回目です。前回のおさらいから始めましょう。15-26節から「パウロの報酬~朽ちない冠を目指す~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①福音宣教自体がパウロにとっては報酬、②福音宣教のためにはどんなこともする、③無駄無益なことはしないでした。今日は続く10章1-13節から「逃れの道が備えられている」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。パウロは出エジプトの出来事を引用して語ります。ファラオの顧問であったヨセフは家族と対面したのち、ヨセフは父の家族、親族と共にはエジプトに移り住みました。年月が経ち、ユダヤ人が次第に増え、それを恐れたエジプトの王は生まれてくるユダヤの男児を皆殺しにしたのです。この時に生き残った男児がモーセです。モーセはユダヤの民のリーダーとなり、エジプトを出国し、乳と蜜の流れる約束の地に向かったのです。パウロはこの出エジプトの出来事を回想しながらコリント教会の人々に警告を与えています。
①キリストは身近におられる
1,2節から順番に見て参りましょう。10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、「雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で」とあります。ユダヤの民が約束の地に向かう道のりは、キリスト者が天国に行く道のりに例えられます。ユダヤの民はエジプトを出て、雲の柱に導かれ、紅海の水は二つに割れてその中を無事に通りました。彼らは神の特別の守りを受けたのです。同段落Read開きませんが、後ほど、出エジプト13章21節,14章21-23節を読まれてください。彼らには偉大な指導者のモーセがいましたが、このような人間には不思議と思われる出来事を通して、モーセと固く結ばれたのです。そのことをパウロは「モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」と表現しているのです。3,4節を見てみましょう。10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。2節ではユダヤの民とモーセの絆を洗礼と表現していましたが、ここには聖餐が描かれています。「霊的な食物を食べ」とありますが、荒野を漂うユダヤの民に主なる神がお与えになったマナのことです。出エジプト記の16章12-18節に記されています。「霊的な飲み物を飲みました」とあります。モーセが杖で岩を打つと水が湧き出し、ユダヤの民は渇きをいやすことが出来たのです。出エジプト記の17章1-6節に記されています。「霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだった」とあります。「霊的」とは天来の超自然的な奇跡を意味していて、パウロはキリストの先在を確信していました。この世が与える富や栄誉は人の渇きを一時的に潤してくれますが、一時的なものなので渇きは繰り返します。しかし、キリストにある生命の水は永遠に乾くことがありません。そして、その岩は遠い場所にあるのではなく、信仰を持ってみれば私たちのすぐ近くにあるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリストは身近におられるということです。
②歴史を教訓とする
5,6節を見てみましょう。10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。1-4節には「皆」という言葉が五回記されていました。モーセを通して「皆」が主の恵みに預かった事実を強調するためにです。ユダヤの民はエジプトでの奴隷の身から解放され、エジプトを脱出したばかりか、昼は雲の柱、夜は火の柱によって行く手を導かれ、シナイ山においても飲食の必要が満たされていたのです。「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしま」ったのです。約200万人の人が驚くべき御業を経験しました。出エジプトの時に成人していた人は約60万人いましたが、その中で約束の地に入ることが出来たのはヨシアとカレブのたった二名だったのです。それをパウロは「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです」と言います。ユダヤの民の失敗は遠い昔の出来事ではありません。コリントの信者や今日の私たちにも大きな警告を与えています。では、コリントの人や今日のキリスト者はこれらの出来事から何を学ぶべきでしょうか。それが、「わたしたちが悪をむさぼることのないため」なのです。具体的な悪行の内容がユダヤの民が犯した罪に重ね合わせて7節以降に記されています。7節を見てみましょう。10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。「偶像を礼拝してはいけない」とあります。一番目の勧告です。ユダヤの民は偶像礼拝をしていたのです。このことがコリントの信者にもあてはまるとパウロは注意喚起をします。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」の部分は出エジプト記32章6節からの引用です。開いてみましょう。32:6 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。ユダヤの民は指導者のモーセがシナイ山から戻って来るのを待ちきれずに、アロンに依頼し金の子牛像を作り、どんちゃん騒ぎをしながら偶像礼拝に耽っていたのです。このことがコリントの信者にもあてはまるとパウロは注意喚起をします。ところで、偶像について注意しておきたいことがあります。偶像とは有形の像だけではありません。名誉、地位、お金等も偶像になり得るのです。主なる神よりも優先しているものがあれば、それは偶像に他ならないのです。8節を見てみましょう。10:8 彼らの中のある者がしたように、みだらことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。「みだらことをしないようにしよう。」とあります。これがコリントの信者への二つ目の勧告です。「みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。」の部分は民数記25章9節に記されています。 25:9 この災害で死んだ者は二万四千人であった。モアブの女と姦通を犯した二万四千人のユダヤ人が悲惨な最後を遂げたのです。パウロが挙げた数字と千名の差がありますが、両者とも明らかに概数です。それに加え、士師たちに殺戮された者の数を考慮しているものと思われます。民数記25章5節を開いてみましょう。 25:5 モーセはイスラエルの裁判人たちに言った。「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕った者を殺しなさい。」偶像礼拝と性道徳の腐敗は、どの時代どの場所においても密接な関係があるのです。9節を見てみましょう。10:9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。コリントの信者への三つ目の勧告が、主を「試みない」ことです。「試みた者は、蛇にかまれて滅びました。」とあります。昔、ユダヤの民は食べ者のことで不平を言い、主を試みてしまったのです。その結果、主なる神はユダヤの民に対して燃える蛇を送ったのです。このことは開きませんが、後ほど、民数記21章5,6節、詩編78編18節を読まれてください。10節を見てみましょう。10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。コリントの信者への三つ目の勧告が、「不平」を言わないことです。コリントの信者の中にはパウロに対して不平や不満を抱く者がいたのです。しかし、彼らは自分の言動を棚に上げてパウロから注意を受けるのが嫌で不平や不満を言っていたのです。「不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。」とありますが、この出来事は民数記16章11-49節にあります。後ほど読まれてください。結局のところ、不平に陥るとは自制心がなく高慢であるからです。そしてその慣れの果てが破滅であることは歴史が物語る通りなのです。11,12節を見てみましょう。10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。「前例」とあります。7-10節で述べてきた、古代のユダヤ人が経験をしたことですが、単なる過去の出来事ではありません。歴史は繰り返すと言いますが、悪い歴史は繰り返してはならないのです。悪い歴史は「時の終わりに直面している」人たちには絶好の教訓なのです。ですから、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」と勧告をするのです。自分は大丈夫だと思っている者も十分に警戒すべきなのです。自信の強いものほど倒れやすいものです。つねに心を配って堕落しないよう努めなければならないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいこと歴史を教訓とするはということです。
③逃れの道が備えられている
13節を見てみましょう。10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。この箇所を読んで思い出したことがあります。以前、スケート選手の羽生結弦と浅田真央さん演技に対して「神は乗り越えない試練を与えない」とコメントした評論家がいましたが、その方はキリスト者ではなく「神は乗り越えない試練を与えない」は当時、流行っていたドラマ「JIN-仁-」の場面の受け売りだそうですが、聖書の言葉がテレビドラマで使われることは良い事と思います。「人間として耐えられないようなものはなかった」とあります。信仰生活を堕落せずにまっとうしようとすれば、そこに必ず試練があります。コリントの人たちも例外ではありませんでした。偶像礼拝への誘惑、この世の甘い生活と新しい生活のとの衝突、これらは確かに大きな試練でした。しかし、このような試練はコリントの人たちだけが経験をしているわけではありません。既に多くの先人が経験し切り抜けてきた問題なのです。それだけではありません。キリスト者が信じる神は「真実な方」なのです。人間のように嘘偽りがありません。信頼しても決して裏切られることはないのです。ですから、この神がおられる限り、多くの試練は憂いることはないのです。実に主なる神がお与えになる試練とは人間を堕落させ陥れるためではなく、わが子を鍛えるためなのです。人は様々な試練を経て人格、信仰が成長するのです。試練が多いと感じたら神からの期待が大きいことの裏返しです。ですから、試練を恐れる必要はないのです。むしろ試練を喜ぶべきなのです。また、神は試練がどんなに厳しくとも「逃れる道をも備えて」いてくださるのです。人間には不思議と思えるような試練に耐えられる、試練から逃れの道を必ず備えていてくださるのです。私自身も逃れの道を経験しています。その証をしたいと思います。一宮で牧会していていたので一年目の冬の出来事ですので、ちょうど9年前のことです。当時、ご厚意により、前牧師の桑原裕也先生のご両親が経営しているレストランを営業時間前に会場として使わせて頂いていました。全くのご厚意ですが、使用期限は一年間でした。不動産会社や色々つてを使い会場を探しました。茂原教会の姉妹の紹介で物件を見に行ったこともありましたが、どこも「帯に短し、たすきに長し」のような状態でした。近くにホテルがあるのですが、毎週、借りるのには価格が高すぎます。ちょうどよい町営の施設があるのですが、そこは宗教関係は借りられないので断念をしていました。そんな最中の12月になり、ある方から自宅を使ってくださいとの申し入れがありました。その方のご子息の隣に家を新築し引っ越すというのです。天にも昇る気分でした。しかし、大晦日のことです。新築をしないことになってしまったのです。絶像的な状態にもどりました。お先真っ暗。八方塞がりです。3月となり、切羽詰まって、役場を訪れ、町営施設を「三浦綾子の読書会」という名目で借りようとしたのですが、嘘は罪ですので、ダメもとで正直に使用目的を「礼拝」です。と対応した若い職員に伝えました。すると驚いたことにその職員が「礼拝すか、了解す。」と言いその施設を借りることができたのです。この時の驚きと嬉しさは一生忘れることは出来ませんし、このことをも通して私の信仰が成長しました。会場利用料は4時間で1250円でした。ある姉妹はこの会場をみて「まるで、この教会のためにあるような会場ですね」と言いました。日当たりも良く、本当にピッタリな会場でした。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」この御言葉は様々な人生の戦いの中にある方にとってどんなに大きな励まし慰めとなることでしょうか。この聖句はキリスト者に回宗したパウロが多くの迫害を受けながらも、信仰に固くたち福音を述べ伝えたことの証詞です。私たちの教会がこの地に建てられて30年が経っています。私たちが招聘されて8年半が過ぎましたが、その前には専任の牧師がいない時代が10年以上もありました。正に試練です。これからも様々な試練はあるあると思いますが、主が「逃れる道をも備えて」くださっていることを覚え歩んで参りましょう。
Today’s Takeaways ①キリストは身近におられる、②歴史を教訓とする、③逃れの道が備えられている
Thinking Time 不平不満を言っていませんか どうしますか