• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年12月17日主日礼拝

説教題:どちらの盃を飲みますか~神を侮ってはいけない~

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一10章14-22節

10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。10:15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。10:18 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。10:19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。10:20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。10:21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。10:22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

ハレルヤ!12月の第三主日を迎えました。待降節(アドヴェント)の期間中でありますが、引き続きコリントの信徒への手紙一を講解で学びます。今日はその⑳回目です。来週はクリスマス礼拝ですので、ルカによる福音書2章からお話をします。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。前回は、10章1-13節「逃れの道が備えられている」と題し三つの事を中心にお話をしました。①キリストは身近におられる、②歴史を教訓とする、③逃れの道が備えられているでした。今日は続く10章14-22節から「どちらの盃を飲みますか~神を侮ってはいけない~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。20節に「悪霊」とありますが、今日の箇所を理解する上でこの悪霊について知る必要があります。悪霊とはサタンに仕える、堕落した天使たちです。ヨハネの黙示録12章9節を開いて見ましょう。 12:9 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。主が再び、この世に来られた後、最終的に悪魔とその手先である悪霊は滅ぼされるのですが、それまでは悪魔と悪霊はキリスト教会とキリスト者を堕落させようと常に攻撃をします。その典型的な一つが偶像崇拝なのです。先ず、このことを覚えて今日のお話を聞いてください。

①偶像礼拝は避け続ける

では、14,15節から見て参りましょう。10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。10:15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。「こういうわけですから」と始まります。先週、お話ししましたが、出エジプトの際、約200万人もの人が驚くべき御業を経験しました。出エジプトの時に成人していた人は約60万人いましたが、その中で約束の地に入ることが出来たのはヨシアとカレブのたった二名だったのです。その理由はユダヤの民が偶像礼拝をしていたからでした。このことを教訓として、パウロはコリントの愛する兄弟姉妹に対して「偶像礼拝を避けなさい。」と勧めているのです。「避けなさい」訳された原語は6章18節の「みだらなおこないを避けなさい」と同様に「逃げ続けなさい」という意味です。大切なことは「偶像礼拝を避け続ける」です。15節に「分別ある者」、「自分で判断しなさい」とあります。偶像礼拝とは一般的には宗教的な意味合いを持ちますが、それだけではなく、ある人物や物事に対して異常なまでに執着心を持つことも含まれます。主なる神よりも大事にしているものがあれば、それは偶像礼拝にすぎないのです。健全な生活を送るために、健全な行動を取ることが重要です。このような賢明な判断をコリント教会の兄弟姉妹にして欲しいことを願っているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは偶像礼拝は避け続けるということです。8章で学びましたが、その偶像に供えられた肉を食べることについてパウロはこのように述べていました。8章4節を確認してみましょう。8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。当時、コリントの民衆はジュピター、ミネルバ、アフロディトといったギリシャやローマの神々を信じていましたが、パウロはそのような神を一切、架空のもの、無に等しいものと宣言をしていました。本当に存在するのは天地万物を作られた主なる神のみです。詩編の記者は偶像について次のように語っています。 115:4 国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。 115:5 口があっても話せず/目があっても見えない。 115:6 耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。 115:7 手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない。 115:8 偶像を造り、それに依り頼む者は/皆、偶像と同じようになる。このように偶像とは、木や石や金属で作られた偶像など木片であり、石塊であり、鋳物にすぎないのです。パウロは偶像を否定しつつも、次のようにも語りました。8章9節を確認してみましょう。8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。コリント教会の信者の偶像の問題とは信仰にあつい人が偶像に捧げられた肉を食べ、そのことによって信仰の弱い信者を躓かせていたことです。ここにはパウロのコリントの兄弟姉妹への愛の配慮があります。しかし、今日の箇所の18節以降では一見矛盾とも思える解説をしていますが、決して矛盾するものではなく、視点が異なるだけです。16,17節を見てみましょう。10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。「賛美の杯」、「裂くパン」とありますが、聖餐のことです。パウロは偶像崇拝を避けなければならない理由として聖餐の真理を用いています。キリスト者は聖餐によって「キリストの体」「キリストの血にあずかる」のです。つまり、聖餐によってキリストと一体となるのです。「皆が一つのパンを分けて食べるからです。」とあります。初代教会での聖餐式は一つのパンを裂いていました。今日でもこれに倣い一つのパンを裂いて聖餐式を行っている群れもあります。聖餐はキリストとの縦の関係ですが、横には信者間の聖なる交わりなのです。聖餐をともにするすべての人に同じキリストの血が通い、キリストの体が宿るのです。霊的に「一つの体」に属する兄弟姉妹なのです。主ご自身も聖餐について語られています。マルコによる福音書14章22-25節を開いて見ましょう。14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 14:23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 14:24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。14:25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」18節を見てみましょう。10:18 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。キリスト教の聖餐から話は一転してユダヤ教の催事についてパウロは語ります。「肉によるイスラエルの人々」とありますが、歴史上の民族としてのユダヤ人を指しています。「供え物を食べる人」とありますが、ユダヤ人の中には各種の祭りにおいて供え物を祭壇に捧げ、その一部をそこで食べていました。そのことによって祭壇と祭壇の神に結ばれると考えていたのです。

②偶像の背後には悪霊がいる

19,20節を見てみましょう。10:19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。「わたしは何を言おうとしているのか。」と今まで述べてきたことを振り返りつつ、話を進めます。後半に「偶像が何か意味を持つ」とあります。今まで、パウロは偶像を架空の存在だと述べてきました。しかし、だからといって偶像の背後に働くサタンとその手下である悪霊が存在しないわけではないのです。偶像を生きる神と信じさせるのは悪霊です。申命記32章17節を見てみましょう。32:17 彼らは神ならぬ悪霊に犠牲をささげ/新しく現れ、先祖も知らなかった/無縁の神々に犠牲をささげた。偶像は架空の神には過ぎませんが、その背後には悪霊がいることを忘れてはいけないのです。そのことをパウロは伝えているのです。悪霊は実に巧妙です。生きておられる真の神からキリスト者を引き離そうとします。常に、堕落させようとしているのです。悪霊の手に乗らないように気を付けなければならないのです。今日、キリスト者が祭壇に備えられた肉を食べるようなことはないと思いますが、偶像崇拝についてキリスト者として気を付けてなければならないことがあります。三つの例を上げたいと思います。先ず、ハロウィーンです。今日、日本でハロウィーンと言えば若者が渋谷に仮装して集まる場となっています。写真はホットドッグの仮装で、宗教的な意味は全くありませんが、もともとハロウィーンは、古代ケルト人の儀式「サウィン祭」という秋の収穫祭が起源と言われています。古代ケルト歴では、10月31日が1年の終わりの日とされていました。この日の夜にはあの世とこの世の境目がなくなり、死者の霊が現世の家族に会いに来ると信じられていたそうです。次が、雛祭りです。今日、雛祭りは3月3日に行われる幼い女子の健やかな成長を祈る節句の年中行事です。ひな祭りの由来には諸説があるものの、中国の五節句のうちの一つ、「上巳(じょうし、じょうみ)の節句」が日本に伝わったとされています。季節の節目となる節句の頃は邪気が入り込みやすいと言われていたため、上巳には厄や邪気を払うための行事が行われていたようです。元々は宗教的な意味合いがありましたが、今日はその目的はなく単なるお祭りです。最後はヨガです。ヨガは身体と心の健康を向上するエクササイズとして発展してきました。ヨガはストレッチの一種で、スポーツにも分類されていて、教会でもヨガ教室を開いているところもありますが、元々はヒンドゥー教です。ヒンドゥー教の聖典では、ヨガは自己と宇宙の一体化を追求するための修行として描かれています。今日、ハロウィーンにしても雛祭りにしてもヨガにしても宗教的な意味合いはありませんが、元々は異教の祭事だったということは覚えたいと思います。実際、このことを根拠にこれらのことに一切参加しないというキリスト者の方もいることも併せて覚えたいと思います。会堂のみ 私はこれらに起源を理解しつつ、ハロウィーンの仮装パーティーには参加しません。雛祭りに呼ばれることはないと思いますが、呼ばれれば参加をすると思いますし、健康増進のためヨガはしています。20,21節を見てみましょう。10:20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。10:21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。20節に「偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている」とあります。パウロは聖餐について述べてきました。そして、聖餐、キリストとの交わりと悪霊の交わりとは相容れないものであるのです。キリストとの交わりは聖餐によって実現され、悪霊との交わりは偶像に供え物を捧げることによって実現するのです。キリストと一体となり、主の恵み、聖餐の恵みに預かるものが、偶像に捧げられた物を食べるとしたら、その人は偶像と一体になるのです。偶像礼拝は悪霊と交わることに他ならないのです。これが、今日の箇所のパウロの視点です。21節に「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。」とりあります。主の盃を選ぶか悪魔の盃を選ぶか二者択一をパウロは迫ります。決して両者を選ぶことは出来ないのです。キリスト者が聖餐に預かりながら。偶像の供え物にも預かることなど許されるはずがないのです。18世紀に活躍したデンマークの彫刻家にベルテル・トルバルセン(Bertel Thorvaldsen、1770年11月19日 – 1844年3月24日)の代表作にキリスト像があります。この像が完成した後、ルーブル美術館からビーナス像を彫刻して欲しいとの依頼がありました。するとトルバルセンは「キリストの像を刻んだ手が、異教の女神像を刻むことなど決して出来るものではない」ときっぱりとオファーを断ったのです。さて、私たちはどうでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは偶像の背後には悪霊がいるということです。

③決して神を侮ってはならない

22節を見てみましょう。10:22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。「それとも」とありますので、主の盃を選ぶか悪魔の盃を選ぶか二者択一に加え別の選択肢があるのかとパウロは問うています。これまで、パウロは、「偶像に献げる供え物」という問題の重大性に気が付いていないことを想定し、事の大きさを説明してきました。しかし、彼らが事の重要性を知りつつ行っているとしたら、「主にねたみを起こさせる」ことになるのです。「主にねたみ」とあるように、主なる神には感情があります。出エジプト記34章14節を口語訳聖書で開いて見ましょう。34:14 あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。(口語訳)もし、人が真の神でないものに心を移すと、神はねたまれるのです。パウロはそれを承知でしながら偶像に供え物を捧げているか、そんなことをしたら恐ろしい罰があると言外に伝えているのです。最後に、「わたしたちは、主より強い者でしょうか。」とありますが。コリント教会には知識派と呼ばれ強い人を誇りとしている人がいました。パウロはそういった人たちの愚かさを皮肉っていっているのです。彼らの強さがどうであろうと、主なる神とは比較のしようがありません。今日、最後に覚えて頂きたいことは決して神を侮ってはならないということです。決して神を侮ってはならない

Today’s Takeaways

①偶像礼拝は避け続ける、②偶像の背後には悪霊がいる、③決して神を侮ってはならない

Thinking Time 

主と偶像との両方の盃を飲んでしませんか