聖書箇所:ルカによる福音書 2章222-39 説教題「シメオンの預言~救い主を求める心~」
今日は今年最後の主の日、先週の礼拝で主のご降誕、羊飼いたちに天使が現れたメッセージを聞きました。今朝はその箇所の後半から「シメオンの預言~救い主を求める心~」と題してお話しさせていただきます。今日の箇所ではシメオンという老預言者と、アンナという老女預言者が中心的な役割を演じています。私たちはこの朝、救い主に会うことを生きる目的として歩んできたこの二人から、救い主を求める心を学んでいきたいと思います。ユダヤ人として生まれた主イエスは、ユダヤ人の規定に従って、生後8日に割礼を受けられました。それは割礼によって神の契約の民であるユダヤの一員になったことをあらわすものでした。それと共に、み使いが告げたとおりにイエスと名づけられました。そして生後40日目に、両親はイエス様を連れてベスレヘムからエルサレムに上りました。それは23,24節にあるように神の律法に従って、初めて生まれる男子は皆、主のために聖別されるため、山鳩一つがいか、家鳩のひな二羽をいけにえとしてささげるためです。初子として生まれた幼子イエスを神に捧げる、贖いとして。もう一つはマリヤの出産の清めのためです。出エジプト記13章、民数記3章にあるように、イスラエルの民がエジプトを脱出するときに、エジプト人のすべての初子は殺されました。神の言葉に従わなかったパロはそれによりイスラエルの民が出ていくことを認めざる負えなかった。その時イスラエルの民の初子は殺されなかった。それが過ぎ越しです。そのことを記念し、イスラエルの民に初めて生まれた男子は神にささげなければならないということになっていた。捧げるといっても、人を殺すことはできませんから、銀5シェケルをささげる、また子供を産んだ母親の清めのために、山場と一つがいか、家鳩のひな二羽をささげるということになっていました。これは貧しい人に対する配慮で、富んでいる人は子羊一頭をささげるということになっていました。両親はそのためエルサレムに上り、そこで預言者シメオンに会いました。当時預言はなかったので、ここに至るまで、4世紀くらい過ぎていました。そのため多くのイスラエルの民は、選民イスラエルに与えられた神の約束はもう望めないのではないかと思っていました。神の約束をもう忘れていたのかもしれません。ほとんどの民はそのような弱った信仰になっていました。しかしそのような中にも、神の約束に立つ残れる民がいました。シメオンもその一人です。彼は神に対しても、人に対しても正しく、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいたとあります。救い主の到来によってイスラエルが慰められるということです。彼は旧約聖書の約束通り救い主が現れてイスラエルの民が慰められることを信じ待ち望んでいました。彼は救い主に会うまでは決して死ぬことはないという、聖霊の示しを受けていたのです。その信仰のごとく、イエス様に出会ったときに「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」と歌いました。私たちはこのシメオンの信仰から、救い主を待ち望む心を教えられます。救い主に会うまでは死ねない、今救い主に出会って、これで安らかに死ねると歌いました。シメオンにとっては救い主に会うことを人生最高の願いとして求めていました。このような求めの切なる人に対して、神はその願いをかなえてくださった。両親が救い主イエスを抱いて入ってきたとき、御霊に感じてとありますが、この幼子が自分の生涯を通して待ち望んだ救い主であることがわかりました。シメオンもまたそのあとに出てくるアンナも旧約に属する人でした。しかし彼らは幼子が救い主であることを知りました。そういう意味では真にまじめな旧約の人は、不真面目な新約の人より、より深く新約の恵みを知ると言えるのではないでしょうか。新約の時代に生きながら霊の目が曇っていて主の恵みがわからないならそれは非常に残念です。救い主の十字架の贖いの恵みを見ていないシメオンでさえ、幼子イエスの中に救い主を見ることのできたのです。聖書66巻を与えられているにもかかわらず、救い主がわからないのは残念です。自分も含めそのように思います。さらにシメオンは、神の救いはイスラエルのためだけでなく、万民のためであることを歌っています。ユダヤ人であるシメオンは、この救いはユダヤ人だけのものでなく、異邦人も含め万民の救いであることを歌っています。これはとても素晴らしいことです。ヨセフ、マリヤさえこのシメオンの歌った万民のための救いを知らなかった。それほどに違いが出てきている。この幼子がやがて人々から、この世からどのように扱われるか、マリヤ自身も剣で心を刺し貫かれると預言しています。人々がこの幼子を受け入れないということです。すなわちイエスによって、この方を信じるか信じないかで二分される。対立が起こるのです。それは人が神に背いているから。多くの人が神に心を中を暴かれます。自分の心がどんなに汚れているか、どんなに醜いかを暴かれます。それを告白し神と和解して、神の平安の中に歩むのです。シメオンは幼子の苦難を預言しましたが、その苦難は定められたものでした。主イエスの地上の生涯はまさに苦難の生涯でした。主もそのことを知っていた。定められたものとして受け入れていました。ある異端の集団は、イエスの十字架は失敗だった。本来十字架につけられるはずではなかったと教えますが、全くの誤りです。ここではもう一つのことが預言されています。喜びに満たされている母マリヤもイエスのゆえに、剣で心を刺し貫かれる。我が子が十字架につけられることを見るのです。それだけでなく、わが子が神の栄光に仕えるだけでなく、わが子が人々を二分することになるという苦しみにも、母として共に担うことを示されます。けれども神がそのような方法で御国建設をされるのであれば、どのような方法であれ、それは神の恵みです。苦しみに耐えることも祝福として語られました。そのように私たちはキリストを信じ、仕えるときに、嬉しいからだけでない、キリストのゆえに苦しみにあうことも光栄であり喜びなのです。キリストにある苦しみも祝福として受け止めるとき、キリストの命が自分のものとなる。パウロのように、「我にとりて生きるはキリスト」と告白できるのです。主イエスは、私はあなた方を友と呼ぶ、と言われました。友には何でも話す。苦しいことも感謝して受ける。キリストは私たちを真の友としてご自分の中にある深い思いを打ち明けてくださるのです。そのように主の心の深いところにある思いを知り、ともに苦しみを負うことにより、私たちはキリストの命に満たされるのです。キリストを信じれは嬉しいことばかり、苦しむのは嫌だというような信仰では天国に入るまで続かないのではないでしょうか。荒地にまかれた種のように目が出ても枯れてしまう。たくさんある宗教の一つとして浅くしか受け取れないのなら、天国まで続かない。そのあとに出てくるアンナも救い主の到来を待ち望んでいた。彼女も熱心に昼も夜も神に仕えていました。幼子イエスに出会ったとき、そのことをすべての人々に伝えました。私たちは今日の二人の老人を見るときに信仰者としての素晴らしさを見るのです。多くの人のように救い主を知らず、空虚な生活をして死を待つような老人ではありませんでした。み言葉により頼み、約束の救い主を待ち望み、これを自分の生きる目的とした。救い主に出会えば、私の命は終わってもよいと言っています。私たちはこの二人の前に立つときに恥じるしかないと思います。先ほども言ったように彼らは旧約の人で、キリストの救いを見ていないのです。救いの中身や内容を味わうことなく、彼らは信仰を抱いてこの世を去っていきました。私たちは彼らよりはるかに救い主の恵みを知り、聖書66巻を与えられ、そこに神の恵みを誤りないようにいただいている。この生ける主に語りかけること、会話することさえ許されている者たちです。聖書の中に、「あなた方は死人の中にイエスを探している」とありますが、そうではなく生きておられる主を、全能の神を求め、信頼をもって証し、苦しむことも喜びとして仕えていきたいと思います。