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2023年2月12日主日礼拝

説教題:信仰の手紙~行いで表された信仰~ 聖書箇所:ヤコブの手紙2章14-26節(新共同訳新約423-424p )

◆行いを欠く信仰は死んだもの2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

ハレルヤ! 2月の二主日を迎えています。私たちの教会では、ヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日は五回目となります。毎回のように話しておますが、ヤコブの手紙を理解する上でのキーワードはキリスト者の成熟です。著者は手紙の受取人がキリスト者として成熟をすることを祈り願いこと手紙を記したのです。前回は、2章1-13節を通し、「憐れみは裁きに打ち勝つ」題し三つ事を中心にお話をしました。①差別は罪、②一点でも罪は罪、③隣人を自分のように愛すでした。今日は続く2章14-26節から「行いで表された信仰」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

①行いとは信仰は表裏一体

今日の聖書箇所はこの手紙の主要部分で、著者が最も力説をしている点になります。一般的にこの箇所はPPTディアトリバー(非難演説)と呼ばれ論争的な文体が使われていて、仮想的反論者も描かれています。著者は本書全体を通して行為を強調していますが、それは信仰よりも行為の方が大事ということではありません。著者がこの手紙を書く動機として手紙の受取人の中には、行為について強調をしなければならない人達がいたということなのです。具体的には、お金持ちで知識もある正統的な信仰者にもかかわらず、愛において全く冷淡なキリスト者がいたのです。ですから、著者は信仰よりも行為が重要だと説いたのではなく、行為の伴はない彼らの信仰に対して勧告をおこなっているのです。成熟したキリスト者のあるべき姿から行為を論じたものなのです。14節から参りましょう。2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。「わたしの兄弟たち」とあります。著者はこの呼びかけを好んで用いています。3度目です。主題を改めたり特に重要な内容を知らせたりする場合に使っています。続いて、「自分は信仰を持っていると言う者がいても」とありますが、ちょうど口と頭のだけの信仰者で手足を使おうとしない人のことです。「行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」と行いが強調されていますが、著者は行いを信仰から切り離しているのではありませんし、信仰と競い合うものとしての行いではないのです。例えば、私たちは礼拝で献金を捧げます。献金という行為は救いを得るためのものでしょうか。そうではありません。信仰により救われた私たちの感謝の表れの行為です。感謝の捧げものであり、神への献身と服従を表すものでもあります。著者は行為を語ることによって信仰を語っているのです。行いと信仰は二者択一ではありません。行いとは信仰は表裏一体と言えます。今日、先ず覚えて頂きたいことは行いとは信仰は表裏一体ということです。ですからパウロ書簡(特にロマ書、ガラテヤ書)に記されている信仰義認と今日の聖書箇所とは全く違った義認思想に思われるかもしれませんが、決して矛盾するものではありません。この視点を失ってはならないのです。このことについての具体的な例が15,16節です。

②行いは信仰の質

2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。「着る物、食べ物」とあるように人間が生きるための基本的なものです。生活必需品です。この箇所は例え話なのか実際にあったことなのかはわかりませんが、少なくとも生活必需品にも欠乏していた人たちが手紙の受取人の中にいたことは間違いないと思います。経済的に苦しんでいる方が礼拝に来たり、あるいは日々の交わりの中にもそういう方がいたりしたことが前提です。そういった人たちに対して、いくらかの援助ができる方もいたのです。しかし彼らは具体的な行為は何一つせずに「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と口先で言うだけだったのです。「安心して行きなさい。」という言葉はユダヤ人が別れの際に使う言葉で、「平安があるように」のほぼ同じ意味です。17,18節を見てみましょう。2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。17節は15,16節で語られたことの結論です。信仰はそれだけでは死んだものです。」と厳しく断罪をします。「と言う人がいるかもしれません」とありますが、仮想的反論者のことです。「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」とありますが、著者は信仰と行いという分類ではではなく、行いのない信仰と行いを伴う信仰の対比です。ですから、仮想的反論者へ「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」と語るのです。行いの伴う信仰、信仰から生まれる行い、行いによって示される信仰を見せてあげなさいというのです。19,20節を見てみましょう。2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。「あなたは」も仮想的反論者です。『「神は唯一だ」と信じている。』とあります。信仰がなくキリスト教を教義としてよく知っている人がいます。信仰のない宗教学者がそのよい例です。聖書を学問として知識においてのみ理解します。これらの知識がいかに広く深くとも信仰を告白しない限りキリスト者ではありません。神の唯一性はユダヤ教においてもキリスト教でも根本的な教義であり信仰です。しかし、著者はおそらく皮肉の意味で『「神は唯一だ」と信じている。』と言っていると思われます。つまり、あなたが信じているものは実は真の信仰でなく知識的に理解をしているだけだと言わんばかりなのです。ですから、続いて「結構なことだ。」と述べ知識的に理解することへの皮肉を続けるのです。「悪霊どももそう信じて、おののいています。」とは悪霊ですら、神の唯一性を信じて恐れおののいているのに、あなたたちは真の信仰がなく悪霊にも劣ると暗に伝えているのです。20節に「ああ、愚かな者よ、」とありますが、仮想的反論者に厳しい口調で語ります。「役に立たない」とあります。実行すれば役に立つものを 役に立たない状態に眠らせていくほど無益なことはありません。信仰と行いの一方を眠らせ、他方の目を覚まさせていてもこれは真の信仰の在り方ではありません。先程、申し上げました通り信仰と行為は分離すべきものではなく表裏一体なのものなのです。著者はこれらのことを語りましたが、「愚かな者」つまり、このことがまだ理解が出来ない人のために次節以降で旧約聖書のアブラハムとラハブの信仰と行為の在り方を引用し証明を試みるのです。21,22節を見てみましょう。2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。2,221節は信仰の父と呼ばれるアブラハムの信仰の在り方です。アブラハムの人生において最大の試練は、最愛の子イサクを主のご命令によって完全に捧げる生贄として捧げることでした。このことは創世記の22章に記されていますので、後ほど読まれてください。「信仰がその行いと共に働き」とあります。信仰は神に対する内的な心の働きであり、行為は信仰から当然生まれる外的な働きで信仰と言えます。行為のない信仰、役に立たない信仰でありながら、真の信仰を持っているかのようにふるまう者を戒めているのです。「信仰が行いによって完成された」とありますが、これは、「信仰はその行いによって確認をされた」という意味です。アブラハムがイサクを捧げたという行為は、アブラハムの信仰がそのことによって確認されたことを意味します。神への信仰、絶対的な服従なくして、一人息子を犠牲にするという行為は生まれないのです。行いと信仰は表裏一体の関係ですが、行いは信仰の質ともいえるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは行いは信仰の質ということです。信仰義認と言いますが、未信者の方が救われるのは信仰のみです。しかし、一度、恵みによって救われた信仰者には行いが伴います。この手紙の著者はアブラハムの信仰をただ信じることだけでなく表に現れる信仰だと伝えているのです。信仰と行為について、榎本保朗先生は著書の新約聖書一日一章で次のように解説をしています。非常にわかりやすいので、そのまま引用します。「このごろのキリスト教会では、私などの信仰姿勢は敬虔派だ、神に祈ったりすることだけ懸命にしている行動のない者だと非難されているようである。私もその点については気を付けていかなければと思っている。聖書を学ぶことで精いっぱいで、そこから手も足も出ないというのではいけない。聖書の言葉は、何々しなさいというのだから、私たちに行為を求めているのです。そのため、神様私たちは何をすべきですか、そのために私に何かすることがありますかと祈って問い、実行するところに進むのが、ほんとうの生き方である。」

③信仰の手紙

23節を見てみましょう。2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とありますが、これは創世記15章6節からの引用で、ローマの信徒への手紙4章3節でも引用をされています。創世記 15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。ローマ4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」。24節を見てみましょう。2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。24節は信仰義認を否定いるわけではありません。たしかにこの箇所だけみればそのようにも解釈が出来ますが、著者が語る行為には常に信仰から生まれる行為を言っているのです。そもそもこの手紙はキリスト者宛に書かれています。しかし、手紙の受取人の中には、信仰から生まれる行為がない人、キリスト者としての愛の行為がないがこのいたのです。著者はアブラハムを引き合いに出して、「信仰だけによるのではありません。」と信仰から出る愛の行いをしなさいと語るのです。信仰義認を否定したものではないのです。25節を見てみましょう。2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。「同様に、娼婦ラハブも」とあります。著者はアブラハムを引き合いに出して、信仰から出る愛の行いを語りましたが、駄目押しのように娼婦ラハブの例を用いて信仰から出る行為を伝えます。娼婦ラハブについてはヨシュア記2,6章に記されています。後ほどお読みください。ラハブはエリコの町の遊女でした。本来は、滅ぼされるべきカナンの女だったのですが、イスラエルから遣わされたスパイを匿ったことよって救われたのです。敵国人をかばって逃がし同国人を売った行為ですが、ヘブライ人への手紙11章31節を開いてみましょう。11:31 信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。つまり、ラハブの行為とことはイスラエルと同様に真の神を信じていた信仰による行為だったのです。ラハブは信仰から出る行為によって救われ、そのことが神によって義とされたことを明らかにしているのです。26節を見てみましょう。2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。26節では魂と肉体を行いと信仰に例えて本段落を結論的に締めくくります。母体なる信仰があっても口先だけであって行いの伴はない信仰は無にともしく、死んだも同様なのです。このことを著者は繰り返し述べてきましたが、これらのことを記した動機を見逃がして、このことの意味を正しく理解できないのです。富裕層、知識層でありながら信仰から出る行為に及ばなかったキリスト者に反省と警告を発しているのです。この講解説教の初回で、マルティン・ルターはこの手紙を「藁の書簡」、「藁の手紙」と酷評し、新約聖書からこの書簡を削除しようとさえしたことをお話しましたが、聖書学者のバークレーはこのことについて次のように述べています。「ルターは実際にヤコブの手紙を容赦しない。しかし、私たちがいったんヤコブの手紙を学べば、ルターは一度だけ、健全な判断をそこなう主観的な偏見を許容してしまったのだという考え方をもつにいたるだろう。」この手紙が正典として聖書に残っていることは神のご意思に他ならないのです。ヤコブの手紙は行為義認を肯定した藁の手紙でもなく、行為義認を肯定した手紙でもありません。この手紙は信仰の手紙に他ならないなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは信仰の手紙ということです。

Today’s Take-away

①行いとは信仰は表裏一体、②行いは信仰の質、③信仰の手紙

Thinking Time 

祈りによって示されたことを行っていますか