説教題:キリストこそが我らの知恵 聖書箇所:ヤコブの手紙3章13-18節(新共同訳新約424-425p )
◆上からの知恵 3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。3:14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。3:15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。 3:16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
ハレルヤ! 3月の第一主日を迎えています。先週は美恵子牧師に御言葉を取り次いで頂きました。感謝します。私たちの教会では、ヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日はその7回目となります。毎回、お話をしていますが、この手紙を理解する上でのキーワードは「キリスト者の成熟」です。著者は成熟したキリスト者のあるべき姿を綴っています。1章で試練の中を勝ち抜く忍耐を備えた成熟したキリスト者の姿を記し、2章では信仰から出る行為を行う成熟したキリスト者を語り、前回の3章1-12節では舌を制御する成熟したキリスト者について三つのことを中心に学びました。①模範となる人の責任は重い、②言葉は凶器になりえる、③聖霊によりきよめて頂くでした。今日の箇所(3章13-18節)では成熟したキリスト者の知恵について描かれています。「キリストこそが我らの知恵」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。
①知恵がキリスト者を成熟させる
では、13節から順番に見てまいりましょう。3:13 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。「あなたがたの中」とありますが、この箇所は二通りに解釈が出来ます。先ずは、この手紙の受取人です。次が、受取人の内で、お金持ち、指導者、教師、あるいは教師になろうとしている人たちです。前後の文脈から判断すると後者の人々を指すのが妥当ではないかと私は思います。続いて、「知恵」とあります。「知恵」については、1章5節にも記されていました。確認をしてみましょう。1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。初回の講解説教でお話をしましたが、「知恵」とは広義で解釈をすれば判断力、分別、人生訓、処世術なども知恵に含まれるでしょう。しかし、この手紙で著者が語る知恵とは神から頂けるものなのです。求めてくるものに神が賜物として与えてくださる知恵なのです。著者はその知恵について「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。」と問うていますが、「だれか」とは特定の誰かを指しているのではなく「だれが、知恵があり分別があるのか。」という意味です。そして、そのような人がいるのであれば、「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。」と語るのです。上からの知恵が与えられているかどうかの判断はその人の生き方によって示されるものなのです。主イエスはルカによる福音書で次のように語られました。ルカ 6:43 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 6:44a木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。ですから、13節の真意は、今、あなたがたには知恵がないので「柔和な行い」や「立派な生き方」が出来ていない。しかし、神からの知恵を頂いて成熟したキリスト者となり、「柔和な行い」や「立派な生き方」が出来るようになってほしという著者の願いです。この「柔和」という言葉は成熟したキリスト者の性質を表す言葉で、神から知恵を頂いたキリスト者の顕著な印です。辞書によれば「柔和」とは「性質や態度などがやさしくて、おとなしいこと。おだやかに落ち着いていてものやわらかなこと。また、そのさま。」ですが、聖書において柔和とはどういう場面で用いられているでしょうか。マタイによる福音書5章5節と11章28,29節を開いてみましょう。 5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。このように聖書の中から柔和という言葉を見ますと、柔和なものは祝福を受け、主イエスご自身も柔和なお方であることがわかります。実はこの柔和と訳されている原語のギリシャ語は家畜にも使うことが出来ます。たとえば主人に良く飼い慣らされて羊を追う牧羊犬や主人の命令通りに動く馬の性質を表す場合にも使われるのです。このことからも私たちは主イエスに従順であるべきことがわかります。柔和とは特に人を導く指導者、教師や教師を目指す人に求まられるものなのです。成熟したキリスト者が結ぶ実の一つです。今日、先ず覚えて頂きたいことは知恵がキリスト者を成熟させるということです。
14節を見てみましょう。3:14 しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。「ねたみ、利己的」とありますが、いずれも柔和の反対です。「ねたみ」とは自分と他者とを比較するところから生じます。所有ししている物の比較です。それが能力であろうが、物質的なものであろうが、社会的なものであろうが、自分の方が劣っているとの思いから生じるのです。しかし、神の前にあって他者と比較する必要がないという知恵があれば「ねたみ」など起こるはずがないのです。「利己的」とありますが、この原語(ギリシャ語)は、フィリピの信徒への手紙2章3節でも使われています。 2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、虚栄心などから自分を高めて他者を低める思いを聖書は戒めています。自分のためにキリストが十字架に掛かってくださった。同時にその十字架が他者のためのものだということを忘れてしまうと利己的になってしまうのです。他者は競争する相手ではなく主にあって愛し合う関係なのです。この知恵が欠けてしまうと「利己的」になってしまうのです。14節を口語訳聖書でも見てみましょう。3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。(口語訳)口語訳聖書では利己的の部分が党派心と訳されています。この手紙の受取人の中には利己的な思いにかられ、党派心的な行動をしていた人がいたように思われます。昔からどんな社会にも派閥のようなものがあります。三人いれば派閥が出来るといいますが、以前、私が働いていた会社でもありました。その会社に入社して間もないある昼休みのことです。私とボス的な存在の三名の女性社員で雑談をしていたことがあります。そのうち一人の方が先に職場に戻ると、残っていた二人の女性は先に戻った女性のことをぼろくそに言い始めました。派閥のようなものがあることは聞いていましたが。驚きでした。派閥の問題は古くから教会でもあります。コリントの信徒への手紙二12章20節を読まれてください。コリントの教会でも「ねたみ、党派心」の問題があったことが記されています。
②キリストこそが私たちの知恵
15節を見てみましょう。3:15 そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。「そのような知恵」とあります。「上から」、つまり神から頂いた知恵ではなく、「地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」と非難します。このよう知恵は神が喜ばれる知恵ではなく悪魔がほくそ笑む知恵なのです。使徒パウロは知恵について次のように述べています。コリントの信徒への手紙一1章30節を開いてみましょう。同段落PPT1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。キリストこそ私たちの知恵であり、キリストを救い主と信じたキリスト者には真の知恵が与えられるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリストこそが私たちの知恵ということです。16節を見てみましょう。3:16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。「ねたみ、利己心」とあります。 14節では「利己的」と訳されていましたが、原語ではどちらも同じです。その結果として「混乱やあらゆる悪い行いがある」のです。自己の優越を誇り、自己の利益のために党派を組んだり、政治的に利用したりしようとするとこのようなことが起こるのです。分派とは間違った知恵が引き起こしたものなのです。この教師を目指す人たちの中にはこのような行為が行われていたことがわかります。利己的な思いが分派に繋がるものなのです。17節を見てみましょう。3:17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。「上から出た知恵」、神から頂ける知恵についての8つの特質が記されています。順番に見てみましょう。「純真」とあります。原語の元々の意味は「神の前に出るのに十分に清い」です。また、「何よりもまず、」と前置きがありますが、「純真」はキリストの血の注ぎゆえに全うされた業だからです。ヘブライ人への手紙10章を読まれるとそのことがよくわかります。古代ギリシャにおける三大悲劇詩人の1人であるエウリピデスは作品の中で「わが手は清い、されどわが心をはさにあらず」と語りました。私たちはどうでしょうか。私たちの心は清い状態でしょうか。御前に出るのに十分な清さがあるでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。次は「温和」です。この原語は一般的には平和、平安と訳されています。ですから、口語訳と新改訳聖書では平和と訳されています。この言葉が人間に関して用いられる場合の基本的な意味は「人間と人間、人間の神との正しい関係」という意味で、私たちを神に近づけ、人間同士をお互いに近づけるものなのです。ですから、愛なくしてけっして真の平和は達成されないものなのです。三番目が「優しく」です。原語では寛容です。古代ギリシャの哲学者のアリストテレス はこの言葉を「成文法以上のもの」、「正義であり、正義以上のもの」と定義をしました。法律を厳密に適用した上で、手心をいかに加えるかです。日本で言えば江戸中期の名奉行といわれた大岡越前の大岡裁きが相当するのではないでしょうか。四番目が「従順」ですが、傾向しやすいとか弱いというネガティブな意味ではありません。理性の訴えに喜んで傾聴する。喜んで説得され賢明に応じる時を知っているという意味です。この「純真、温和、優しく、従順」という四つの特質は人との交わりの中で捉えることが出来るものですが、イエス・キリストが父なる神への疑いのない態度に見られる特質でもあります。5,6番目は「憐れみと良い実」です。新共同訳ではこの二つが一括りとされています。その意味することは、たとえ自分の過失からでもあっても苦しみ悩んでいる人がいたら、その人たちに対して同情深く、実際的な手を差し伸べるということです。七番目の「偏見はなく」は言語のもともとの意味は分裂していないことで、えこひいきがないこと、他人を差別しないことです。最後は「偽善的でもありません」です。「上から出た知恵」はみせかけのポーズや演技をすることではありません。自分の目的を達成するためにごまかしをするための知恵ではいのです。「憐れみと良い実、偏見はなく、偽善的でもありません」の四つの特質は特に人間関係中で表されるものです。真摯に人と関わりながら課題を担い合いながら共に生きるために求められる事柄です。私は偽善という言葉を聞くとあるキリスト者の話を思い出さずにいられません。仮にAさんとします。Aさんは通信機器の部品を作っている会社の社長でした。真面目に働き続けていましたが、景気が悪くなりAさんの会社の経営は非常に厳しいものでした。そんなときに主要取引先から大きな注文が入りAさん大喜びしました。しかし、その部品が戦争で使われる無線機の部品とわかり、Aさんは悩みました。会社の危機を乗り越えるため、愛する家族を路頭に迷わせないためにその注文は喉から手が出るほど欲しいものでした。祈りの中で、Aさんは戦争に使われることを知りながら部品を提供するのはキリスト者として偽善ではないかと示され、この注文を丁重にお断りしました。すると取引先の担当者は「何もAさんが戦争をするのではないのだから、そんなに気にすることはないんじゃないか。お宅の経営が苦しいと知っているから、お宅に注文をしたのに恩を仇で返すか。」と言われたのですが、Aさんの決意は変わりませんでした。このことがきっかけで、Aさんの会社は廃業に追い込まれたのですが、平和の神、正義の神はAさんに薬剤師という別の道を与えてくださったのです。
③義の実を世界に蒔く
18節を見てみましょう。3:18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。「義の実」とありますが、ガラテヤの信徒への手紙に記された御霊の実を思い起こす方がいると思います。開いてみましょう。 5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。実の内容についての類似性は多くありますが、厳密な意味での違いはヤコブ書の実は神からの知恵として与えられ、ガラテヤ書の実は霊、聖霊によって結ぶ身なのです。「平和を実現する人たち」とあります。先程もお話をしましたが、「平和」の基本的な意味は「人間と人間、人間と神との正しい関係」という意味です。世的な知恵は世的結果をもたらし、霊的知恵は霊的な結果をもたらすのです。人間のもたらす結果と神のもたらす結果とでは、比較になりません。実は生命の生産物であり、さらに良い豊かな刈入れの種なのです。平和、神との正しい関係を保ちつつ、神から知恵を頂く。その知恵を頂いたキリスト者を通して、義の実が世界にまかれるのです。このことはこの手紙の受取人のみならず、全て教会、キリスト者こそが、心に銘記し、その働きをしなければなければならないのです。神は罪なき御子をこの世に送って下さいました。私たちに罪に赦しをあたえ、平和、つまり神との正常な関係を与えてくださいました。この喜びに生きるものは、平和の拡大のために仕えなくてはならないのです。成熟した義の実を世界に蒔くことによってキリストを述べ伝えるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは義の実を世界に蒔くということです。
Today’s Take-away
①知恵がキリスト者を成熟させる、②キリストこそが私たちの知恵、③義の実を世界に蒔く
Thinking Time 偽善、みせかけのポーズや演技をしていませんか。