説教題:神の家族としての教会 聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章11-13節,17-22節
◆キリストにおいて一つとなる 2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
①教会とは
教会とは建物ではない。建物は教会堂。教会とは建物ではなく、イエス・キリストを信じる者たちの集まり。ギリシャ語ではエクレシア。教会とは天にある教会と地上の教会がある。天にある教会とは、目に見えない、たった一つの教会。この教会にはずっと前に亡くなったすべての信者がいる。アブラハム、モーセ、エレミヤ、ヨハネ、ペテロ、パウロも含まれる。また私たちのこの地上の教会で、共に礼拝を捧げていた多くの方々で、既に亡くなった方々もおられる。それに対して、目に見える地上の教会、世界のいたるところにあるすべてのキリスト教会。これが第二の教会です。今朝はこの第二の教会のことについて、聖書はなんといっているかみていきたい。19節、聖なる民、神の国、天国に国籍を持つ者が集まっているところが、教会。神の国に国籍のあるものが集まっているところが教会。私たちは日本国民です。私たちは命の危険に合う時に、警察に守ってもらえるという権利がある。生活保障も、国民としていただける。同じように、キリストを信じ神の民となっている者は、神の国の民としての特権を与えられている。神の恵み、特権とはどんなものか。それがなくなった時のことを考えるとよくわかると思う。例えば、生きる力がなくなってしまった時、罪の責めに悩む時、孤独でさみしいとき。このような時、キリストを信じ神の民となった者は、神に助けを呼び求めることにより乗り越えていく力、恵、特権が与えられている。しかし、クリスチャンだけが、このような神の恵みがあり、クリスチャンでない方には、そのような恵みが与えられていないなら、それは不公平ではないでしょうか。マタイの福音者には、神はどのようなものにも等しく恵みを与えられると書いてあるが、これはどう言うことか。これはこのように考えるべきだと思う。神は神の民にもそうでないものにも、愛と恵みを注ぎ、等しい恵みを与えてくださるが、しかし恵みを注ぎたくても注げない場合がある。神様が何度も何度も、私のところに帰ってきなさいと呼びかけていてくださる。自分の力ではできない問題の中で苦しんでいる人々に呼び掛けています。信仰を通してしかいただけない恵みがあるのです。以前、佐原教会で奉仕していた時、ある男性が来ました。彼は三年前に離婚して、三度監獄に入った。住むところもなくお金もないので、今日食べる分をくださいと言うことでした。なぜ働かないのですかと尋ねると。住所がないので雇ってもらえないとのことでした。つらいだろうなと思いましたが、まずお父さんのところに行き力を借りると良いですよと言って、その分の電車賃を渡しました。住所がはっきりしないものには役所も力を貸さないのですね。同じ日本人であっても、その特権を受けられないのですね。それと同じように、神の恵みと特権をいただくためには、まず神の民になること。確実に神の国籍をいただく事です。
②教会は神の家族
19節に、神の家族であるとあります。家族とは同じ血で結ばれたもの、家族とは外面的な結びつきよりもさらに深い内面的な結びつきを持つものです。お互いを兄弟姉妹と呼ぶ。唯一の神を父とする神の家族です。家族が血によって結ばれているように、教会の家族は、キリストの血によって結び合わされた家族です。悲しむ者と共に悲しみ、喜ぶ者とともに喜ぶ、裁くのでなく、互いにいたわり、重荷を負い合うことです。約60年前、上落合で信仰を持った時の友人と今も交わりが続いている。信仰の家族にはいろいろ深い相談も出来た。信仰の家族は肉の家族以上のものである。教会は神のホームですから、そのような信仰の友を作ることです。
③教会は神の住まい
21節から キリストにあってこの建物全体が組み合わされて、霊の働きによって神の住まいとなるとあります。神の住まいとは神が住まわれるところ。昔ユダヤでは神殿が神の住まいと考えられていました。今、クリスチャン一人一人が神の住まい。教会の土台は使徒と預言者。キリストご自身が教会の土台。教会をたてる材料が私たちクリスチャン一人一人。ある方は柱、牧師や役員方、しかしそれ以外のものも、床、窓、天上、屋根、、、一つの家が出来上がるためには小さな部分一つでも抜けたら出来上がらない。一枚の瓦が抜けても大変です。小さな窓が壊れても大変です。一つの部分がなかったら家が壊れてしまう。このように私たち一人一人がかけたら大変。自分が神の家を建て上げている部分であることを自覚しよう。教会の欠けを補う部分であることを考えることが大切。聖なる宮に成長し、とあるように。未完成、問題もある、ふさわしくないところも多々ある。しかし完成を目指して進もうとあります。最後に私たちの住まいは、聖霊の宿るところです。信じる者の集まりの中に、一人で祈るよりも大勢で祈るところに、更に聖霊が豊かに注がれることを思う。礼拝とは、神が特別に豊かな臨在を表し神の恵みを注がれるところであることを自覚しよう。神がここにいてくださるところであり、神が私たちを招いてくださっているところ。復活の主が待っていてくださる、聖霊を通して神と交わる。イエスのお顔が自分の心にしっかり映るように、祈りをもって神に近づく。これが礼拝。神が私たちと合って恵みと祝福を与えて下さる、神が待っておられるところです。ですから礼拝では生ける主が待っていて恵みを注がれ。そのことを信じていく。礼拝で神と交わり、お互いに交わるところ、やがて永遠の交わりに移されるところ。また神の家族としてキリストの血によって結ばれた、切り離せない関係にあり、聖霊を通して神が臨在されるところ。まずキリストを自分の罪からの救い主として信じること。自分たちに与えられている特権を知り礼拝を捧げ、互いに交わり、神の教会を建て上げていく。教会の破れは何かを考え、自分に何ができるか考えることです。