説教題 目を開けて~主がともにおられる~ 聖書箇所 ルカによる福音書24章13節-31節
◆エマオで現れる24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、24:14 この一切の出来事について話し合っていた。24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
ハレルヤ!イースターおめでとうございます。復活された尊き主イエスキリストの御名を賛美致します。私は未信者時代、イースターのことを春の訪れ告げる西洋お祭りと思っていましたが、イースターはただのお祭りではありません。主イエスがしたという事実を記念し褒めたためのものです。復活は十字架と同様に強調しても強調しきれないほど大事です。復活がなく主イエスが十字架に掛かられて死んだままでは、キリスト教は存在していません。使徒パウロは復活について次のように述べています。コリントへの信徒への手紙一15章14節を見てみましょう。 15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。病が癒されるための集会を盛んに行っている群れや再臨待望を強調している群れがあります。癒しの集会に参加した未信者の方が癒されて信仰を持つことがありますので、これはこれで良いことです。私たちの群れでも新生、聖化、再臨、神癒を四重の福音のとして掲げています。覚えて頂きたいことは病の癒しや再臨を強調するのであれば、その背後にある復活の御業も強調すべきなのです。復活がなければ神癒や再臨もあり得ないのです。聖書キリスト教は主のご復活によって成り立っているのです。旧約の時代には安息日である土曜日に礼拝がおこなわれていましたが、主の復活以降の多くの教会では、復活を記念して「週の初めの日」つまり日曜日に礼拝を行うようになりました。使徒言行録20章7節に記されていますので、確認をしてみましょう。 20:7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。今朝は、ルカによる福音書24章13節-31節から「目を開けて~主がともにおられる~」と題してお話をしたいと思いますが、目とは霊の目、信仰の目とも言えます。信仰生活は山あり谷ありです。信仰生活のベテランでも時には信仰の目が曇ってしまう場合があるのではないでしょうか。そんな時に思い起こすべき三つのことを学んで参りましょう。
①主が共に歩んでおられる
13,14節を見てみましょう。24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。「二人の弟子」とありますが、このことについては18節で説明をします。続いて、「エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 24:14 この一切の出来事について話し合っていた。」とあります。この二人の弟子は道々、この日の朝に起こった不思議な出来事を話し合いながら、エマオという村に向かって歩いていました。二人は、主イエスが十字架にかけられたエルサレムから60スタディオン(約11キロ)ほど離れたエマオに向かって歩いていました。主イエスについて熱心に話し合っていたと思いますが、この前に何が起こっていたでしょうか。二人が救い主だと信じて従ってきた主イエスが、エルサレムで十字架にかけられて殺されてしまったのです。1週間前の日曜日には、エルサレム中が喜んで主イエスのおいでを歓迎したというのに。その5日後の金曜日には、主イエスが十字架にかけられてしまった。しかも、追い打ちをかけるように、それから3日目の今日、主イエスを葬ったお墓が空になっている、というニュースが入ってきました。15,16節を見てみましょう。24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 二人が歩きながら、今日までの出来事を話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、主が近づいてこられました。復活された主が近づいてこられ、彼らと共に道を歩いておられていたのです。しかし、この時まだ彼らには、そのいっしょに歩いている人が主イエスだとは分からなかったのです。「二人の目は遮られてい」たからです。私たちが、この地上の歩みを続けている中で、時には、この二人の弟子のように失望し、重い足取りで歩かなければならない時があります。生活のこと、信仰のこと、人間関係、将来、家族のこと、色々なことで悩みながら歩んでいると思います。15節にあるように「話し合ったり、論じ合ったりして」も、事態は一向に解決せず、光が見えてこないように思えてしまう時もあると思います。しかし、復活した勝利のイエスは、今も生きておられます。私たちの置かれている厳しい現実を知って見ておられ、その中心にいてくださり、私たちの歩いている道に同行していてくださっていのです。主イエスが私たちの近くに寄り添い、いっしょに歩いてくださっているのです。 復活した勝利のイエスが私たちと共にいてくださる。これは大きな慰めであります。たとえ、私たちがそれを実感できなくても、主は確かにそばにいてくださる。私たちの人生の同伴者として、常に傍らにいて共に歩んでいてくださるのです。信仰の目が曇ってしまったら、先ずこのことを思い起こそうではありませんか。今日、先ず覚えて頂きたいことは主が共に歩んでおられるということです。
②主が聖書を教えてくださる
17,18節を見て見ましょう。イエス様は見知らぬ旅人として、二人の弟子の話に入ってこられたのです。24:17『イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。』24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」「二人は暗い顔をして」とあります。 わずか1週間の間に、めまぐるしく展開した一連の出来事を、彼らはどう理解してよいか分かりませんでした。それどころか、今度は自分たちまで捕まるかもしれないと思ったことでしょう。望みも消え失せた今、どうしてこれ以上エルサレムにとどまることができるでしょうか。彼らは、エルサレムから逃げ出すようにして、エマオへの道を歩いていたものと思われます。「その一人のクレオパ」とありますので、一人の弟子の名前がクレオパだということがわかります。断定することは出来ませんが、もう一人の弟子はクロパの妻のマリアの可能性がありますヨハネによる福音書19章25節を見てみましょう。 19:25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。。クレオパはクレオパトロスの短縮形ですが、クロパも同様です。クレオパは24:18「この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と見知らぬ旅人に尋ねたのです。続く19-24節を見てみましょう。主イエスとクレオパたちとの会話です。24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。4:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」主エスの「どんなことですか」の問いに対して、二人の弟子は十字架から復活に至る一連の出来事を主に伝えたのです。25-27節はその応答です。24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。ここに主イエスが語られた説教を見ることが出来ます。主イエスご自身が、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていること」を説明してくださったのです。主は、十字架にかかって死ななければならなかった理由を教えてくださり、そして、聖書の預言どおりに、3日目によみがえられたことを解き明かされたのでした。このことは今日の私たちにも当てはまります。復活され生きておられる主イエスが、私たちにも聖書のみことばを通してご自身を表し、聖書を教えてくださるのです。信仰生活とは聖書を信じることから始まります。御言葉を信じて実行をすることです。私たちはどうでしょうか。復活の知らせを聞いても、それを疑った弟子たちと同じようにしていませんか。御言葉を信じ真実として受け取ろうとしないところに私たちの問題があるのです。主イエスに祈り聞きましょう。主が聖書を解き明かしてくださり、進むべき道を示してくださるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主が聖書を教えてくださるということです。
③主が食卓の中心におられる
28,29節を見てみましょう。24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。「一緒にお泊まりください」とあります。その日の夕刻、一行はエマオの村に近づきました。主はまだ先へ行きそうな様子でしたが、二人の弟子は、この見知らぬ旅人を引き留めました。主イエスの聖書の解き明かしを聞き心が変わったのです。もっとこの方が語られる事を聞きたいと思っていたことでしょう。主イエスが語られた説教は実に良い説教でした。説教のスタイルには聖句説教、講解説教、主題説教、演繹型、帰納型などのスタイルがありますが、良い説教とはスタイルや聖書のついての知識をただ提供するものではありません。説教を聞いた人の行動が変わるものです。行動変容が伴うものです。主は、心がかわった二人の弟子の「一緒にお泊まりください」という申し出に応え家に入られたのです。30,31節を見てみましょう。24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。「一緒に食事の席に着いたとき」とありますので、このパン裂き、聖餐ではなく夕食です。「二人の目が開け、イエスだと分かった」とあります。パンをとって祝福し、そのパンを下さった方が主であることが分かりました。彼らの目が開かれたのです。この時に彼らの目が開かれた理由については聖書には記されていませんが、一つの学説をご紹介したいと思います。「おそらくこの二人は、五千人の給食の場に居合わせており、かれらの家で主がパンを裂くのを見たとき、とっさにそれが主の手であることに気づいたのであろう」と。聖書学者のウイリアム・バークレーなどがこの説を唱えています。食卓を囲むということは単に食事を一緒にすることではありません。食事を通してコミュニケーションを図ることです。食事はコミュニケーションを図る絶好の場なのです。私事ですが、我が家の夕食は母と妻と私の三人で必ず食べることにしています。巡回伝道者として活躍されている中野雄一郎先生の名言に「10杯のコーヒよりも一回の食事」があります。ゆっくり食事をすることで心が打ち解け福音が伝えやすくなるのです。食事をしながらの会話、コミニュ二ケーションを図ることにより、主イエスが分かるようになるのです。キリスト者が主とともにいるのは聖餐式のときだけではありません。家族や友人と食卓を囲むときにもその真ん中に主がおられるのです。最後に「その姿は見えなくなった。」とあります。主は、信仰の目が開かれた二人の弟子を確認されたので去られたのです。私たちの信仰生活は山あり谷ありです。晴れの日ばかりではありません。雨の日、雪の日、台風の日もあるでしょう。時に霊的な目、信仰の目が曇ってしまうことがあるでしょう。けれども、復活された主なるイエスがどんな時も共にいてくださるのです。道を歩いている時も、食事の時も、嬉しい時も悲しい時も共にいてくださるのです。そして、主ご自身が聖書を教えてくださるのです。霊的な目、信仰の目が曇ってしまうことはあると思います。そんなときにはこれらのことを思い起こして、目を開らいて歩んで参りましょう。
Today’s Take-away ①主が共に歩んでおられる、②主が聖書を教えてくださる、③主が食卓の中心におられる
Thinking Time 主とのコミュニケーション不足はありませんか、どうしますか