説教題:宮きよめ 聖書箇所:ヨハネによる福音書2章13-25節
◆神殿から商人を追い出す 2:13 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 ◆イエスは人間の心を知っておられる 2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
前回、6月にはヨハネ2章1-12節を通し、「最初のしるし」と題して四つのことを中心にお話をしました。①人情に流されないで神に従う ②あきらめないで求め続けよう ③イエス様の言われたとおりにする ④御霊によって歩もうでした。
①霊と真をもって真心から礼拝を捧げよう
イエス様は、カナで水を葡萄酒に変える最初のしるしを行い、カファルナウムに滞在してから、過ぎ越し祭が近づいてので、一行はエルサレムに上りました。過ぎ越し祭とは、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が、そこを脱出するとき(BC1400年頃、BC1200年頃と2つの説ありますが、今から大体3500年位前)に、神がモーセに語られた通り、エジプト全土の初子が殺されましたが、玄関に子羊の血を塗ったイスラエル人の家は、神の裁きが過ぎ越されました。そのことを記念するお祭りです。ユダヤ人の祭りの中で最も重要なもので、ニサンの月の14日の夕方に守られ、それから「種を入れないパンの祭り」が一週間行われました。だいたい3月下旬~4月中旬頃です。エルサレム近郊の成人男性は出席義務があり、世界中に散ったユダヤ人も一度はこの祭りに参加することが夢であったようで、多くの人が「聖都」エルサレムに集まりました。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は、宮きよめの記事を公生涯の終わり、十字架にかかられる直前に書いていますが、ヨハネは、公生涯のはじめに書いています。このことに関して、宮きよめが二度あったという解釈と、実際は十字架の前の出来事であろうが、ヨハネは、時系列に従ってではなく、真理をわかりやすく伝えるために、つまりイエス様が宮きよめをされたことは、約束された神のメシヤであることを示すために、あえて公生涯のはじめに書いたのであろうと言われています。2:14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 当時は、神殿で動物を捧げ、神様を礼拝していました。 神殿は、異邦人の中庭、婦人の中庭、イスラエル人の中庭、ここにはありませんが祭司の中庭と区別されていて、そこまでしか入れません。そして一番奥に聖所、至聖所があり、隔ての幕で仕切られており、至聖所には大祭司しか入れませんでした。神殿に入ってすぐの異邦人の中庭でこの商売がなされていたので、動物の鳴き声がうるさくて異邦人たちは静かに礼拝を捧げることもできませんでした。更に神殿の外で買うよりはるかに高い値段で動物が売られており、神殿の外で買った動物を連れてきても、傷がないか念入りにチェックされ、ほとんどは規格から外れたものとされ、この場で買いなおしさせられていたようです。また20歳以上のユダヤ人男性は貧富の別なく、神殿税として1/2シケルを払う義務があり、別の国から来た人は通貨が違うので、ここでかなりの手数料を取られて両替していました。これらの商売人たちは神殿に仕える祭司たちと結託していて、それぞれに私腹を肥やしていたようです。これは明らかに不当なやり方でした。神を礼拝する神殿で金儲けがなされていたのです。当時の礼拝は形式的になり下がり、霊的状態は堕落していました。2:15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 2:16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」これに対してイエス様は激怒され、動物達を境内から追い出し、台をひっくり返して両替人の金をまき散らしました。これは大事件だったでしょう。今までのやり方や、当時の宗教指導者たちに反旗を翻すことです。大勢の人や動物でにぎわっていたこの場に、一体何事かと緊張が走ったことでしょう。イエス様のこの行動に対して二つの反応がありました。2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 これは、詩編69:10のみ言葉で、メシヤに対するものと理解されていました。弟子たちはこのみ言葉を思い出し、イエス様の御父を愛し、神殿を思う情熱こそ、このお方は、まさしくメシヤに違いないという確信を強くしました。もう一方の反応は 2:18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。ユダヤ人たちとは宗教指導者たちです。いつも通りに動物が売られ、両替されていたのが、突然妨害されたのですから、彼らの反応は当然のことでした。「それだけの権威と確信をもってするのなら、あなたはメシヤなのか、もしそうならしるしを見せろ」と詰め寄ったのです。メシヤが来るときは大きなしるしを行うと、当時の人々は思っていたのでこのように詰め寄ったのです。マルコによる福音書11章ではもっと強烈な反応が書かれています。◆神殿から商人を追い出す 11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」 11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。イエス様のこの行動が、宗教指導者たちの怒りを買う一つの要因になり、イエス様を殺そうと企てていくのです。それに対して19節でイエス様は驚くようなことを言われました。2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 2:22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 実際この神殿はBC20年頃、ヘロデ大王によって開始され、それから46年たったこの時も未完成でした。ちなみに完成はAD64年です。なんと84年もかかったのです。イエス様が三日で立て直してみせると言ったのは、十字架で殺され、三日目に復活すると言う、ご自分の体である神殿のことを言われたのですが、到底ユダヤ人たちも弟子たちも理解できません。しかし弟子たちは、主が死者の中から復活されたときにこの言葉を思い出し、聖書とイエス様の言葉とを信じることができたのです。私たちもすぐには理解できないみ言葉があると思いますが、聖霊様がやがてそのみ言葉の真理を理解し、人生の糧となるように導いてくださるので、日々のディボーション(聖書を読み、祈り、霊の糧をいただくこと)を大切にしていきましょう。さて、イエス様はなぜこのような過激とも思えるようなことをされたのでしょうか。16節で私の父の家を商売の家としてはならない。と言われました。神様に礼拝を捧げる神聖な場所である神殿の中で、金儲けがされていたことを激しく怒りやめさせようとしたのでしょうか。もちろんそのことへの怒りもあったでしょうが、イエス様の本当の思いは、もっと深いものでした。ヘロデ王様がお金と時間をかけて造ろうとしていた神殿は絢爛豪華なものです。しかしその中で行われている礼拝は、どんなに大金を払って傷のない立派な犠牲の動物を捧げるようにしても真心の伴わない形骸化した儀式でした。それは神様の求める礼拝ではない、人間の自己満足にすぎないような霊的にとても貧しいものとなっていました。そのことは旧約の預言者たちが心を痛めて警告してきたことです。サムエル記上 15:22 サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。詩編51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。 51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。神様は何よりも私たちの心をご覧になるお方です。立派な捧げものより、砕かれた心をもって遜り神を求め、み前に出ていき、聴き従うことを求めておられるのです。イエス様はこの堕落した神殿礼拝を止めて、御父の求める新しい礼拝に変えていくために宮きよめをされたのです。実際に、その後、ユダヤ人とローマ帝国の間に起ったユダヤ戦争により、AD70年エルサレムは陥落し、聖地であるエルサレム神殿も破壊されました。中世の時代にも、金もうけに走り腐敗していった教会に対して反旗を翻した人物がいます。誰ででょうか。そうです。マルチン・ルターです。教皇レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂の改築資金獲得のため、ドイツ(神聖ローマ帝国)で免罪符の販売を許可しました。免罪符とは、購入することで罪が赦され、天国に行けると言うお札のことです。これに対しルターは、1517年10月31日、95か条の反駁文を掲げ、教皇に反抗しました。教皇は怒り彼を異端とみなして破門します。しかしルターは神に信頼し命を狙われる迫害や困難と闘いつつ前進し、宗教改革の思想はやがて全ドイツ、全ヨーロッパに及んでいきました。その思想はプロテスタントの三原理に要約されています。魂の救いはお金で買えるものではない、信仰のみ(信仰義認)。よって立つところは、聖書のみ。聖職者の絶対的な権威を非難し、すべてのキリスト者は祭司であると言う万人祭司です。そして今、私たちもこのプロテスタントの信仰をいただいています。人間はいつの間にか慣れてきて自分に都合の良い解釈をして、少しずつ神の御心から、ずれていってしまいやすい弱さがあります。遜って聖書に聞き従っていきましょう。神様は捧げもの以上に、私たちの真心からの礼拝を求めておられます。形式的な礼拝でなく、霊と真をもって真心からの礼拝を捧げましょう。今日の一番最初のポイントは霊と真をもって真心から礼拝を捧げるということです。
②私たちは聖霊の宮、神の神殿
イエス様がこのような過激とも思える行動をとって宮きよめをされたのは、エルサレム神殿で動物を捧げる、今までずっと行われてきた礼拝のやり方を廃棄し、新しい礼拝に変えるためでした。それはエルサレム神殿に行って、犠牲の動物を捧げることによる礼拝ではなく、世界中どこにいても直接神様と交わり、捧げることのできる礼拝です。それはイエス様が、真の過ぎ越しの子羊、世の罪を取り除く神の子羊となってご自身を捧げ、十字架で殺され、三日目に復活し、ご自分の体である、新しい霊の神殿を建ててくださったからです。それは人が直接神様に近づくため、そして御霊が宿っているキリスト者の交わりである教会を建て上げるためです。イエス様が古い神殿礼拝を廃棄され、ご自分が過ぎ越しの子羊、いけにえとなり死んで三日目に復活してくださった事をもっともっと感謝しようではありませんか。それによって罪が赦され、神の怒りは去り、聖霊が降り、信じる私たち一人一人が聖霊の宮となったのです。私たちの身体は神様の神殿なのです。ですからわざわざ遠くエルサレムまでいかなくても、私たちはどこにおいても霊と真をもって主を礼拝することができます。そのキリスト者が共に集い、礼拝し、交わるところがキリストの体である教会です。この時代に生まれたことを感謝しましょう。今日の二つ目のポイント私たちは聖霊の宮、神の神殿ということです。
一コリント6:19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。私たちのうちに聖霊が宿ってくださっています。主が私たちのうちに住んでくださっている。私たちは神の臨在を持ち運ぶ者なのです。相変わらず弱さがあり、失敗したり、罪を犯してしまいます。毎日の生活の中で、家庭で、職場で、学校で、み言葉に従えない自分、みじめさを感じることがあります。悪魔はそれに付け込んで「お前はまだ許されていない、神に愛されていない」と噓をささやいてきても「No! 悪魔よ、退け! 私は主のものだ。びくともしない。」と宣言しましょう。エフェソ 1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。天国に行ける保証として聖霊をいただいているのです。私たちは皆、神の子、光の子。聖霊の宮、神の神殿です。
③信仰の成長を求めよう
◆イエスは人間の心を知っておられる 2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 過ぎ越し祭の間とは、「種入れぬパンの祭り」を含む7日間のことと思います。その間、イエス様はエルサレムに留まり、多くのしるし(奇跡)を行ったようです。著者のヨハネは、読者が「イエスは神の子キリスト」と信じることができるようにと、イエス様の行ったしるしをたくさん書いています(ヨハネ20:30,31)。そしてその通り、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じたのです。ヨハネの福音書には五千人の給食や、死んだラザロを生き返えらせたこと、それを見た多くの人が主を信じたと書かれています。確かに人は常識を超えるような奇跡を見れば信じやすくなるでしょう。しかしそれは信仰の入り口で、非常に気まぐれなところがあります。三つの種の例えにも似たようなことが書かれています。マタイ 13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。確かに目を見張るような奇跡は人の心をひき、すぐに信じるかもしれませんが、自分に都合の悪いことが起こると信じることをやめてしまうような気まぐれさが、人にはあります。2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 2:25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。イエス様はそのような人間の特性をよく知っておられたので、すぐにはご自分を委ねることはなさらなかったのです。しかし主は、そのような私たちの弱い信仰をご存知ですが、やがてご利益的な信仰から根を深くはった信仰へと成長し、どんな時も主に信頼し従っていく信仰へと成長していくことを忍耐して待っておられます。ヘブル 11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。神様は私たちの信仰を喜ばれます。今日の最後のポイントは自分の信仰の成長を求めるということです。
今日のポイント
①霊と真をもって真心から礼拝を捧げよう、②私たちは聖霊の宮、神の神殿、③信仰の成長を求めよう
考えてみよう
神様に喜ばれる礼拝をささげるために、どうしますか。