• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年9月10日主日礼拝

説教題:わたしに倣う者になりなさい 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一4章14-21節

4:14 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。 4:15 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。 4:16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。 4:17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。 4:18 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。 4:19 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。 4:20 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。 4:21 あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。

ハレルヤ!9月の第二主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその九回目です。前回のおさらいから始めましょう。4章1-13節から「誰が裁きを行うのか」と題し三つの事を中心にお話をしました。①キリスト者とはキリストに仕える者、②裁きを行うのは主、③全ての物は神から与えられているでした。今日は続く4章14-21節を通し、「わたしに倣う者になりなさい」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリストに倣う

14節から順番に見て参りましょう。4:14 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。「こんなことを書くのは」とあります。今までパウロは分派、派閥抗争に明け暮れるコリントの人たちにある時は厳しく、またある時は皮肉とも言える言葉で語りかけてきました。8節を見てみましょう。 4:8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。痛烈な皮肉です。しかし、今日の箇所の14節以降、パウロの口調には優しさも読み取れます。コリントの人たちの不遜な態度に対してパウロは鋭い皮肉や批判をしてきましたが、その目的は「恥をかかせるため」ではありませんでした。コリント教会はパウロの伝道によって誕生しました。コリント教会の生みの親であるパウロはコリントの人たちを「愛する自分の子供として諭」したのです。この諭すと訳された原語は父親が子どもに与える注意や勧告のときに使う言葉です。道を踏み外してしまった愚かな息子を正しい道に戻すための言葉なのです。テサロケへの信徒への手紙一2章11,12a節には次のように記されています。開いてみましょう。2:11 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 2:12 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。パウロはテサロニケの人たちにもコリントの人たちにも父親の気持ちを持って接していたのです。15節を見てみましょう。4:15 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。「養育係」とありますが、当時、ギリシャ人の富裕層の方が雇っていた年配で信頼の出来る人のことです。子どもの学習を助けたり、通学のおともをしたりする家庭教師のような存在でしたが、養育係の身分は奴隷でした。「養育係」については、開きませんが、ガラテヤの信徒への手紙3章24,25節を後ほど読まれてください。たとえ「一万人」もの養育係がいたとしても父親は一人だけです。パウロはコリントの教会の人々に対してたった一人の父親なのです。パウロとコリントの教会の人々関係は親子という特別なもので養育係では代行できない関係なのです。

16節を見てみましょう。4:16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。「わたしに倣う者になりなさい。」とあります。驚くほどの大胆な言葉です。上から目線で高慢に聞こえるかもしれませんが、勿論、これはパウロ派に加われと言っているわけではありません。自分の足跡に従う者であれという意味です。パウロはフィリピの信徒への手紙3章17節でも「わたしに倣う者になりなさい。」と述べています。開いて見ましょう。3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。パウロは率先して異邦人社会に出て行き、福音宣教を行いました。そこには何のキリスト教の土壌も伝統もない場所です。ユダヤ教の伝承すらなかったことでしょう。どのような組織でも模範となるものや指針となるものが必要ですが、特に初代教会にはそういったものが必要だったのです。当時、新約聖書は未完成でした。従って、身近な人に倣うということが唯一の信仰の学習方法でした。ですから、パウロは「わたしに倣う者になりなさい。」と言うのです。パウロは完全にキリストにあった人でした。つまり、パウロに倣うこととはキリストに倣うことに他ならないのです。パウロはこの手紙の11章1節で次のように述べています。 11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリストに倣うということです。

②キリストの臨在を認識する

では、キリストに倣うとはどのようなことでしょか。それは、具体的にはイエス・キリストとの交わりの中に生きる生活です。ヨハネによる福音書15章にはキリストとの交わりに生きる姿が描かれています。15章4,5節を見てみましょう。 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。キリストとの交わりがぶどうの木と枝になぞられています。キリストに倣うこととは、枝がぶどうの木に繋がっているようにキリストに繋がっている生きる生活です。キリストに繋がっていれば必然的に良い実を結ばせて頂けるのです。良い実を結ぶこと決して私たちの訓練や努力得られるものではないのです。イタリアのウォルデンシアンの谷にある葡萄園の葡萄の木には大きな十字架の添え木がされています。葡萄の枝枝は十字の添え木の上に拡がり、成長に必要な雨と太陽をいっぱいに受け、9月頃になると葡萄の実が重くぶら下がり壮観な光景を見ることが出来ます。この十字架の添え木はローマ帝国の迫害下にあった初代教会のキリスト者の喜びと平安を象徴していると言われています。初代教会のキリスト者は自分自身を聖霊に委ねていましたし、自分自身を十字架につけていたのです。私たちキリスト者がすべきことはいつも聖霊に委ね、自分たちが無価値であることを十分に認め、主にいつまでも繋がり続けることです。人間の人生には苦悩、苦しみが伴います。キリスト者もそうです。晴れの日ばかりではありません。雨に日、雪の日、暴風が荒れ狂う日もあります。大けがをしたり大病になったりすることもあります。ある日突然、愛する者を失う時もあります。また、思いもよらない出来ごとが私たちを襲うこともありますが、これらの事を通して、一層、主イエスとの交わりを深め、神の子として成長するのです。17節を見てみましょう。4:17 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。」とあります。パウロがテモテのことを「愛する子で、主において忠実な者」と表現している通り、テモテは最も信任の厚かった弟子であり、青年伝道者でした。開きませんが、フィリピの信徒への手紙2章19-22節、テサロニケの信徒への手紙二3章2節を後ほど読まれてください。「至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに」とありますが、テモテはパウロの分身でした。パウロの生き方をそのまま踏襲していたのです。ですから、問題だらけのコリントの教会にテモテを送ることで、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせる。」と伝えているのです。パウロの分身とも言えるテモテを通して、パウロの生き方を思い起こし、主イエス・キリストを思い起こして欲しいのです。派閥の問題を速やかに解消し、救われた当時の純粋な信仰に戻ることを心から願っているのです。さて、私たちはどうでしょうか。キリストに逆らうことはしなくても、多忙などの理由でキリストのことをすっかり忘れてしまってはいませんか。私たちに何よりも必要なことはイエス・キリストの臨在をはっきり認識しつつ生きることなのです。聖餐式の時にだけキリストを思い起こしてはいないでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリストの臨在を認識するということです。

③愛を持って悔い改めを促す

18-21節でパウロは自分自身によるコリント教会への訪問について語ります。18節を見てみましょう。4:18 わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。「高ぶっている者がいる」とあります。パウロがテモテをコリントに遣わしたのは、自分でコリントに来るのが怖いからだろうとおごり高ぶりパウロをけなす人たちがいました。コリントの信徒への手紙二10章1節には次のように記されています。10:1 さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。コリントの一部の人たちはパウロがコリントに来るはずはないだろうと高ぶっていたのです。そんな人たちを見据え次のように語ります。19節を見てみましょう。4:19 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。パウロはコリントに来られるはずはないだろうと「高ぶっている者」「主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。」と釘を刺したのです。パウロの行動はいつも御心に沿ったものでした。続いて、「言葉ではなく力を見せてもらおう。」と言い切るのです。ここにはパウロの闘志のようなもの一端が読み取れます。19節と20節に力とあります。この力の解釈には「行動力」、「信仰の力」などいくつかあるのですが、私はカルバンの解釈が一番良いと思っています。「主の御言葉を誠実に解き明かす者たちに与えられている霊的実力」です。20節を見てみましょう。4:20 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。「神の国」とあります。この解釈もいくつかありますが、拡充を補足して「神の国の拡充」という意味で解釈をすればよく分かります。神の国の拡充には口先ではなく霊的実力が求められるのです。パウロはコリントの「高ぶっている者」が使っている立派な言葉ではなく、御心に添った御業を成し遂げる霊的実力を有しているかと問うているのです。パウロはコリントの人たちに口ではなく霊的実力で示せと問うているのです。霊的実力は人を慰め、人を励ますことが出来るのです。この霊的実力が伴わない言葉は空しい言葉です。正にその空しい言葉をコリントの人々は話していたのです。21節を見てみましょう。4:21 あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。「鞭を持って行く」とあります。パウロはことを荒立てたくはありませんでしたが、コリントの信徒の一部の方たちが、いつまでも反省することがなければ、使徒の権威をもってしても彼らを懲罰せざるを得ないのです。しかし、この手紙によって悔い改めるのであれば、父親として「愛と柔和な心」で接し続けるというのです。そのいずれかを選択するのはコリント教会の人々次第ですが、パウロの言葉はけっして脅しではなく、その言葉の奥には深い愛があります。パウロはこの愛をもって、コリントの人たちに反省と悔い改めを促しているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは愛を持って悔い改めを促すということです。コリント教会の派閥、分派に関する問題への記述と学びは今日の箇所で終わります。次回から別の実際的な問題について学びます。

Today’s Takeaways ①キリストに倣う、②キリストの臨在を認識する、③愛を持って悔い改めを促すThinking Time 主イエスと十分な交わりの時を持っていますか