• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年9月3日主日礼拝

説教題:誰が裁きを行うのか

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一4章1-13節(新共同訳新約303-304p)賛美202/45

 ◆使徒の使命 4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 4:3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。4:4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。 4:5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。4:8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。4:9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。 4:10 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。4:11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、4:12 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、4:13 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。

ハレルヤ!9月の第一主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその八回目です。先週は創立記念合同礼拝でしたので、前回のおさらいから始めましょう。3章10-23節から「キリストという土台~信仰をもって教会を建て上げる~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①イエス・キリストが土台、②信仰をもって教会を建て上げる、③キリスト者はキリストのもの、キリストは神のものでした。今日は続く4章1-13節を通し、「誰が裁きを行うのか」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリスト者とはキリストに仕える者

1,2節を見てみましょう。4:1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」とあります。「神の秘められた計画」の部分は口語訳と新改訳では「神の奥義」と訳されています。奥義と聞くと、何かの分野の達人にしか伝えられないことと思うかもしれませんが、「神の奥義」とは人智をはるかに超える救いの経綸です。一言で言えば福音です。牧会者や伝道者だけでなく「キリストに仕える者」は全員が福音の「管理者」なのです。「仕える者」と訳されている原語の元の意味は三段櫂船の下段の漕ぎ手の奴隷という意味です。「管理者」は執事ことです。使用人を管理し、その家の一切を切り盛りする人ですが、キリストの僕にすぎないのです。ですから、「キリストに仕える者」「管理者」はキリストに「忠実」であることが求められるのです。榎本保朗先生はこの箇所の忠実について次のように解説をしています。『「忠実」であるとは、ただ言われたことを実行するだけでなく、そこに秘められた意味、目的を正しく読み取り、それを生かしていくことである。マタイによる福音書25章のタラントンの例えがそうである』と。パウロはキリスト者の在り方を問うています。つまり、キリスト者とは党派や分派の指導者に仕える者ではなく、また、コリント教会にだけに仕える者でもなく、キリストに仕える者だということです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリスト者とはキリストに仕える者ということです。

②裁きを行うのは主

3,4節を見てみましょう。4:3 わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 4:4 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。「わたしに」とあります。これまでパウロは自分自身に加え、アポロやケパを含め「わたしたち」という表現を使っていたのですが、この箇所ではきっぱりと「わたし」と言っています。続いて「あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと」とあります。コリントのある人たちはパウロを理解せずに人格的な非難をしていたと思われますが、パウロは毅然として人の裁きや批評など「わたしは」全く気にしないと言い切るのです。その理由は4節後半の「わたしを裁くのは主」だからです。パウロは自分自身を裁くことをしません。だからと言って自分に罪がまったくないとも言っていないのです。むしろ、テモテへの手紙一で、罪びとの中で最たるものといっています。1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。自分自身であれ他人であれ、人間がおこなう裁きは不完全です。主の裁きのみが完全なのです。パウロは人間の裁きなどに目を止めず、ひたすら異邦人伝道に全力を傾けているのですが、その奉仕の業によって「義とされている」わけではないのです。5節を見てみましょう。4:5 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。「主が来られるまで」とあります。再臨の時までの意味です。再臨は必ず起こり、誰一人として、再臨から免れることは出来ません。「先走って何も裁いてはいけません。」とあります。先程、申し上げたように人間の裁きは不完全で誤りがありますので、むやみやたらに人を裁いてはいけないのです。今日、死刑廃止国は世界の3分の2以上の140カ国になっていますが、死刑の廃止を訴える理由の一つに冤罪が挙げられています。死刑は一度執行されてしまえば取り返しがつかないからです。ここで、恩師の野口誠先生が未信者時代に裁いてしまったお話をご紹介したいと思います。野口先生が小学生の4~5年生の時です。病み上がりの先生のお母さんに注射をするため看護師さんが良く自宅に来られていたのですが、ある時、先生のお姉さんが大事にしている時計がなくなりました。野口家の全員がその時計は看護師さんが盗んだと思っていたのですが、お世話になっていることもあり、黙ってあきらめることにしたそうです。お姉さんが嫁がれて十数年経ち、そんなこともすっかり忘れていたある日、引き出しの奥からその時計が出てきたそうです。野口先生はこう語ります。「私はその看護師さんを10年以上も泥棒だと思っていたのだ。今、思い出しても大変申し訳ないことをしたと思う。だから私はこの『ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。』というパウロの言葉が身に染みるのである」と。再臨を経て最後の審判を迎えます。一切のことが明らかにされ裁きを受けるのです。ですから、その日に先走って裁きをしてはならないのです。裁きを行うのは主なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは裁きを行うのは主ということです。6節を見てみましょう。4:6 兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。「わたし自身とアポロ」とありますが、パウロとアポロとの間には何も問題はありませんでした。ただ、私利私欲に走る不謹慎な者たちが勝手に二人を担ぎ派閥を作り高ぶりになっていたのです。高ぶりとは高慢で、他の人を見下すことです。そこには謙遜のかけらもありません。聖書は一貫して高ぶりを戒め謙遜であることを説いています。開きませんが箴言18章12節、ペトロ一5章1-5節を読まれてください。6節の半ばに書かれているもの以上に出ない」とありますが、これは旧約聖書からの引用ではなく、当時の格言の一つではないかと思われますが、その意味は「人はみな各々に与えられた分限を超えてはならない」ということです。

③全ての物は神から与えられている

7,8節を見てみましょう。4:7 あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。4:8 あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。ここにはパウロの痛烈な皮肉が見られます。コリントの人たちは自分たちの知恵や知識を誇っており、正に傲慢不遜です。一歩譲って、彼らにそのような賜物があったとしても、そのことを誇る理由は全くありません。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。」と修辞疑問文がありますが、神からを補足すると意味がわかります。「いったいあなたの持っているもので、神からいただかなかったものがあるでしょうか。あるはずがない。」です。人間の全ての賜物は神から与えられるものに他ならないからです。4世紀に活躍した司教で神学者のアウグスティヌスはパウロのこの箇所から「ただ恩寵のみ」という主張を行いました。誇るべきものは神で、人は頂いた賜物ゆえに益々謙遜となり、神に感謝をすべきなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは全ての物は神から与えられているということです。「わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。」とあるようにコリント教会の人々は、富み栄えて王様にでもなったような気分だったのです。しかし、パウロや他の伝道者は王様を気取るどころではなく、人々から卑しめられていたのです。元々、信仰とは人を謙虚にするものです。しかし、現実にはなかなか厳しく、時に信仰に燃えている時ほど、高慢になる危険性があります。信仰が自分の自信と化し、自己確信となり、自尊心が高ぶりとなるのです。その場合の多くは他人への裁きとなって現れるのです。9節を見てみましょう。4:9 考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。「まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。」とありますが、パウロは目に見える例えを使っています。当時、ローマの将軍が凱旋行進をするときには戦利品を先頭にし、人々に見せびらかしていました。そして、しんがりには処刑を待つ捕虜がいました。彼らは円形競技場に連れていかれ野獣と戦い殺されたのでした。パウロはこのことになぞり伝道者もまた「世界中に、天使にも人にも、見せ物」とされていたと言います。伝道者を助けるものは誰もいなかったのです。これがコリント教会の実情でした。10節を見てみましょう。4:10 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。「わたしたちは」、「あなたがたは」とあるようにパウロたちとコリントの人々との対比が続いています。元々、パウロは博学多識な人物でした。そのことは使徒言行録26章24節からわかります。見てみましょう。 26:24 パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」。パウロは博識のある人物でしたが、愚かに見える福音のために、あえて「愚か者」になったのです。率直にキリストの十字架を語るためです。一方、コリント教会の人々は、キリストにあっても「賢い者」であるかのように振る舞っていたのです。パウロは弱い者であることを感じていました。しかし、コリントの人々は自信過剰で自負心が強かったのです。尊大な心を抱き、この世に対して地位を誇示し「尊敬」されていたのです。逆にパウロはこの世にあってなんの名誉も求めず、キリストを述べ伝えることに専心し、それゆえ「侮辱」されていたのです。続く11-13節にはパウロが受けた侮辱の具体定な内容が記されています。見てみましょう。4:11 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、 4:12 苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、 4:13 ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。パウロの伝道者としての多難さが三つ記されています。第一に、「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく」とあるように生活の苦しさです。二番目は「苦労して自分の手で稼いでいます。」です。いわゆる自給伝道です。パウロはテントメーカーとして働きながら伝道活動をしていました。テサロニケの信徒への手紙一2章9節を開いて見ましょう。2:9 兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。元来、ギリシャ人は労働を卑しいものとみなす風潮がありました。ギリシャ神話には労働の神が茶番化されたものがあります。ですから、コリントの人々はパウロが自給伝道をしていたのを軽蔑していた可能性があります。三番目は数々の迫害です。それにもかかわらずパウロは「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、 ののしられては優しい言葉を返して」いたのです。英雄を好むギリシャ人にとって、このようなパウロの忍従の態度は好ましくなかったのでしょう。パウロは自分自身の生き方を語りながらも、コリント教会の人々を諫めています。パウロのこの言葉の背後にはイエスキリストの苦難が見え隠れしています。キリストは十字架の上で大きな苦難を背負われました。この十字架の苦難を背負うのがキリスト者の在り方です。主イエスご自身も次のように語られています。最後に、マタイによる福音書16章24節を開いてみましょう。16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。パウロは傲り高ぶりから目を覚まし、自らを低くし、コリント教会の人々にも十字架の苦難を背負って欲しいと訴えているのです。

Today’s Takeaways ①キリスト者とはキリストに仕える者、②裁きを行うのは主、③全ての物は神から与えられている

Thinking Time 背負うべき十字架は何でしょうか。