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2024年1月7日主日礼拝

説教題:全ては神の栄光のために 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一10章23節-11章1節

◆すべてを神の栄光のために 10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 10:24 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。10:26 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。 10:27 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。 10:28 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。10:29 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。10:30 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。10:33 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

ハレルヤ!1月の第一主日を迎えました。本年もよろしくお願いいたします。引き続きコリントの信徒への手紙一を講解で学びます。今日はその21回目です。では、いつもように前回のおさらいから始めましょう。前回は、10章14-22節を通し、「どちらの盃を飲みますか~神を侮ってはいけない~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①偶像礼拝は避け続ける、②偶像の背後には悪霊がいる、③決して神を侮ってはならないでした。今日は続く10章23節-11章1節を通して「全ては神の栄光のために」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①神が造られたものは全て良いもの

23,24節から順番に見て参りましょう。10:23 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。10:24 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。パウロはこの手紙の6章12節で述べたキリスト者の一般的原則をもう一度説いています。確認をしてみましょう。6:12 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。既に学んだ通り、キリスト者は主イエスの贖いにより罪の奴隷から解放され自由とされた者です。しかし、なんでもかんでも好き放題に出来るわけではありません。教会生活を正しく行うためには、この自由を制限しなくてはならない場合があるのです。どんなに自由であっても周りの方や自分自身に益とならないこと、また、人の徳を高めないことはすべきではないのです。フィリピの信徒への手紙2章4節には次のように記されています。開いて見ましょう。2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。全ての人が自分のこと、自分の利益になる事ばかり考えずに他人の事、他人の利益となることを考えて生きるべきなのです。25,26節を見てみましょう。10:25 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。 10:26 「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。「市場で売っているもの」とあります。その中には偶像に供えられた肉もありました。8章で学びましたが、神殿や偶像に捧げられた肉は祭壇で焼かれ、残りは祭司のものとなり、家畜を捧げた人に返されたり、市場に払い下げられたりしていたのです。知識派と呼ばれるキリスト者から見ればギリシアの神々などは偶像にすぎません。しかし、一方で、パウロは信仰の弱い人を躓かせない配慮が必要なことと偶像の背後には悪霊がいることもと述べてきましたが、「良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。」と勧告をし、8章からここに至るまでの結輪を語ります。その理由が「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。鍵括弧の部分は詩編24編1節からの引用です。確認をしてみましょう。24:1 【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。何でも食べて良いのです。全ては神のものであり、神が備えられたものだからです。そのことに感謝して食べれば一つとして善くないものはありえないのです。テモテへの手紙第一4章4節に記されている通りです。開いてみましょう。 4:4 というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。今日、先ず覚えて頂きたいことは神が造られたものは全てが良いものということです。

②配慮すべき方を見逃さない

27節を見てみましょう。10:27 あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「信仰を持っていない人から招待され」とありますように未信者方から招かれて、ご馳走になる場合のことです。その時に出された料理が供え物に使われたものかどうかなどと「いちいち詮索せず、何でも食べなさい。」とパウロは勧めます。穏やかな気分で出された食事を楽しめばよいのです。この説教を準備している時に、私自身もこれと似たようなことを経験したことを思い出しました。私は33歳の時に原因不明の胸の痛みで一年位苦しんだ事があります。病院を転々としたり、伯母の紹介でお祓いのようなところにも行ったりしたのですが、一向に治りませんでした。そんなある日、医食同源であることの本を読み、それ以前の暴飲暴食をやめビーガンになりました。ビーガンとは肉類に加え、チーズも卵も食べない徹底した菜食主義者です。45歳でキリスト者となり、カリフォルニアの牧師宅で一か月ホームスティをしたことがあります。その時に、ピザや肉料理、卵料理など普段、私が口にしない料理が出ました。初めはお世話になっているので断ることもせずに嫌々食べていたのですが、マタイ6章31節の御言葉を読みました。6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それ以降、自宅では積極的にピザや肉料理や卵料理は食べませんが、招かれた場合に出された場合には感謝して食べています。28,29節を見てみましょう。10:28 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。10:29 わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。『「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら』とあります。偶像に供えられた肉かどうかがわからない場合は気にすることなく食べてもよいのですが、明らかに「偶像に供えられた肉」の場合は食べてはいけないと勧告をします。「良心」とありますが、「そのように言う他人の良心のこと」で具体的には弱い良心のことです。弱い信仰とも言えます。異教の影響が残っていて、小さな躓きでも大きな影響を受け、信仰までも失いかねないという意味です。パウロはそのような良心のある人に配慮しつつも、「わたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。」と語るように、あくまでもパウロは自発的に愛の心を持って自由を制限しているのです。30節を見てみましょう。10:30 わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。「感謝して」と二回記されていますが、原語を見ますと「恵みによって」とも訳すことが出来ます。信仰の強いキリスト者が偶像に供えられた肉を食べることも、元をただせば神の恵みがあったからなのです。この恵みに感謝していることに対して、誰からも「悪口を言われる」理由は何一つないのとパウロは語ります。信仰の強い人が恵みに感謝して何を食べようと問題ではありません。躓きを起こさせないために周りの方への配慮が大事なのです。カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者であるマザーテレサには数々の名言がありますが、来日したマザーテレサは次のように述べました。「大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対して、愛を持って接することだ」、「日本人は他国のことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」と。さて、私たちはどうでしょうか。終わりの見えないロシアによるウクライナへの侵略戦争、ハマスによるイスラエルの武力行使、天変地異、新年早々、北陸で震度七の地震が起こりました。戦争や災害により、多くの方が家族や家を失い、貧困にあえいでいます。こういった方々に愛の手を差し伸べることは、とても良いことです。私たちの教会でも、災害の都度、募金を寄付しています。しかし、一方で配慮すべき身近な方や隣人愛をもって接すべき周りの人を見逃してはいないでしょうか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは配慮すべき方を見逃さないということです。

③全ては神の栄光のため

31節を見てみましょう。10:31 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。この31節はキリスト者の生活にとっての大原則で、この手紙の主題とも言えます。キリスト者がこの世に生かされている究極の目的は「神の栄光を現すため」です。日常生活の全てにおいて、このことを常に念頭に入れて過ごすべきなのです。宗教改革者のルターは「信仰のみ」を唱え、人は信仰のみによって救われることを強く主張しました。ルターと並ぶ宗教改革者のカルバンは「ただ神の栄光のために」と唱えました。カルバンのこの言葉はこの31節からとったものと言われています。カルバンの流れをくむ「ウエストミンスター教理問答集」の問い1は「人のおもな目的は、何ですか。答え1は「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」となっています。キリスト者が生きる、生活をするのは自分の主義主張や立場のためではなく、ただ神の栄光のため生きて行動すべきなのです。このことをパウロはコリント教会の人々に語っているのです。何故、ただ神の栄光のため生きる、行動をするのかの答えが、コリントの信徒への手紙二5章14,15節にあります。開いて見ましょう。5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは全ては神の栄光のためということです。

イエス・キリストが私たちの罪のために死んでくださったということは、私たちも罪に対して死んだことを意味します。その罪とは何でしょうか。罪の最も奥深いところには自我、自己中心があります。自分のために生き、自分のために行動をするという生き方ですが、罪に死ぬことによってイエス・キリストを中心として生きるようになることなのです。キリスト者はイエス・キリストを中心として生きる。そのキリストは他者のために十字架に掛かられたのです。十字架を仰ぎ見る時に、他者のために死なれたイエス・キリストを覚えます。十字架の死はイエスご自身の罪のための死ではありません。他者のための死なのです。ですから、イエス・キリストのために生きようとして十字架を仰ぎ見れば他者が視野に入るはずなのです。パウロが8,9,10章で語ってきたことの根底は他人への配慮です。キリストが示された隣人愛の実践とも言えます。開きませんが、のち程、 8章13節と9章19節を読まれてください。パウロは他者のために生きることを述べてきました。私たちもパウロに倣い他者のために生きようではありませんか。32節を口語訳聖書と一緒に見てみましょう。10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。10:32ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。( 口語訳)口語訳では「つまずきになってはいけない」と訳されています。キリスト者は神の栄光を現わす者であって他者に躓きを与える存在ではありません。「ユダヤ人、ギリシヤ人」とありますが、この箇所の意味は未信者のことです。キリスト者は未信者に躓きを与えてはいけませんし、「神の教会」に集う兄弟姉妹にも躓きを与えてはいけないのです。教会には信仰の弱い兄弟姉妹もいるのです。そのような方を躓かせて神の栄光を汚すような結果を招いてはならないのです。33節を見てみましょう。10:33 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。パウロは31,32節でキリスト者の心がけについて述べましたが、33節では自分の覚悟を語っています。「人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて」とあるようにパウロは常に他人のために生きて、行動をしたのです。そのために喜んで自身の自由を制限してきたのです。決して迎合主義だったわけではありません。11章1節を見てみましょう。11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。パウロは自分のキリスト者としての覚悟を述べた後に、「あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」と大胆に命じています。しかし、この命令はけっして独りよがりのものではなく、「わたしがキリストに倣う者であるように」と前提がありますので、深い謙遜の気持ちも現わしているのです。最後に、テサロニケの信徒への手紙一2章8節を開いて見ましょう。2:8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。キリストは自分の命を他人のために捧げました。同様に、パウロは信仰を共にする友のために「自分の命さえ喜んで与えたいと願った」のです。まことにパウロは私たちが信仰生活の模範として仰ぐべき人物なのです。

Today’s Takeaways①神が造られたものは全て良いもの、②配慮すべき方を見逃さない、③全ては神の栄光のため

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