• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年2月11日主日礼拝

説教題:教会は生命的、有機的な結合 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一12章12-31節

◆一つの体、多くの部分 12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 12:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 12:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。 12:31a あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。 ◆愛 12:31 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

ハレルヤ!2月の第二主日を迎えました。コリントの信徒への手紙一を講解で学んでおり、今日はその25回目です。前回のおさらいから始めましょう。前回は、12章1-11節を通し「霊的賜物」と題し三つの事を中心にお話をしました。①信仰とは聖霊の賜物、②各人に異なる賜物が与えられている、③賜物は全体の為に与えられているでした。今日は続く12章12-31節を通し「教会は生命的、有機的な結合」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。キリスト者には様々な賜物が与えられています、今日の箇所で、パウロは、その賜物が十分に発揮され、教会がその使命を果たす姿を人間の体に例えて描き出しています。

①キリストに結ばれている

12節から見て参りましょう。12:12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。「多くの部分」とあります。口語訳では「肢体」と訳されていましたが、今日の箇所では、両手両足だけでなく、目、鼻、耳、口などの器官も含まれていますので、「多くの部分」の方が適切です。また、多くの英語の聖書では「many members」と訳されています。人間の「体は一つでも」そこには多くの部分があるのです。体は「多くの部分」から構成されていますが、本質的に一つの体です。古代ギリシアの哲学者のプラトンは「私の指が痛む」とは言わずに「私は痛む」と言ったそうです。同様に、キリストの体なる教会も「多くの部分から成り」たっているのです。教会には賜物に応じた色々な務めや働きがありますので、それらを行う人も様々です。ローマの信徒への手紙12章4,5節を開いて見ましょう。 12:4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、 12:5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。キリスト者はキリストの体なる教会に属しており、皆がキリストに結ばれているのです。教会は様々な人から成りたっていますが、各自がキリストに結ばれていると言うことが大事なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは各自がキリストに結ばれているということです。

②教会に来る人に上下優劣はない

13,14節を見てみましょう。12:13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。12:14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。「ユダヤ人、ギリシア人、奴隷、自由な身分の者」とあります。今日、奴隷制度はありませんが、当時、教会にくる方の中には人種や社会的身分の差がありました。しかし、人種や身分にかかわらず、「一つの霊」、つまり聖霊の導きにより、「一つの体となるために洗礼を受け」ているのです。開きませんがこの手紙の6章9-11節を読まれてください。14節に「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」とあります。洗礼を受けるとはキリストの体なる教会を構成する一つ一つの部分となるためなのです。15,16節を見てみましょう。12:15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 12:16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。「足、手、耳、目」と体の部分の名前が挙げられています。足の働きは手の働きと異なります。同様に耳の働きも目の働きとは異なります。足が手と異なり、耳が目と異なるからと言って、体の一部であることにはかわりがありません。それぞれが体にはなくてはならない大切な一部なのです。教会においても賜物が違っているからとて、他人を羨む必要もなければ、自分を卑下する必要もありません。そのために教会から自分自身を疎外する理由などなおさらないのです。17,18節を見てみましょう。12:17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。12:18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。「もし体全体が目だったら」とあります。私が子どもの頃にゲゲゲの鬼太郎という漫画が流行りました。鬼太郎の父親は目玉おやじという設定なのですが、あくまでも漫画の世界で、主なる神がおつくりになったものではありません。目玉おやじは人間の想像イマジネーションであり、神の創造クリエイションではありません。もし、人間の目が耳より尊いといって、体の全ての器官が目になってしまったら聞くことは出来ません。教会においても同じことが言えます。ある特殊な働きや務めを高く評価し、全ての信者がそれのみを慕うとしたら、その教会は正常な活動など出来るはずがありません。主はご自身の御体である教会に賜物が活かされるようキリスト者を適材適所に置かれます。キリストの体なる教会が全体として生かされるためなのです。私たちはキリストの体であり、キリストの業をなすための手であり、キリストを宣べ伝えるための足なのです。ですから、たとえどこに置かれたとしても感謝し、その働き務めを果たすべきなのです。つぶやく理由も権利もないのです。19,20節を見てみましょう。12:19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 12:20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。人間の体には様々な器官があって、一つ一つがその機能を発揮する時に体は完全なのです。教会においても、いろいろな賜物に恵まれた人が、同じキリストの体に属するという全体意識のもとに助け合い、補完し合っていくことがなによりも大事なのです。ホーリネス教団には主任牧師、名誉牧師、引退牧師、副牧師、協力牧師、勧士、役員、会員、客員という様々な肩書がありますが、これらも上下優劣の関係ではありません。役割がことなるだけの横並びの関係なのです。歯車とも言えます。個々がおのおのの役割を果たして、全体としてキリストの栄光を現わすのです。

PPT21節を見てみましょう。

12:21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

目も手も頭も足も体の一部であり、それぞれが備えられているのには目的があり、そこには上下優劣はありません。ですから、「お前は要らない」とかお前たちは要らない」などとは言えないのです。教会においても、このような排他的精神があってはならないのです。22節を見てみましょう。12:22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。「ほかよりも弱く見える部分」とあります。主イエスはご自身の御体である教会に弱いもの、おさな子も招きました。これらの人たちも教会にとって必要な存在なのです。聖書学者のウイリアム・バークレーは次のように述べています。「教会の中で重要なのはわれわれであると思い始めるやいなや、まことにクリスチャンらしい働きの可能性は失われてしまう」と。今日、二番目に覚えて頂きたいことは教会に来る人に上下優劣はないということです。

③教会は生命的、有機的な結合

23,24節を見てみましょう。2:23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 12:24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。人間が衣服によって「恰好が悪いと思われる部分」を美しく見せようとするように、神は「見劣りのする部分」を、より美しく見せようとするとパウロは語ります。これは、教会の中に優れて貴く価値のある人とか、そうで無い人がいると言う意味ではありません。神の前に不必要で無価値な日と人はひとりもいないのです。賜物の違いはあります。5タラントの人や、2タラント、1タラントの人もいますが、これらの人々はお互いに別の人を必要としているのです。新共同訳では「組み立てられました。」と訳されていますが、原語の元々の意味は「混ぜ合わせる」です。体の中の「恰好が悪いと思われる部分」が美化される。それにより全体の調和が図られるのです。その理由が25節です。25節を見てみましょう。2:25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。教会においても弱い者が大事にされなければなりません。一致して「互いに配慮し合」いつつ実を結ぶのです。強い者は弱い物を馬鹿にしたり、無視したりしてはいけません。全ての信者が一致して主にある兄弟姉妹としていたわり合うところにキリストの教会の姿があるのです。エフェソの信徒への手紙4章16節を開いて見ましょう。 4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。教会には生命的、有機的な結合が求められる。これが真の教会のあるべき姿なのです。26,27節を見てみましょう。12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。人間の体は有機的な組織です。指先を切ってしまった場合でも、それ以外の箇所に痛みを感じるものです。だとしたらキリストの体なる教会もなおさらのことなのです。ローマの信徒への手紙12章15節を開いて見ましょう。 12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。27節は12以降の結論、要約とも言えます。この体の器官例え一つの地域教会のみならず、地域教会同士、教団同士の関係を考える上での基本的なことになります。礼拝中、私たちは使徒信条で「聖なる公同の教会を信ず」と告白をしていますが、これはキリストの名によって成り立っている世界中の諸教会をキリストの大きな体とみなす信仰です。八街栄光キリスト教会も日本ホーリネス教団もこのキリストの大きなからだの一部に過ぎないのです。地域教会や教団も体の一部なのです。今日、三番目に覚えて頂きたいことは教会は生命的、有機的な結合ということです。続く、28-31節では話題が体の例えから教会の運営にかわります。

④賜物の違いにより補完し合う

28節を見てみましょう。12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。28節には初代教会における8つの働き人が記されています。初めの三つ(使徒、預言者、教師)は教えることをなす者です。使徒とはイエスキリストによって任命された職務ですので、初代教会に限定されたものです。預言者や教師は広義で言えば説教者も含まれます。次の二つ(奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者)は実際的な活動を行う者です。その次の二つ(援助する者、管理する者)は社会的弱者を助けたり、教会の事務や運営をしたりする者です。そして、「異言を語る者」です。異言については14章で詳しく学びます。教派による解釈の違いについてもお話をします。29,30節を見てみましょう。2:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。29,30節は修辞疑問分ですので、「であろうか、だろうか」の部分を否定形に置き換えると真意がわかります。キリスト者にはそれぞれ異なる賜物が与えられています。また、教会には異なった奉仕活動の場があります。全ての人が同じ務めをすることは適切でないばかりか、教会の正常な運営に支障をきたすことにもなるのです。違った人が違った務めを分担し、互いに助け合ってこそ教会は生かされるのです。司会や奏楽といった目立った働きをする人だけが教会に必要なひとではないのです。「皆が」7回も記されていますが、教会ではみんなが賜物に応じてそれぞれの奉仕、働きをするのです。そのことにより教会は形成され成長をするのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは賜物の違いにより補完し合うということです。31節を見てみましょう。12:31あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。「もっと大きな賜物」、「最高の道を教えます」とあります。12章の結尾の句であるとともに13章へのつなぎとなる言葉ですがが、一体何なのでしょうか。答えは「愛」です。愛こそ賜物の中で最も尊いものなのです。このことについては次回に学びます。

Today’s Takeaways

①キリストに結ばれている、②教会に来る人に上下優劣はない、③教会は生命的、有機的な結合,\、④賜物の違いにより補完し合う

Thinking Time 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いていますか