• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年2月18日主日礼拝

説教題: 愛、最高の賜物 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一13章1-13節

13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

ハレルヤ!2月の第三主日を迎えました。コリントの信徒への手紙一を講解で学んでおり、今日はその26回目です。前回のおさらいから始めましょう。前回は、2章12-31節から「教会は生命的、有機的な結合」と題四つの事を中心にお話をしました。①教会は様々な人から成る、②教会に来る人に上下優劣はない、③教会は生命的、有機的な結合、④賜物に応じて各自が務めをおこなうでした。12章31節を見てみましょう。12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。 ◆愛 12:31 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。霊の賜物は限りなく豊です。「イエスは主である」という信仰告白を与えてくださる。主エスを信じる者ひとりひとりに賜物を与え、務めを与え、主のための働きをなさせてくださるのです。一人一人に与えられた賜物は異なりますが、賜物が一つに結び付きキリストの体なる教会を建て上げるためには共通項が必要です。そのことをパウロは「大きな賜物」「最高の道を教えます」と言いますが、それが「愛」なのです。新共同訳聖書の12章31節の後半からの小見出しは愛です。新約聖書で「愛」と訳されている原語は三つあります。先ず、「エロス」という言葉です。肉体的な愛という意味で、英語のeroticの元となった言葉です。エロ本のエロもそうです。次が「フィリア」という言葉、友愛と言う意味です。最後が「アガペー」という言葉です。報いを求めずに注ぎ尽くす愛です。人間で言うと母親の子どもに対する愛がアガペーに近いと言われています。先日、本棚を整理していたら「大切な物」と書かれた箱がありました。有価証券でも入っているかと期待しつつ、中を開けてみると、私が海外や地方にいた時に送った手紙や写真が入っていました。私は目頭があつくなりました。今日の箇所の愛は「アガペー」で、「アガペー」の最高の現われは十字架です。ヨハネによる福音書15章13節を開いて見ましょう。15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。この愛がἀγάπηνです。今日、学ぶコリントの信徒への手紙一13章は一般に「愛の章句」として聖書の中でもっとも知られている箇所の一つです。結婚式でこの箇所からメッセージをされる牧師もいます。パウロの基調、基本的な考え方は愛が御霊の賜物の中で最高のものだということです。今日は13章1-13節を通し、「愛、最高の賜物」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①愛の根拠はキリストの十字架

では1節から順番に見て参りましょう。13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。「わたしは」とあります。「愛」(アガペー)について語るパウロは、自分自身の事として愛を語ります。「人々の異言、天使たちの異言」あります。異言を話したり、天使の語るような美しい言葉を語ったりしても、「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」と言うのです。「どら」、「シンバル」とありますが、いずれも異教の祭事や行列の時に使われたもので、コリントの人々は良く知っていました。どちらも響きはとても大きいのですが、何の意味もなかったのです。私たちが、どんなに人の驚くような不思議な言葉を語れるとしても、また、上手に福音を述べ伝えることが出来たとしても、そこに愛が無ければ口先ばかりの空しいお話にすぎないのです。パウロは語る人でした。彼は三回も伝道旅行をし、コリント教会の他に、エフェソ、テサロニケ。フィリピ等の地に教会が生まれました。これはパウロの宣教がいかに力強いものであったかを証明するものです。このように力強く語ることのできるパウロ自信が、もし愛がばければどんなに力強く見える宣教も、ただ騒がしいだけだと語っているのです。2節を見てみましょう。13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。「預言する賜物」とあります。開きませんが、預言についての記述が使徒言行録21章1-16節に記されています。簡単に要約しますと、パウロは第3回世界伝道旅行の帰路、急いでエルサレムに向かっていきます。それに対して、ルカたちは、パウロに、エルサレムへ行かないように訴えたのです。預言者たちが、パウロがエルサレムで捕らえられるという預言をしたからです。パウロは熱心なユダヤ教徒でしたので、旧約聖書の「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じて」いました。主イエスと出会ってからは益々知識を増すことに研鑽に励んでいたことでしょう。そして、「山を動かすほどの完全な信仰を持って」いました。この信仰については使徒言行録27章22-25節に記されています。要約しますと、ローマに護送されるとき、囚人であり一人の乗船者に過ぎなかったパウロが、この船の実質的な指導者となったのです。船はマルタ島に打ち上げられ、別の船を造って無事にローマに到着したのです。パウロは神が自分をローマに遣わそうとしていることを確信していました。かならず神はそれを実現されるお方だと信じていたのです。このパウロの信仰は周囲の誰もが望みをすてた暴風雨の中にあっても、ゆるぐことがなかったのです。そればかりか、このパウロの信仰が人々を励まし、望みを与えつつ、ローマに導いたのです。これほどの信仰を持っていたパウロですが、「愛がなければ、無に等しい。」と語るのです。3節を見てみましょう。13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。パウロは自分自身が、全財産投げ出し、自分が処刑されるために自分自身を差し出すという高潔な死も「愛がなければ、わたしに何の益もない。」と言うのです。この愛についてコリントの信徒への手紙二5章13-15節には次のように記されています。5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。 5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。十字架の上で他者のために命を捨てられたイエス・キリストの愛。パウロはこの愛を受け取り、このキリストの愛に押し出されて生きているのです。パウロが力強い宣教を行ったのも、深い奥義と知識に到達したのも、強固な信仰を持って生きたのも、持っているすべての物を捧げることも、全てこのキリストの愛から始まり、キリストの愛を根拠としていたからです。今日、先ず覚えて頂きたいことは愛の根拠はキリストの十字架と言うことです。

②恵みによって愛は可能となる

では、この愛とは具体的にどのようなものなのでしょうか。そのことが、続く4節以降に記されていますが、愛はこうします。愛はこうしません。というように愛が擬人化されて描かれています。4節を見てみましょう。13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。「忍耐強い」、「情け深い」という二つの肯定の言葉から始まります。別の聖書では「寛容」、「慈悲深い」と訳されています。「寛容」が「愛の広さ」を言い表しているとすれば、「情け」は「愛の深さ」を表していると言えます。続いて「ねたまない、自慢せず、高ぶらない」と三つの否定の言葉が挙げられています。「ねたむ」を漢字で書くと二つあります。「妬む」と「嫉む」です。ほぼ同義語ですが、「妬み」と「嫉み」の漢字を足したものが「嫉妬」です。他人の成功や優越性に嫉妬してしまうのは、結局は自分自身に愛が欠けているからです。親の場合は自分の子どもの成功や優越性に嫉妬することはありません。むしろ、自分の喜びとなるでしょう。そこに愛があるからです。「自慢せず、高ぶらない。」「ねたみ」の感情を裏返ししたものと言えます。他人が自分の持っていないものをもっているとねたみ羨みます。逆に自分が他人の持っていないものをもっていると自慢し、高ぶってしまうものなのです。ねたみの心は、他人への中傷となり、悪意となり、悪行となるように、高ぶりの心も他人を傷つけてしまうものなのです。しかし、そこに愛があれば、他人を見下す高慢や傲慢にならないはずなのです。5節を見てみましょう。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。四つの否定の言葉が記されています。他人に対して高慢、傲慢にならなければ、当然「礼を失」することはありません。愛のある心は他人のことを思い「自分の利益を求め」ないものです。自分の利益だけを押しとうそうとすると、そこには常に争が起こるのです。「いらだたず」とあります。自分の利益だけを求めようとする人は、自分の思った通りにならないとすぐにいらだつのです。この感情は、人間がもっているもっとも原始的な感情ですが、他人を傷つけてしまうものです。「恨みを抱かない」ありますが、同段落PPT文語訳では「人の悪を念(おも)はず」です。「念う」には教える、帳簿に記入するという意味があります。私たちは自分の欠点や短所には無神経ですが、他人の失敗や欠点については、一々これを数え上げ、心の帳面に付けてなかなか忘れないものです。愛は他人の過失や失敗を忘れてゆくこととも言えるのです。これは個人間のことだけではなく、民族間、国家間にもあてはまると思います。世界の平和、主の平和を祈りましょう。6節を見てみましょう。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。「不義を喜ばず」とありますが、聖書学者のウイリアム・バークレーは「すべての邪悪なことを喜ばない」と訳した方がベターと述べています。「他人の不幸は蜜の味」、「他人の不幸でメシがうまい(メシウマ)」という言葉を聞いた事がある方もいると思います。他人が幸福となったときよりも、不幸になった話を好むという意味ですが、キリスト教が教える愛は他人の悪い噂話を喜ぶようなことをまったく持ち合わせていないのです。続いて「真実を喜ぶ」とありますが、これは、人間をとことん愛し赦そうとする愛の真実です。この真実は行動的なものです。主イエスの十字架で成し遂げられているからです。アガペー、キリスト教の愛は思想ではありません。イエス・キリストの十字架の出来事として私たちに迫ってくる、真実の愛なのです。テサロニケの信徒への手紙二2章12節にも同様な御言葉がありますので、開いて見ましょう。 2:12 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。人は誰でもいつか裁きの場に立たされます。キリスト者もそうですが、キリスト者は無罪の宣告を受け天国に行きます。しかし、「真理を信じないで不義を喜んでいた者」が悔い改めない場合の行先は天国ではありません。7節を見てみましょう。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。「忍び」のと訳されている原語には「そのままにする」という意味があります。英語で言えばRemainです。ですから、愛は他人の傷をほじくり返すことではなく、そのままにしておくことなのです。包み込むものなのです。「すべてを信じ」とありますが、神との関係において、神の約束の確かさと善とを絶対的に信じるのです。「すべてを望み」とありますが、たとえ絶望の中にあっても神の善意を信じ、将来の御業に期待するのです。「すべてに耐える」とありますが、「耐える」と訳された原語の意味は「何々の下にとどまる」です。4-7節に記された愛の内容のことは自分には無理と思うかもしれませんが、同段落PPTローマの信徒への手紙5章5節を開いて見ましょう。 5:5 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。恵みによって与えられる聖霊の働きにより、この愛は可能となのです。今日、二番目に覚えて頂きたいこと恵みによって愛は可能となるということです。

③愛は永遠に続く

パウロは7節まで愛の具体的な内容について語ってきましたが、8節以降では愛の永遠性について述べています。8-10節を見てみましょう。13:8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 13:9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 13:10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。コリント教会の信者には様々な賜物が与えられていました。その代表的なものとして「預言、異言、知識」が挙げられていますが、これらのものは「一部分、部分的なもの」と語ります、そして「完全なものが来たとき」、つまり、キリストの再臨、新天地が現れるときに、「預言、異言、知識」は部分的で完全ではないので廃れてしまうのです。地上の富などは言うまでもありませんが、どんな有益な知識であっても預言であっても再臨、新天地には不用なのです。11節を見てみましょう。13:11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。パウロは前節の「完全なもの」「部分的なもの」の関係を「幼子」「成人」の考え方の差に例えます。幼子は未完成です。しかし、成人すると子ども時代の考え方では通用しなくなるのです。パウロはこの例えを用いつつ、賜物が与えられているのにも関わらず、それを主のために用いていないコリント教会の人々の幼児性を暗示しているのです。12節を見てみましょう。13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。12節にはもう一つの例えが記されています。鏡で見る姿と、じかに見る姿との差です。コリントの街は鏡の産地として有名でしたが、当時の鏡は銅などの金属を磨いたもので出来ていましたので、自分の顔がはっきり見えなかったのです。私たちの主イエスに関する知識もこの鏡のように不完全なものです。しかし、再臨の日には主と直接、顔と顔を合わせてお互いに見ることになるのです。何たる光栄、喜びでしょうか。その時、私たちの見えないものを信じる信仰は成就し、私たちを支えていた希望が現実のものとなるのです。13節を見てみましょう。13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。「信仰、希望、愛」とありますが、「信、望、愛」と短縮して言う場合もあります。パウロはこの「信、望、愛」について他の書簡でも記しています。開きませんが、テサロニケの信徒への手紙一1章3節、5章8節、コロサイの信徒への手紙1章4,5節を後ほど読まれてください。パウロは数ある御霊の賜物の中で「信仰、希望、愛」「いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と言います。何故、愛がもっとも大いなるものなのでしょうか。ヨハネの手紙一4章8節を開いて見ましょう。 4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は愛なのです。神の本質は愛なのです。この神の愛によって救われたキリスト者には御国を受け継ぐ御霊の保証を受けているので、一度与えられた愛は永遠に続くのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは愛は永遠に続くということです。

Today’s Takeaways 

①愛の根拠はキリストの十字架、②恵みによって愛は可能となる、③愛は永遠に続く

Thinking Time

心の中で他人の傷をほじくり返していませんか