• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年5月19日主日礼拝

説教題: 聖霊充満を祈り求めよう!~Perfect Gift~ 聖書箇所:使徒言行録2章37-42節

2:37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。 2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 2:39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

ハレルヤ!5月の第三主日を迎えました。今朝は、聖霊降臨日、ペンテコステを記念する礼拝です。ペンテコステはクリスマス、イースターと共に教会の大切な行事です。イースターから50日目に行われます。イースターが毎年、日付が変わりますので、連動して、ペンテコステもが毎年、日付が変わります。来年、2025年は6月8日です。「使徒言行録」は口語訳聖書では「使徒行伝」と言い、それゆえ「聖霊行伝」とも言われています。使徒が働いたということよりも、使徒を通して聖霊がどのように働かれたかが記されているからです。ですから、このことを覚えて「使徒言行録」を読みたいと思います。使徒言行録2章は三つに分けることができます。1-13節には聖霊が降ったこと。14-36節にはペトロが語った説教です。聖霊が降ってからの最初の説教です。そして、今日の聖書箇所の37-42節にはペトロが語った説教を聞いた人々の行動が記されています。「聖霊充満を祈り求めよう!~Perfect Gift~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①説教の中心は神の愛と十字架

先ず、どのような状況で聖霊が降ったのかの確認のため2章1節を見てみましょう。2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、「五旬祭の日」とあります。五旬祭は元々ユダヤ教の三大祭(過越祭、仮庵祭、五旬祭)の一つで、過越の祭から50日目にあたる祝祭日です。三大祭には、ユダヤ人の男子はエルサレム神殿に巡礼しなければなりませんでした。2章15節に「今は朝の九時」とありますが、この時刻は、エルサレム神殿の近くの人は神殿に来て祈る時刻、また、遠くに住む人はエルサレム神殿に向かって祈る時刻でした。エルサレムが最もにぎあう日、時刻だったのです。このような多くの敬虔な人々がエルサレムに集まっている日時に聖霊が下ったのです。続いて「一同が一つになって集まっている」とありますが、何のためでしょか。主イエスが約束された聖霊が与えられるように熱心に祈っていたのです。主イエスは天に戻られる前に次のように弟子たち聖霊をお与えになる約束をしました。ヨハネによる福音書の14章15,16節がそうです。新共同訳聖書の小見出しは「聖霊を与える約束」です。15,16節を開いてみましょう。 14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。「別の弁護者」とありますが、聖霊の別名です。37節を見てみましょう。人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」と記されています。人々はペトロの説教に心うたれたのです。人々はペトロが使徒たちを代表して語った最初の説教を聞いて大いに心を打たれたのです。聖霊が働いて下さることによって、ペトロの言葉が人々の心を大いに打ち、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いを生んだのです。彼らはペトロら使徒たちを「兄弟たち」と呼んでいるのです。それは、同じユダヤ人の兄弟、というだけの意味ではないでしょう。彼らは、自分たちの深い罪を指摘するペトロらの言葉に、兄弟としての愛を感じ取っているのです。罪を指摘するこの言葉の中に、救いがあることを感じているのです。聖霊によって語られた恵みの御言葉に大いに心を打たれて、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うことこそ、信仰の始まりなのです。この37節から良い説教とはどのような説教であるかがわかります。良い説教とは聞いた人に行動変容がともなうものなのです。ペトロが語った説教に人々は心うたれ、次に自分たちがどうすれば良いかとたずねました。ペトロが語った説教は実に良い説教だったのです。今日で言えば、伝道集会で多くの人が救われる説教です。では、ペトロが語ったその説教はどういった内容だったのでしょうか。ペトロが語った説教の結論が今日の聖書箇所の直前の36節です。見てみましょう。2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」ここには、イスラエルの人々が犯した大きな罪が指摘されています。主イエスを十字架につけて殺した罪です。主イエスこそ、神から遣わされた救い主です。主イエスは、数々の奇跡や不思議な業によってそのことをお示しになっていたのに、あなたがたはその神からの救い主を受け入れずに、十字架につけて殺してしまった、とペトロは語ったのです。人々が「大いに心を打たれ」「わたしたちはどうしたらよいのですか」と訊ねたのは、自分たちがそのように大きな罪を犯してしまったということを示され、愕然としたからだと言えるでしょう。私たちが大いに心を打たれ、揺さぶられ、このままではいけない、変わらなければならない、変えられたいと願うようになるのも、自分の罪をはっきりと示され、指摘される時です。とりかえしもつかない罪を犯してしまった、という事実に愕然とする時、「わたしたちはどうしたらよいのですか」という問いが生まれるのです。神様のみ言葉はそのように私たちの心を打ち、揺さぶります。聖霊の働きによってみ言葉が語られる時、私たちは自分の罪を示されて愕然とするのです。逆に言えば、聖霊が働いて下さらなければ、私たちは自分の罪に気づくこともなく、従って「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問うこともないのです。 ペトロの説教はイスラエルの人々の罪を指摘し、断罪しただけではありませんでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という言葉には、イスラエルの人々の罪を超え、救いのみ業を達成して下さった神様の愛の現われである恵みが示されています。罪が指摘されていると同時に、その救いと赦し、人間の罪に対する神様の恵みが宣言されているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは説教の中心は神の愛と十字架ということです。

②神様の贈り物は良いもの

38節を見てみましょう。人々のこの問いに対しするペトロの答えが記されています。 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。「悔い改めなさい」とあります。神様の遣わされた救い主イエスを十字架につけて殺してしまった、そのとんでもない罪を悔い改めることが求められているのです。悔い改めとは心の向きを変えることです。心の向きを自分向きから180度転換し神様向きにかえることです。単に「ああ悪かった。悪いことをしてしまった」という悔恨の情、自分のした間違いなどを反省して悔やむということではないのです。そして、悔い改めには信仰がその裏付けとなるのです。ですから、「悔い改めなさい」に続いて、「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と命じているのです。ただ単に悔い改めただけでは、罪の赦しの恵みにあずかることはできません。悔い改めたうえで主イエスを救い主と告白する必要があります。そして、洗礼はその信仰告白を外に広く知らしめることとも言えます。洗礼を受けることにより目に見える、確かなしるしです。確証です。 宗教改革者のマルティン・ルターは、自身が疑いの嵐に飲まれそうになったり、また魂の試練にあったりする度に、自分にこう言い聞かせたと言われています。「静まれ、マルティン、お前は洗礼を受けているではないか。」 神から与えられた、洗礼という消えない確かな救いのしるしが、自分に刻まれているのです。その恵みの事実は、消えないのです。 どのような試練の時も、また心が神から離れてしまいそうになる時も、未だ自分が罪の中に捕らわれているように感じてしまう時も、洗礼という、決して取り消されることのない、神の永遠の恵みのしるし、救いの確かな保証が与えられています。自分自身がどれだけぐらついても、ルターが言ったように、いつだって神に立ち帰る確かな原点があるのです。罪の赦しは自分で獲得するものではなく外から与えられるものです。自分で作り出したり獲得できたりするものではないのです。そして罪の赦しを与えることができるのは神様のみです。私たちの罪を本当に赦す権威と力を持っているのは、神様だけなのです。イエス・キリストの名によって洗礼を受けることは、この神様による罪の赦しをいただくことです。神様は、その独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。この主イエスの十字架において、私たちの罪の赦しが実現しています。神様はその主イエスを復活させることによって、主イエスを信じる者に罪の赦しと新しい命の恵みを与えることを約束して下さったのです。主イエス・キリストの名による洗礼は、私たちが、主イエスを信じて、その十字架の死と復活とにあずかり、罪の赦しと新しい命をいただくために神様が与えて下さるものです。そして、この洗礼と結びついているのが、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」ということです。賜物として聖霊とありますが、英語の聖書ではgift of the Holy Spirit.です。この箇所の賜物はギフト、贈り物です。贈り物というと「お中元」や「お歳暮」などの儀礼的なものを連想してしまいますそうではありません。私の友人が結婚した時、結婚祝いで似たような物をいくつも頂き困っていました。彼は私に言いました。「伏見さん、ぶっちゃけどうしたらいいかなぁ。売るのもなんだか気が引けるしなぁ」と。私は「そうだよなぁ」としか言えませんでした。人間の贈り物にはこういったことがありますが、神様からの贈り物はどうでしょうか。ヤコブ1:17aを見て見ましょう。 1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです神様が私たちにくださる贈り物は良い贈り物、完全な賜物なのです。つまり聖霊は完全な贈り物なのです。よく考えてください。聖霊は主イエスとともに三位一体なる神です。つまり、聖霊を頂けることは神様を頂けることと本質的に同じなのです。今日、二番目に覚えて頂きことは神様の贈り物は良いものということです。

③聖霊は誰にでも与えられる

ペトロはさらに39節でこのように語っています。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」この約束は今も真実です。神の賜物、賜物としての聖霊は、すべての人に差し出されているということを覚えましょう。エルサレムでペンテコステの出来事を見ることができた世代だけでなく、その子々孫々にいたるまでも、また、そのときそこにいた人たちだけでなく、どこの国の人、どの民族、どの階級の人であっても、すべて、イエスを信じ、キリストに従う者には聖霊が与えられるのです。自分の罪を悔い改め、キリストを信じる者に、神は、聖霊を、賜物としてくださるのです。聖霊は私たちの努力によって勝ち取るものでも、特別なことができた人に与えられる報いでもありません。それは父なる神からの愛の贈りものです。キリストは救いのわざを終えて父なる神のもとに帰られましたが、それで弟子たちを導く者のないままになさったのではありません。ご自分の代わりに、聖霊を遣わしてくださいました。主ご自身がこう語られています。ヨハネ16:7を見てみましょう。16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。なぜ益なのでしょうか。公生涯中、主イエスは肉体をお持ちでしたから、限られた時に、限られた場で、限られた人としか会えません。しかし、聖霊は霊ですから、いつでも、どこでも、だれとでも会えます。聖霊は信じる者に新しいいのちを与え、神の子どもとして生まれかわらせ、信じる者と共にいて、神の子どもたちを見守り、養い、育ててくださるのです。神からの賜物を受け取りましょう。今日、三番目に覚えて頂きことは聖霊は誰にでも与えられるということです。

④聖霊充満を祈り求める

40-42節を見てみましょう。2:40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。 2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。2:42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。「邪悪なこの時代から救われなさい」とあります。悔い改めること、洗礼を受けることに続いてペトロが勧めた三番目のことです。この鍵括弧の部分は申命記32章5節からの引用です。32:5 不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ/その傷ゆえに、もはや神の子らではない。この箇所にはユダヤの民が神の子でなくなってしまったことが記されています。ペトロは悔い改め、主の御名によって洗礼を受けることは腐敗、堕落したユダヤの民から引き離されることで、真のイスラエルに導き入れられることを申命記から引用し伝えているのです。「三千人ほどが仲間に加わった」とあります。聖霊に満たされた説教、御言葉には力があります。また、このことは主イエスご自身の約束が成就したことでもありました。ヨハネによる福音書14章12節を開いてみましょう。 14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。この三千人もの救われた方はローマ帝国のあらゆるところから来ていたので、自分たちの場所に戻り、その場所でペトロの説教を伝え広めた、キリストを証し続けたのです。まさに「大きな業」が行われ続けたのです。このようにキリストの証しは伝えられ続けて、当時からみれば地の果てともいえる日本にも届いたのです。42節にはこの救われた三千人もの方が熱心におこなっていた四つのことが記されています。口語訳聖書の方がわかりやすいので、口語訳を使います。2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。【口語訳】一つ目が「使徒たちの教を守」ったことです。使徒の教え、これは今日で言えば聖書と言えます。熱心におこなっていた二つ目のことが、「信徒の交わり」です。交わりには縦と横の二種類があります。縦の交わりとは神とキリスト者の交わりで、横の交わりとはキリスト者同士の交わりです。縦の交わりをしっかりすることによって、初めて横の交わりが出来るものなのです。三つ目のことが、「パンを裂くこと」です。少し先の46節に一緒に食事をし」とありますので、「パンを裂くこと」は食事の意味ではありません。聖餐の意味です。四つ目のことが、「祈ること」です。先程、縦の交わりについて話しましたが、祈りは縦の交わりとも言えます。この箇所の祈りは個人的な祈りではありません。今でいう祈祷会です。熱心に祈祷会を開いていたのです。聖霊が注がれたのは、ペンテコステ(五旬節)の日でした。主イエスが十字架に掛けられ、復活されてから50日目、神のご計画により弟子たちは聖霊を受けたのです。ペンテコステの日が来たら全員が自動的に聖霊を受けたのではありません。主イエスの言葉、約束の聖霊に心を合わせて祈りつつ、ひたすら待っていた人の上に注がれたのです。恵みによって贈り物として与えられた聖霊はそのままで良いのでしょうか。最後にエフェソの信徒への手紙5章18節を見てみましょう。 5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、パウロは聖霊に満たされることを進めています。聖霊に満たされ続けることが全ての信仰生活のベースなのです。聖霊に満たされるここを信じ祈り続けましょう。今日、最後に覚えて頂きことは聖霊充満を祈り求めるということです。

Today’s take-aways

①説教の中心は神の愛と十字架 ②神様の贈り物は良いもの ③聖霊は誰にでも与えられる ④聖霊充満を求め祈る

Thinking Time 頂いた良い贈り物をしまったままにしていませんか