• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年6月9日主日礼拝

説教題: 御子の権威~恵みを逃がすな~ 聖書箇所:マルコによる福音書1章21-34節(

◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす 1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 ◆多くの病人をいやす 1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。 1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 1:33 町中の人が、戸口に集まった。 1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

ハレルヤ!6月の第二主日を迎えました。先週は、かね子先生に黙示録を紐解いて頂きました。感謝します。マルコによる福音書を講解で学んでおり、今日はその四回目です。前回のおさらいから始めましょう。1章14-20節を通し、「キリスト者の召命」と題して三つのことを中心にお話をしました。①悔い改めと信仰は表裏一体 ②主はご覧になっている ③キリスト者は主の弟子として召されている でした。今日は続く1章21-34節を通して「神の子の権威~恵みを逃(の)がすな~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①主の臨在のない会堂は悪霊が住みやすい

21節から順番に見てまいりましょう。1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。「一行は」とありますが、イエスと最初の弟子のペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの五名です。何故、カファルナウム行ったのでしょうか。「カファルナウム」はガリラヤ湖の北側にある町で、当時のこの地方の中心的な都市です。ここを拠点に活動を開始したのです。イエスのガリラヤでの活動の中心は「カファルナウム」でした。「会堂」とあります。英語ではsynagogueですが、シナゴーグは日本語にもなっています。バビロンの捕囚から帰ってきたユダヤ人たちが、失われた神殿に代わって、この会堂をあちこちに作り礼拝をしたり、律法を学んだりしていました。後に、神殿が再建築されても会堂、シナゴーグは存在し続けたのです。町や村には必ず会堂があり、安息日に礼拝が捧げられるだけではなく、学校、法廷、宿泊所、今日で言う公民館のような役割もありました。22節を見てみましょう。1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。人々は主イエスが語られた教えに非常に驚きました。その理由が「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」です。律法学者たちの教えは律法を拡大解釈し状況に合わせていましたので、祭司と比較すると進歩的であったと言われています。しかし、主イエスの教えは神の霊を受けた預言的なものであったため権威があったのです。ここには一人の学者が教えているのではなく、神の子が立っていたのです。そのことは人々を驚かせるのに十分だったのです。人々はイエスの斬新な教えに聞く耳をもっていたとしても、イエスがメシアであることは理解できなかったのです。これは隠された奥義であり人間の知恵によってわかるものではありません。ところが、この奥義をしっていたものがいたのです。23,24節を見てみましょう。1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」「汚れた霊」はこの奥義、イエスの正体が「神の聖者」であることを知っていたのです。「汚れた霊」悪霊がそのことを知っていたのです。悪霊とはサタン、悪魔の手下で人間を堕落させることを常にもくろんでいます。人間以上の力をもっているのです。この悪霊にとってもっとも恐れるべき存在が「神の聖者」である主イエスなのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」とある通りです。イザヤ書40章25節とヨハネによる福音書6章69節を開いてみましょう。イザヤ40:25 お前たちはわたしを誰に似せ/誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。ヨハネ 6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」旧約時代には神が聖なる神と言われていますが、新約時代は主イエスが神の聖者と言われていることがわかります。この23,24節から大事なことがわかります。「会堂に汚れた霊に取りつかれた男」がいたということです。「会堂に汚れた霊に取りつかれた男」はこの日に初めて会堂に来たのではなく、前から来続けていたのですが、主イエスが来られた時に助けられたのです。主イエスの臨在のない会堂は悪霊が住みやすいものなのです。これは今日の教会でもまったく当てはまります。悪魔の働きによって教会を混乱させたり、分裂させたりするキリスト教系の新興宗教があるのです。このキリスト教系の新興宗教信者によって巧妙な手口により実際に乗っ取られてしまったり分裂をしてしまったりした教会もあるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは主の臨在のない会堂は悪霊が住みやすいということです。

②主イエスのお言葉には権威がある

25,26節を見てみましょう。1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。イエスはこの「汚れた霊」「黙れ。この人から出て行け」と叱って苦しむ男を助けました、このことは悪霊を征服したことなのです。ヨハネの手紙一3章8節を開いてみましょう。 3:8 罪を犯す者は悪魔に属します。悪魔は初めから罪を犯しているからです。悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。26節に「その人にけいれんを起こさせ」とあるように、主イエスがなされた奇跡は病気が癒されたことで表されている場合が多いです。この出来事は、主イエスの権威を余すことなく示すものでした。この出来事を見た人々は驚き恐れて次のように言いました。27節です。1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」この出来事は正に、主イエスの御言葉の権威を示す出来事だったのです。人間の言葉でも力があります。30年近く前のことですが、私が働いていた韓国系企業のCEOの方のメッセージがとてもパワフルだったことを覚えています。まして、神の御子の言葉には更なる力があることは当然のことです。この時代には多くの悪魔払いをする人がいました。彼らは魔術、魔法、呪文などを用いていましたが、主イエスは会堂において権威のあるたった一言の言葉で癒しが完了したのです。神がこの世界をお創りになった時、神の一声で万物の存在が始まりました。創世記1章3節とコロサイの信徒への手紙1章16節を開いてみましょう。創世記1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。コロサイ1:16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。このようにして、神が命じられと次々に天地万物が存在し始めたのです。空も海も、陸も、植物も、天体も、魚も鳥も動物も人間も全てが神の発せられた言葉により創造されたのです。その、時に御子も一緒にいて同じくみ言葉を発して万物を創造されたのです。この力ある御子の言葉によって万物は征服されたのです。今日、二番目に覚えて頂きことは主イエスのお言葉には権威があるということです。今日の説教の準備をしているときに1970年代にヒットしたオカルト映画のエクソシストを思い出しました。悪霊に取りつかれた少女を二名の神父が悪霊払いをするというフィクション映画ですが、今日でも悪霊追い出しをされている牧師がいないわけでもありません。8年前に召天をしていますが、ホサナ福音キリスト教会の主任牧師だったエステル朴先生です。何回かお会いしたことがあります。私は直接、悪霊追い出しの場面を見たことはないのですが、バケツ一杯の汚物のようなものを口から吐き出して悪霊が追い出されたようです。恩師の故尾山令仁先生も立ち会われていましたが、尾山先生から「悪霊追い出しも大事ですが、悪霊に取りつかれないことがもっと重要です。」と習いました。悪魔は巧妙です。いつかなるときにでもキリスト者を誘惑し堕落させることを目論んでいます。では、私たちは悪魔に対してどのように対処すればよいのでしょうか。エフェソの信徒への手紙6章10-13節を開いてみましょう。新共同訳聖書の小見出しは「悪と戦え」です。6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。悪と戦うために神の武具を身に着けようではありませんか。

③神の恵みは信仰をもって受けとめる

28節を見てみましょう。1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。しかし、皮肉なことに「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広ま」るにつれ、イエスは理解されないメシアとして、苦難の道を歩まなければならなかったのです。29-31節を見てみましょう。1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。 1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。「すぐに、」とあります、汚れた霊に付かれた者を癒された御業は、安息日に会堂で行われましたが、その足で「シモンとアンデレの家」に行き、ここでも御業を行われたのです。このような行為は律法学者からみれば律法を破ることになるのですが、イエスにとっては本質的に律法学者とは違ったもので、ユダヤ教の律法主義を乗り越える「権威ある新しい教え」だったのです。すなわち、御業、奇跡はイエスが神から遣わされたメシア、救い主であることを示すためのものであり、また、「神の国」が近づいたしるしでもあったのです。「熱は去り、彼女は一同をもてなした」とありますが、当時は女性と男性と同じように扱われてはいませんでした。同じ食卓で女性が男性をもてなすことはできなかったのです。しかし主イエスはペトロの姑の奉仕を喜んで受け入れたのです。「もてなした」と訳された原語は過去に一度だけあったことを示す不定過去形ではなく未完了形です。このことからペトロの姑は主イエスに奉仕をし続けていたことがわかります。ペトロの姑は主イエスの最初の女性の弟子といえるでしょう。イエスのガリラヤ伝道の中心はカフェナウムですが、具体的には「シモンとアンデレの家」が拠点だったと考えられます。イエスはここに泊まることを習慣としていたのでしょう。32-34節を見てみましょう。1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。 1:33 町中の人が、戸口に集まった。 1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。「夕方になって日が沈むと」とあります。律法学者にとって、安息日とは完全に神のためにある日で、人間は如何なる働きもしてはならず、ただ神のことを思う日です。イエスが安息日に汚れた霊についた者やペトロの姑を癒したことは神に背くことであり、決して、許されることではなかったのです。しかし、「病人や悪霊に取りつかれた者」にとって、主イエスの御業は慰めと希望を与えるものだったのです。ですから、人々はすぐにでもこの「病人や悪霊に取りつかれた者」を主イエスのもとに連れていきたかったのです。しかし、安息日の掟を破ることはできないので、安息日が終了する夕方まで待ってから行動をおこしたのです。エレミヤ書17章24,25節を開いてみましょう。 17:24 主は言われる。もし、あなたたちがわたしに聞き従い、安息日にこの都の門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、 17:25 ダビデの王座に座る王たち、高官たち、すなわち車や馬に乗る王や高官、ユダの人々、エルサレムの住民が、常にこの都の門から入り、この都には、とこしえに人が住むであろう。当時のユダヤの時の計算は日没から日没が一日です。時計のない時代ですので、空に星が三つ現れた時点で一日が終了します。土曜日の安息日が終わり、日曜日が始まったことを示しているのです。主イエスは悪霊を追い出すとき次のように語られました。「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたから」です。既に学びましたが、悪霊には超自然的な力があり、イエスがどのようなお方なのかを知っていたのです。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」とある通りです。何故、主イエスは悪魔がイエスの正体を人々に告げることをさせなかったのでしょうか。諸説あるのですが、主イエスが真のメシアと人々に理解させるには時期尚早だったのです。単に奇跡をおこなうものと誤解されてしまう可能性があったのです。また、イエスの御業が悪霊によって宣伝されたら迷惑千万とも考えられます。34節から大事なことがわかります。「多くの悪霊を追い出して」とあるように全ての悪霊を追い出したわけではないのです。多くと全てとは全く異なります。この日、多くの人は悪霊を追い出されたのですが、そうでなかった人もいたとのです。せっかくイエスのところに来ながらも信じようとしなかった人たちがいたのです。それゆえ、イエスの御業を受けることができなかったのです。主イエスは「あなたの信仰があなたを救った。」とよく言われました。一か所だけ開いてみましょう。マルコ5:34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。開きませんが、ルカによる福音書7章50節、8章48節、17章19節、18章42節にも「あなたの信仰があなたを救った。」記されています。残念ながら全ての病人が信仰で癒されるわけでもありません。その理由は神のみぞ知ることですので、神の恵みは信仰をもって受けとめることが必要なのです。いくら恵みが注がれても、それを受けとめなければ無意味なのです。不信仰ゆえに神の恵みを逃がしてしまうのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは神の恵みを逃さないということです。

Today’s Takeaways

①主の臨在のない会堂は悪霊が住みやすい ②主のお言葉には権威がある ③神の恵を逃さない

Thinking Time 

具体的に神の武具とは何でしょうか(エフェソの信徒への手紙6章14-20節を読まれてください)